今日は撮影日和

Raicho9の贈る、鉄道&ノラ猫のフォトページです。

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大塔村立阪本小学校

2017-08-17 20:45:05 | 廃校舎


1873年は明六社の明治6年に誕生した、歴史ある奈良県吉野郡大塔村立阪本小学校

1947年度から、大塔村立に変わりました



1957年11月に建てられたこの校舎は2017年で60年の節目の校舎

1986年度をもって、統合により閉校となったようです

なんといっても、急峻な山かつ、厳しい階段の上に建っているので、引いての全体が写せない



階段の下からはこんな感じ

玄関に近づきます



阪本小学校の校章と、時を刻むのをやめた時計



しかし、時計があるべき場所はここで合ってますが、この向きに時計を掲げたところで

校庭からは木々に隠れて見えない以前に、高低差が大きくてそもそも見えません

そのくらいの高低差があります

村に学校を作ろうにも、山間で土地がないことから、苦肉の策でこの急斜面を切り開いたと思われます

阪本小学校は4段の高さに分かれています

一番下の高さに校庭、その次に校舎、その上の段には学校園、畑、温室、そして一番上の段には教員宿舎でしょうか



そして校章のステンドグラスもどきをアップで

阪本なので、阪の字が中心に、その周りを10のカタカナの「モ」が縁取っています

阪に、モが10でさかもと・・・?

ユニークな校章です



チラチラと立て看板が見えましたが、それでも五條市のやさしさでしょうか

当然そんなわけはないですけど、校舎の扉は開いていました

扉から中を覗いた、1階廊下の様子

お邪魔します



木枠の窓から柔らかい光が降り注ぐ・・・中で、中央辺りの床が緑色に見えます

ここだけ、雨漏りにより床が傷んでいて踏み抜けそうです



すぐの壁面に飾ってあったのは、星座の絵かと思いましたが、よく見るとただの絵とは違います



電池がつながっているこれは、スイッチを入れると豆電球が光る代物です

悲しいことに、ずっと差しっぱなしだっただろう電池は噴いていました

子どものアイデアだったのか、教員の工夫かわかりませんが、面白いです

時は流れ、今ならLEDかな、それとも麦球と3種類使えば星の明るさも表せそうだなと思ったり



どうやら校舎の基礎は石造りのようで、玄関周りの一部はその基礎がないことから、床がかなり抜けていましたが、それ以外はしっかりしています

階段もどんどん上がって2階へ行くと、オルガンが廊下に並べられています

ただでさえ斜面なので、日を遮る構造物はありません

その南側の廊下に並べられたオルガンは、傷み放題でしたが、ひときわ、もう朽ちているのが1台

どうやらここの天井が雨漏りしていて、このオルガンを直撃しているようです

そして、その真下の床も傷み、1階の天井から滴り、最初の1階の床に落ちて行っているようです





珍しく、2階にステージのある講堂があり、阪本小学校歌が掲げられていました

2番の歌詞に出てくる猿谷ダムは、阪本小学校の眼下に広がるもの

その猿谷ダムは1957年完成ですので、冒頭の校史からいくと、おそらくこの新校舎完成を記念して作られた校歌と考えるのが自然でしょうか

しかし、猿谷ダムを調べると、歴史あるダムだけにそれはそれは悶着が絶えなかったダムのようですね

そしてこれら一連のダムは灌漑目的のものであり、洪水が起きないように調節する機能は一切ないというものだそうで

そんなダムあるんですね、知らなかった・・・国交省直轄ダムでは、ここと芦別ダムだけらしい

そのため、悶着して作ったダムがあれども、大雨のたびに結局洪水が起きる、なんということでしょうか



それはさておき、校舎から出て裏へ(校庭レベルから数えて3段目)

