こんにちは、のほせんです。
もう、紫陽花の蕾がみられる時期になりました。
被災地M県の知人からは、ぷっくりしたべっ甲シジミが届けられました。
ありがたいことです。
フッコー屋など相手にせず 何百年まえからの 足下の浜やその前によこたわる海とともに
ゆっくり 生きてゆかれることを ねがうばかりです。
- さて、今回も “ セイシュン ” にまつわるお話をしてまいりましょう。
その青春を絶叫でつづった歌人、福島泰樹氏の「孤立無援の思想を生きよ」という著書には、
- 「お前の青春をひとことで言ってみろ、というなら即座に口惜しさと応えよう。
なにからなにまで、とにかく口惜しかったよ。」 とある。
それならオレもわたしも、という若くない声がいっぱい上がってきそうですな。
それほど青春には、痛い目にあったり、歯がゆいおもいをしたひとばかりかといえば、
おそらくその通りだということではないでしょうか。
若気の至りでたびたび失恋したり、
相手をひどく傷つけてしまったり、
政治行動で権力に敗北したり、
ほんらい青春は わけもなくはげしくてたいへんなものだから。・・
けれども現代の若者は、失恋したくないし、傷つきたくない! という。 どうも
見かけはともかく、おとなしく息をしている「青春なきセイシュン」を過ごすのが主流のようだ。
もはや大方が、個の尊厳の世界観から眼を逸らされ、
それによってみずからの存在の意味を喪ないつつある現代世界。
この国の若者もそれにもれず、
この時代がかかえる閉塞狭小かつ散漫にして滅裂な共同意識の時空にとらわれ、
すべてのことに同調を強いられ、しかし 孤立させられ、
なおも、為すことに意味を削がれた はじめからシッポを巻いたような セイシュン。
そこにはもう、「わけもなくはげしくたいへんな」青春はみる影もなく、
時代のもたらす強迫性に毒気も精気も抜かれて、自閉にむかい
失恋もできない 寂しいセイシュンがたたずんでいるだけのようにみえる。
時代の共同意識にのみこまれた個々の自己意識は、
逆疎外のように 自己の固有の意識をほとんど見失った状態にあり、
そこでは、社会があおる商業主義の網にすがるほかないかのように、
個々がそれぞれに、見かけだけのわずかな他者との差異において
「個性」を競うことに生きがいをみつけようとする。
ほんとうにチッコくて、切な過ぎるセイシュンの悲哀というべきか。・・・
こうした商業主義にのせられた「個性」の中からは、
マスメディアに登場する有名人=タレント(本来の意味をもたないが)をめざす若者が後を絶たない。
しかもかれらは、いまではそれがつかの間に消えてゆく「商品」であることを 自覚さえしている。
その、かれらのチッコい差異性に固執するコンプレックスにつけ入るように、整形美容やコスメチックが抜け目ない。
また、マスメディアの売れ記事になっている「婚活」や「就活」さえも、
個々の孤立への不安恐怖をたくみに衝いた、えげつない戦略にほかならない。
「でも、そこにしか価値や意味が無いから!」だというほど、
この時代は、何もかもに 「存在の意味」をそぎおとされ、うしなってしまった社会になっている。
とはいっても、
あの宮台慎真司のような屁理屈学問好きな連中の口先だけの「××の喪失」とは似て非なるもの。
先述の福島泰樹氏はこうも熱く語る。
- “ 友達の下宿を泊まり歩き酒を飲んではよく議論したものだよ。
短歌を絶叫するとね、闇雲に淋しくって苦しかったあの時代が蘇ってくるんだよ。
失恋した少女の美しい眼差しとともにね。 ”
・・ああ、まったき 青春がここにある。
また、氏はこうも語る。
- “ しんみりと孤独の酒を飲んでみろよ。
いまの自分にとって、何が大切であるかが見えてくるぜ。
ごまかさないで人を熱烈に愛してみろよ。
つよく想うこと、それが歌だよ。
自分の体の中で、激しく脈打ち滾り溢れようとしているものが発する音、それが歌さ。
孤独のグラスに向かい合うとき、君はその音を聞くことができる。
ー あわれ初夏の雪渓よりも花よりも熱き