なんとなく踏みしめられた道を上がると、校舎の2階レベルまで上がります

見渡す限りの山

冬の雪深さを物語るのは、屋根瓦の雪止め

厳しい自然とともに生きています



散々お伝えの通り、4段に分かれている各段とも日当たり良好なので、この段には学校園があったようです

その名残と思しき温室

いや、それにしては新しい感じを受けなくもない

そしてその背後、最高段に見えるのが教員宿舎と思しき平屋



急に近代的になり、写欲減退、これ以上踏み込んでいません

しかし、中央に見える玄関の造りが住宅としてはおかしいので、家ではないのかもしれません

体育館ではないし、最高段にそびえるこの建物はなんだったんでしょうか

今になって、中を覗いておけばよかったと後悔





戻って、一番低いレベルには、なんとプールもありました

推定15mプールですが、閉校年の1986年を鑑みても、プールのない学校は数多ありましたから、改めて、阪本小学校が立派なものだったことがうかがえます



校門から校舎を望む

1階は木枠でしたが、2階に輝くアルミサッシが残念

それでも風格あります





校舎内に残されていたポジフィルム

右上の文字は「保体委」、児童が3人と紅白玉が見られます

運動会前後における保健体育委員の仕事を記録した1枚でしょうか







阪本小学校、校舎内には現役時代のものがよく残っていました

読書感想文の名前はぼかしています

課題にした図書は1985年刊行の「5年1組ラブレター作戦進行中」・・・最後の夏の読書感想文でしょうか

それにしても、この辺のものは学校に置き去りはまずいのでは

誤字そのままを見ると下書きでしょうが、ぜひ朱書きを入れて返却してほしいところ



最後に、玄関の内側にびっしり掲げられていたのは、寄付を表す札

これ以外にもたくさんの方の名前がありました

多くの人たちに支えられ、愛される阪本小学校、山奥に静かに眠る素敵な学校でした

お邪魔しました

2017.08.13/五條市 旧阪本小学校
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そろそろ

2016-01-11 01:02:47 | 鉄道
怒られそうなので、鉄道の写真も載せておきます

とはいっても、見ての通り夏を最後に(福井は行きましたけども)まともに撮ってないんですね



あえて低いレベルから撮ってやろうと待っていると変なのが来ます

来ると分かっていれば普通に撮ったのに



変な構造物がないので、スッキリですね

でもスッキリしすぎて、微妙に傾いているような気がしつつも、直せない



変な動物除けのない先頭の南紀

キハ85も20年近く経っているわけですが、未だに通用しているいいデザインですね

これでキハ40も完全に消えるということで、撮っといてよかったです

行かん行かんと無下に断られつつも、粘り強く誘い続けてくれて感謝です


最近撮りたいと思ったものといえば、北近畿タンゴのKTR001ですが、不定期すぎて、しかも急で平日が多くて、行けないかなあ

あとは大阪しなの・・・はどっちでもいいか

霜取りクモヤ、クモヤ443辺りも、気になるが、あとは環状阪和の103・・・?


2015.08.18/紀勢本線 六軒~高茶屋
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旧八橋小学校

2016-01-11 00:53:19 | 廃校舎
このところ行きすぎて、もう寝てたって行けるようになってしまった設楽町

今度は設楽ダムに沈む運命にある場所にあった一校、八橋小学校



平屋の美しい木造校舎は、換算18㎜で引いても収まり切らなかったほど大きい校舎でした。



時計は6時間目の終わりに近い時刻、そわそわし出す時刻を指したまま、止まっていました



手前から、教室棟、給食室(植込みの奥)、講堂(ステージ付き体育館?)、給食室のすぐ上には教員宿舎がありました。

しかし、下調べでは運動場は住民の憩いの場になっている云々だったにもかかわらず、かなり荒れている様子。

設楽ダムの立ち退きで、周りは家もなくなっている・・・これでも、やはり不穏な空気に気付くことができず、阿蔵小と同じ「また来よう」を誓ってしまいました。


年が明け、いろいろ行きたいところやまだまだ残る新たな廃校舎よりも、どうしても八橋小学校に行きたくなり、もはやすれ違う車もほぼ
なくなった県道10号を走り、八橋小学校が見える直線に入ると、道路側に真新しい防音シートが・・・新調したドラレコに、悲痛の叫びが録音されました。



初めに訪れたのは11月15日でしたから、解体の始まる5日前だったんですね。

予告もなかったので、そんなことは露知らず。



あわてて運動場へ飛び込むと、間に合ったうちに入りそうなくらいの残り方ではありました。

皮肉なほど青い空が掘り返された土の白さ、瓦のない屋根とも相俟って、とてもまぶしいです。

なんだか前より小さく見えました。



もろもろの廃棄物をはじめ、扉、窓、瓦も撤去されていました。

時計は相変わらずの15時12分。

もろともユンボに吹き飛ばされるのでしょうか。



無人となった集落、正月休みの現場は静かに最後の時を過ごしていました。

あれから一週間、なにせ周りに人がいないので情報が皆無ですが、あらかたぶっ潰されてしまったのでしょうか。

もう、八橋小学校へ行く気はなくなりました。


八橋小学校、また詳しく書きたいと思います。

2015.11.15,2016.01.04/設楽町 旧八橋小学校
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旧阿蔵小学校

2015-12-06 23:03:03 | 廃校舎
廃校シリーズ2校目

豊田市の岡崎寄りに位置する阿蔵にある、旧阿蔵小学校



立派な石造りには

愛知県東加茂郡阿蔵尋常高等小学校

まあ、これは古い小学校の門柱によくあるタイプ



しかし、対になる左側の門柱には

明治23年から昭和10年まで存在した実業補習学校の文字

これはなかなか

ちなみに、上の門柱の裏には昭和8年と刻まれており、こちらの裏にも文字があったんですが、「四」とだけしか範読できず

あまり情報がないので何とも言えませんが、校庭の石碑に開校100周年を愛知県知事である桑原幹根が一筆書いていることから、桑原が退いた1975年から100年遡っても1875年は明治8年で、今年で140周年・・・



静かに眠る職員室棟(手前)と体育館(中央)

運動場には、無数の轍 このときに不穏な空気を察していれば・・・



阿蔵小学校は、大きく5棟に分かれており、渡り廊下で結ばれていました

南の職員室棟、北の教室棟、西の理科棟、職員室棟東の体育館、そしてその東の校務員室と思しき棟

まずは小さな職員室棟から



メインの職員室

閉校以外に、この黒板がまっさらになることはありません

最後に黒板を消した先生は、どんな気持ちだったんでしょうか



小さな二段式の行事予定表のあった、この玄関隣の一番いいポジションは校長室でしょうか

職員室から続いていることを考えればそうなんでしょうが、廊下側の扉に少し威厳がありません



正面玄関から中を覗く

右手の壁の裏は、さきほどの校長室の黒板になります

左手は手前が保健室、奥が更衣室となっていました

突き当りのアルミサッシが残念

しかしながら、2008年閉校とあってか、とてもいい状態で、少し手を入れればまだまだ使えそうな雰囲気



これはどこだったか、確か職員室棟の東端、体育館寄りの部屋だったと思います

和室なので宿直室かな、にしては広いので、なんでしょう

ひと晩4~5000円が相場だった宿直、やりたかったなあ、むしろ払ってでも一度やりたい

でも、見たところシャワー室がなかったような



各棟をつなぐ渡り廊下にも、小学校ならではの光景



北側の教室棟の入口から

最後に塗り直したのか、塗装がテカテカしてます

木のまま、多くの人の手で擦れて角がツルツルになってるのも味がありますが、こうして塗られてるのもまたいい感じです



そんな教室棟の東外側に付いていた、抜けそうな金属製の非常階段から教室を見る

どういう造りなんでしょうか、廊下のない設計のためか、各教室が扉でつながっています

チャイムが鳴ってしまったら最後、教室に戻るためには非常階段か、隣のクラスの授業を跨いで来るしかなかったのか・・・

それとも非常階段じゃなく、外階段だったのでしょうか



これは教室棟を北から見た様子

左の金属部分が、件の非常階段、ではなく外階段なんでしょうね

結構強引に作った様子が伺えます

部屋は全部で6

階段部分には、先の写真からも分かるように採光窓が大きく取ってあります

ちゃんと考えられた設計です

教室プレートを見る限り、中高学年は複式だったので、残りの部屋は図書室・音楽室辺りに転用されていたんでしょう



続いて、体育館を飛ばして東の端の校務員室らしきというか、小使いさんの住んでいるような建物

右はポンプ室とあります

左の扉の奥は、僅か3畳ほどの小部屋でした

さすがに狭すぎるかなとも思いますが、見える扉の下が三和土のように見え、その手前に一枚扉があったとしたら、玄関に見えなくもないです



理科棟は飛ばして、これは体育館にあった校歌

ちょっと雑な感じを受けました

これはレプリカで、現役時代の本物は合併先の巴ヶ丘小学校で大事に保管されているとか、そんなだといいですが

これでは、作詞作曲もわかりませんし

で、アンコ狩りとはなんでしょう

夏に、狩るもの・・・?

一応同じ地方で生活しているつもりですが、まったくわかりません





体育館の南側外壁と、北側にあった扉

鉄板とアルミサッシでガッチリ補強した南の壁面とは裏腹に、薄く華奢な、しかし歪みのないきれいな扉

ノブと鍵穴がいい感じです

いい感じにつられて、思わずノブに触ると・・・あれ

軋むことなくスッと開いてしまった

この際なので、自己責任で少しだけお邪魔することに

問題があればご連絡ください



あちこち近代化されているのが残念ですが、こぢんまりとしたあたたかそうな体育館

サイズが小さいせいか、天井も低く、水銀灯ではなく蛍光灯装備です

真ん中のラインは換気口ですか なかなかオシャレです

ただ一応、運動目的の場所において、むき出しの蛍光灯もあるとは大胆ですね

そして、もう一つむき出しなのが後方の窓



奥は配膳室でした

センターも遠いでしょうし、この感じは結構晩年まで、もしくは最後まで自校方式だったように見て取れます

誰が悪いわけではないんですけど、ぬるい牛乳と冷めた味噌汁、半分融けた冷凍みかんなんかは、何か悲しいものがあります

せめて夏場の牛乳くらい冷やしておいてくれてもバチは当たるまい



外へ戻って、運動場の東端には荒れた観察棚と山積みのベンチ


で、ここまでが2015年3月22日の旧阿蔵小学校

今日、フィルムで撮り直そうと思ってふらっと寄ると・・・



は?

そこにあるべきものがなかったときの衝撃はすごい

何もない



慌てて調べると、4月17日より4ヵ月ほど掛けて解体を終えた様子・・・合掌



階段の先にあった職員室棟が



ない



ベンチは最後に捨てるのか不動、引き抜かれたホースと朝礼台が集められていました

地面の無数の枝は、この奥に生えていた木々の残骸でしょう

観察棚の成れの果てかもしれません



朝礼台から校舎跡地を眺める

体育館跡に代わりに建ったのは、地域交流センター

それなら、すぐにでも使えそうだった職員室棟と体育館を耐震化して使っておくれよ・・・

自分が地域のじじいにだったら、かつての小学校を使い回してくれた方が愛着沸くけどなあ、そうも行かなかったんだろう

縁もゆかりもない阿蔵小学校でしたが、少し寂しさを覚えました

そして、3月に「また寄ればいいや」と油断して理科棟を残して帰った自分が憎らしい

廃校舎に、「また」はないんですね

この隣の三巴小学校もぶっ壊されたらしいですね


どうでもいいですが、公立の学校が解体されることって、新聞はさておき回覧板なんかには載るんでしょうかね

私は阿蔵小学校とは遠く、関係のない人間なのでアレですが、自分の母校が知らない内に解体されました、もう跡形もありませんなんてなったら、やるせない気持ちで一杯になりそうです



フィルムで撮れなかったので、苦し紛れのモノクロ加工でした


2015.03.22*2015.12.06/豊田市 旧阿蔵小学校
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萩野小学校笈松分校

2015-11-22 22:25:48 | 廃校舎
また福井に行きました

もちろん、203目当てで。たまたま県民福井か何かに廃車云々の話が載ったようで、いよいよというところ

前回の時のままF1000は休車なので、最近は土休日の昼間運用にも入っている様子だったので、レンタカーまで用意して、朝からいざ待ち構えること2時間

そもそも前夜の武生新に610と602がいたので、こいつらは来ると思いつつ、逆に203は出てこないんじゃ・・・



とりあえず、田原町から変な時間に折り返す610は回送、このまま入庫

そして空は雲に覆われ、また変な時間に踏切が鳴ると



あゝ無情・・・602も回送

本線上から203はおろか、大型が消えてしまいました

あとは、待てど暮らせど770、880、800が来るばかりでは、もう用事はない


せっかく足があるので、山を越えた越前町へ・・・





庭のような運動場に、珍しく2階建ての木造校舎



ここは、萩野小学校笈松分校

つい11年前の2004年まで現役だった分校



この辺にあるべきはずの時計がないので、少し間延びした感じもあるものの、美しい木造

傾きも、基礎崩れもなく、下手な現役校よりもきれいな印象



少し中を覗くと、きちんと手入れもされている様子



空が白い・・・

窓ガラスも揃っていて、くもの巣もはちの巣もない、瓦は廃校前に吹き替えたばかりなのかピカピカ

廃校11年とはいえ、雪深いこの地で築74年の木造建築とは思えない

半世紀前に卒業したという老人に尋ねたところ、

・当時の同窓は15人前後で、全校60人ほど
・疎開者も多く、かなり賑わっていた
・この校舎は、地元の木材を切り出して有志で作り上げた
・この校舎の前は、平屋の木造校舎
・その前は寺で教えていた
・現在は子どもはおろか、いわゆる限界集落
・自分も、畑をやるだけに来て、あとは福井市内で過ごしている
・年に1回あるかないかで、校舎内に入る企画があるとかないとか・・・

ということだった




役目を終えた学校というものは、なぜこんなに魅力的なのか

いつまでもお元気で


ちなみに、Tokina 12-28mm F4 というのを買いました

結構いいです

2015.11.21/1,2枚目 福井鉄道 三十八社~鳥羽中
          越前町立萩野小学校笈松分校
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とか言いつつ

2015-11-06 00:23:18 | 鉄道
最近よく行くのは福井鉄道

8月に200を久しぶりに見て「これは」と再燃し、平日代休を狙っていたところ、なんと故障で収容されているではないか

行くのやめようかと思いながら福井鉄道のHPを眺めていると、F1000も脱線し、大型が計4編成離脱している様子


あまり情報のない福井鉄道の運用でしたが、使用できる大型が610の1本ともなれば、アイツも駆り出されそうだと赴きました






そのアイツが、これ

企画商品でしか出てこなかった、使い勝手の微妙な単車602も、せっせと急行してました




全然関係ない出自ながら、結構似合ってるような気がする福鉄旧色

ワンマンと謳いつつ、放送設備不十分なのか、肉声放送専門の車掌を乗せたツーマンでした

通常運用に入らないことから幕も更新してこなかったため、なんか微妙な幕であり、夜に後ろから照らされると、急造の幕が透けて武生新が浮かび上がる仕様でした


ところで、降り口は前のみ、運賃箱精算のみ、単車、2ドア、果たしてラッシュを捌き切っていたかどうかは疑問です

ちなみに、もう運休中だった大型は4本とも復帰したので、602がどうなったかも知りません

200はいなかったものの、思いがけない602を見れたので、まあいいか





その後は京福をふらり

駅舎につられて降りた轟駅は、こんな感じ

金沢水族館にヘルスセンター、やっぱり、もう跡形もない施設の広告でした


2015.10.19/
福井鉄道 市役所前~公園口
      駅前~市役所前
えちぜん鉄道 轟駅
2015.11.22一部改訂
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近江220亡きあとは

2015-06-21 21:58:15 | 鉄道


東急のワケワカランのも来たようですが、忙しい休みでも午後からの半日で充分楽しめるところと分かったので、また行きそう

トーマスとその連中以外の閑散ぶりには、人がいなくて静かで落ち着く、を通り越して不安にさえなりましたけど



2015.06.20/大井川鐡道 千頭駅
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北恵那鉄道 木曽川玉蔵橋梁

2014-11-10 01:27:16 | 廃線探訪
我らの東海が誇る特急電車371系が今月で引退ということを知り、例年のごとく中央西線で臨時があると知り、おそらく11か月ほどぶりに撮りに行ったわけですが

通過を前に、待ってましたと言わんばかりの雲と野焼き(割と禁止自治体増えたのに中津川市はと思って調べたら、ああいうレベルのは厭わないんですね・・・)のコンボでしたが、まあ、現像してからのお楽しみですね

昔は現像を待つのも心から待ち遠しいほどだったのに・・・


で、転んでもただでは起きぬではないですけど、せっかく中津近辺まで行ったので、1978年に消えた北恵那鉄道に寄り道



廃止後36年が経過する今もなお、木曽川に架かる橋梁

土木学会によれば、どうも1886年英国製、東海道本線天竜川橋梁からの転用品のようです

ただ決定的な資料がないのか確証がないらしく、?が付してありました



先のは苗木側の下流側からの写真、これは同じく苗木側の上流側から

画面左側は採石場でしたので、すべてこちら苗木側からの写真です



△(というかW字)の並ぶワーレントラスが2対でひし形(というかX字)の並ぶダブルワーレントラス

それに、真ん中を通る中間水平材の付いたものなので、かなり重厚な感じですね

このダブルワーレンは無駄の多い構造で、昭和期になるともうダブルワーレンはないので、かなり由緒あるもの

同じものは揖斐川の新開鉄橋ですね



そういえば一瞬だけ大垣市民だった頃に新開鉄橋通ったなあと写真を掘り返した結果、こんなのしかありませんでした、自転車から降りるのを面倒がった結果です

正面からでわかりにくいものの、玉蔵橋梁同様△ではなくX字状に組まれているのがわかります

こちらは人道橋として現役です



北恵那鉄道は開業から狭軌600V電化なので、架線があったその辺の名残もチラホラ

ただ電化が災いし、廃線間際の5年ほどは最強の合理化として昼間の運行を止めてバス代行にしたという、もはや存在意義すら危うくなった末期だったよう



これが1978年9月、廃止年月の交通公社発行の時刻表の北恵那鉄道のページというか部分です

上下12本、5時台から23時台までと、割とイケそうな雰囲気を醸し出しながらの昼間運休

もはや、バスが補完というか、バスの補完というような形でしょうか

左端の9月中旬廃線予定が悲しいですね

22.1kmで\560という設定、当時の名鉄に置き換えると豊橋国府宮の80.9kmで\580で、国鉄は大体50~70kmの運賃ですので・・・当然一概には言えませんが、結構割高な感じですね

所要時間50分ほどでは、マイカーを持ったら全く勝負にならない交通機関だったようですね

しかも車両はガソリンカー改造の客車や大正生まれの瀬戸電のお古・・・と書いてモ750は昭和3年でしたか、そうすると谷汲揖斐線末端のような雰囲気だったんでしょうかね

そして別の話ながら、5ケタの市外局番も時代を感じさせます



ついでに地図も

中津川駅から徒歩5分の中津町が起点だったので、中津川駅と少しだけ離したところから始まっています

少し左に目をやると、恵那駅北には恵那峡と蛭川を結ぶ、こちらも今は昔の恵那峡ランド(現恵那峡ワンダーランド)のロープウェイが

旧恵那峡ランドのCM、よくやってたのに言われてみればもう見ないですね、ワンダーランドになっていたとは



だいぶ削られてきた基礎部分

関係ないですが、開業時はこれより4mほど低かったため伊勢湾台風による木曽川増水で一度水没、のちに全体でかさ上げ工事が行われたようで、そのための費用を集める際に名鉄が名乗りを上げ、その後名鉄グループになった経緯がありました

初めて知りました、まあ当然といえば当然ですが




さて、そんな橋梁の付近に到着したはいいが、さらに接近するのにどうしようか

白昼堂々土手に上れば、さすがに周囲の目もあろう・・・など考えながらうろうろしていたら、親切なおかあさんが「鉄橋撮りに来たの、脇に階段あるから上れるよ」 「・・・」



これは平成6年に終了した恵那観光開発というところが運営していた遊覧船乗り場の廃墟

いや、まだ休止という扱いなのか、ベンチに隠れた部分には「当分の間休航」という文字もあり、どうやらJTB時刻表の地図には今も残っているとかいないとか

時刻表は交通新聞社派なのでわかりませんが

これも詳細は上の古い時刻表に載っていますね



入口が左右二か所ある個室風、おそらくこれは便所というか厠と呼ぶのが相応しそうな佇まい

その左に上れといわんばかりの足掛けがあり、なんの苦労もなく上ることができました  まあ、自己責任で



看板をアップでどうぞ

高山まで観光タクシーで行ったらどんなことになるのか・・・国道41をおよそ100km3時間の道のり、普通に行くと4万強のご予算

時間貸しとはいえ、どんな料金体系だったのか気になるところ




土手に上ると、微かに枕木のみ残る廃線跡を数メートルののち、橋梁を目の前にできます

なんと対岸は遮るものなく踏み込めそう、しかも車で行けそう・・・でも上を歩いたら丸見えで、土手をどうのというレベルではないので通報されそうですね

ああ、高校の帰り道、鉄道も廃線も別に好きでもない友達と枕木の残る廃線の鉄橋を歩いた思い出が蘇りました、楽しかったなあ



ただ植物がすごくて、やはり廃線巡りのシーズンは冬ですね



でも光も相まって画面が明るくなるので、これはこれで



眠り続ける128年前の橋梁

堅牢な鉄骨のみなので当然とはいえ、かなり美しい状態で、塗りなおせばまだまだ現役復帰できそう

この付近にほかに川を渡る手段がなければ、新開鉄橋よろしく人道橋くらいになってそうなものの、すぐ隣に立派なかつての国道橋があるので残念

近い将来、いずれ解体される日が来るのでしょう




ところで この北恵那鉄道の終点付知から延長する形で下呂まで結ぶ下呂線が計画されており、路盤転用に際した補償などを見込み合理化に合理化を重ねて何とか延命した説もあるようですが

その後の話は、よくあるやつで付知地区の用地買収が思うように進まず、遅々とするうち工事認可5年後、ついに国鉄再建法が発動してしまうことになりました

現在の鹿島臨海鉄道大洗鹿島線および愛媛内子線以外のA(地方開発線)B(地方幹線)線(併せて地方交通線)の工事凍結により、計画も頓挫、現在は中津川~下呂間は路線バスを乗り継いでという形が辛うじて残っています



一方、中津川から飯田までを結ぶ中津川線という計画もありました

中津川線は日本鉄道建設公団における地方幹線扱いのB線対象であり、なおかつ国鉄再建法で工事凍結したまま現在まで開業できずにいる唯一の路線だそうで、途中まで中津川線と同じ道を辿りながらも、その他の久慈、盛、北越北、智頭、鹿島、野岩線は三陸鉄道やほくほく線、智頭急行などとして日の目を見ているわけですね

で、さきほどから登場しているABは鉄道建設公団が付した記号であり、以下の7種類があります

A地方開発線  B地方幹線  C主要幹線  D大都市交通線  E海峡連絡線  G整備新幹線  P民間鉄道線

A、Bが地方交通線つまり時刻表の青線というわけですね

青線ながらこの2路線が開業していたら、中津川駅も今以上の賑わいだったのか・・・うーん、どうなっていたのか想像できません

国鉄明知線から明知鉄道が入る恵那駅も賑わいというには少し遠いですし、駅という場所としては賑わっていますが



何回目かの ちなみに になりますが、岐阜県6番目の面積を誇る中津川市は中山道中津川宿に由来する地名で、「中津川」自体は河川名であり、本来の地名は「中津」で現在も中津高校や中津商業高校など、川のない呼称も使われています

周りにいた中津川市民は割と「中津」と言いまして、最初は略語的なアレかと思ったんですがとんでもない、ちゃんと中津だったわけです

じゃあ中津川とはというと、そもそもかつての中津町が将来を見越したとき、中津市と名乗るには昭和4年の時点で豊前中津に先を越されている(というか中津川市に失礼ながら、さすがに規模がけた違い)ために中津市を名乗れない(一応最近の総務省解釈では相手方に意義がなければ拒否するものではないとなっている)ため、昭和26年の苗木編入時に中津川町と名を変え、昭和27年に市制施行という運びがあるわけです

先見の明ですね、徳島県三好市がある上、納得いかないので同字同音の三好市はお断りしますと言われた結果、平仮名になったのは、やはりちょっとカッコ悪いような

じゃあどうすれば文句言わないかと言われると、西加茂郡から西加茂市・・・も違うし

ま、さいたま市がある以上は平仮名でも、四国中央市や南アルプス市、つくばみらい市、案だけで消えたにしろ南セントレア市が計画された以上は、この先どんな字面が出てきても驚きません 笑

371系から話が流れに流れ、古来の地名を大切にしてほしいなあと思いつつ

2014.11.08/岐阜県中津川市
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三浦光世さんの死

2014-11-01 01:47:03 | その他
いやぁ

新聞の夕刊を見てびっくり、三浦光世さんが亡くなったとな

実際にお会いしたことはないので、悲しいという感情よりも悔しいというか、残念な気持ちというか、惜しいです


春に旭川を訪れた際にお会いしたかったものの不在だったのでまたの機会に延ばし、その後6月に再び札幌まで行きながら遠かった旭川

毎日元気に歩いているということも聞いていたので、何とも思ってなかったものの、90歳でしたか・・・

光世さんがいなければ、氷点も塩狩峠も母も海嶺も、この世に出なかったわけですから、三浦綾子以上にとは言えませんが、それほど三浦文学に重要な方でした

肺結核を患っていた堀田綾子のもとを足しげく訪れ、その回復を祈り待ち続けて結婚、自身も弱い体ながら、妻を支え、強くたくましく、そして優しく生き抜いた90年

お会いしたことは一度もありませんが、道ありきや光世さんの著書を読んでいると、大変な人生でしたねと言えば、いや幸せでしたよという答えが返ってくるのが容易に想像できるような、そんな優しい方でした


そういえば旭川でたまたま拾ったタクシーの運転手に、三浦綾子が好きで旭川に来たと告げたら、三浦さん乗せたこともありますよなんて

彼曰く、綾子さんは大酒のみで、光世さんはこれ以上ないくらい出来たお方ですよ だそうで、まあ大酒のみという辺り、かなり前の話だろうと推察しますが、偶然にも話が聞けてよかったことを思い出しました





内地の人間には大雪過ぎて、また雪のないときにゆっくり来ようなんて思ったのが失敗ですね



辛うじて、氷点の碑



ちなみに三浦文学について、氷点はドラマにもなり、塩狩峠は映画になってますね

三浦文学は、歴史小説、一般的な小説、エッセイの3種類に分けられると思ってます

歴史ものは塩狩峠ほど有名ではないものの、ほぼノンフィクションの歴史小説である母、海嶺(83年映画化)は心にグッと来ます

母は、プロレタリア文学者小林多喜二の母セキを書いたもので、海嶺は知多半島小野浦の漁民音吉たちがおそらく日本人として初めてアメリカから世界を回り・・・という、まあ読書感想文は苦手なので、内容が気になれば検索すればブックレビュー系のブログがたくさんヒットしますから、そちらで

幕府が出した勝海舟の咸臨丸こそ有名ですが、音吉こそ教科書に載せたいんですけどね、本当は

それ以外でも細川ガラシャ夫人、千利休とその妻たち、白洋舎創始者五十嵐健治を描いた夕あり朝ありなど、基本的にとにかく史実に基づいている(塩狩峠は若干ボカしてたりしますが)歴史小説ですので、史実を知るという点でも三浦文学は有益です


有名な氷点をはじめ、帰りこぬ風、病めるときもなどの小説もまた、軽く読めるのに深く考えさせられるのでいいですね


あとはエッセイ、自叙伝として、自らの人生を描いた道ありき、堀田綾子のその人生と人柄がわかっていいと思います

併せて光世さんの、綾子へ、死ぬという大切な仕事といった本も読むと、偉大なお二方ながら、どこか私たちと同じような人間くさい親しみやすさを感じたり、優しさやあたたかさを感じられます


三浦綾子が口述し、三浦光世が書き留めることで完成した塩狩峠、夏にも読んだけど、また読もうかな

読書の秋じゃないですが、何度読んでも考えさせられ、心に沁みる三浦文学の拙い紹介でした



いつまでも あると思うな 親と金 じゃありませんけど、会いたい人にはその時会っておくべきですね、これは一生後悔しそうです

死ぬことは神に召されることでありつまり祝福すべきことというキリスト教的になんと言えばいいのかわかりませんが、おつかれさまでした、安らかにお休みください

2014.03.07/北海道旭川市
コメント
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記念すべき

2014-09-19 00:46:28 | 鉄道
すべき、かどうかはわかりませんが、デジイチで撮り始めたころの写真

そもそも写真を撮り始めたころはFM10やF80に1枚でも多く撮れるように苦心しながら上手くフィルムを入れ、また撮り終わったフィルムは当然その出来が気になるものの、小遣いがなくて翌月まで放置なんてこともザラ・・・いまだに、いつ何を撮ったか、もうわからない撮影済み未現像のフィルムが出てくることがありますけども 笑

あと、フィルム装填したつもりが甘くて、クランクも回ってないのに全く気付かず、ただ空焚きしたこともあったりなかったり

そんな中、初期投資のみであとは何も気にせず(といって記録メディアを忘れたことが数回)撮り放題のデジタル一眼レフカメラを初めて手にし、まず行ったのは、ここ



矢作川にて、通称「富士宮臨」を撮りに行ったようです

7両ながら、サロも入ってなかなか決まってます、写真ではなく編成の方が 笑

この489に合わせてD50を用意したのか、それとも手に入れたタイミングで489だったのか・・・

通番が0027ということは27枚目ですから、ホントにまだ慣れてもない中だったわけですが、なにせ撮れてよかった

確か翌年からは683化し、現在も走ってるのかな、もうこんなのが来るはずもないので気にもなりませんが

それにしてもだいぶ暗いですね、上部ライトもパンタも、タイミングばっちり被ってますけども



それから、その9枚前のカットにこの65貨物が・・・コキはコンテナ満載で美しいこれは、旧3363レですかね

鶴見65にコキはもちろん、ワムタキチキホキ、時にはヨと、雑多な貨車が連なって来るスジで、しかも三河を夕方に下って行くちょうどいい時間だったので、いつしか覚えました

カマは白ゴム青プレのEF65-1062、この後新鶴見から高崎へ異動、そのまま2009年度いっぱいで廃車になっている様子

しかし、カマの情報だけならまだしも、大抵のキーワードを検索ボックスに入れればどんな情報もわかってしまう時代は便利なのか、なんなのか

そして次位はNRSのタキ29100、コキにぽつぽつ載っているのはいつしか見なくなった水色の18Dコンテナ・・・懐かしい

この水色もクリーム部分の塗装が3パターンあって、両側面が開口部で18型のほぼ最終形態かつ最大勢力だった18Dに対し、Zの逆みたいな塗装の18Aと18Cは片側面片妻開きとその容量拡大版、流れ星みたいな塗装はV18Cで通風を意味していたようですね

そういえば幼いころもなんか塗り方が違うと気になってたんですが、その違いを調べる術もなく今日に至りました

一応、18Dは2013年まで残っていたようですが、もう随分見てない気がしますね

貨車もコンテナも奥が深い、そして知らないうちに世代交代が行われているんですね

以上、懐かしいなあ、という2枚

2006.03.18/東海道本線 岡崎~西岡崎
コメント (2)
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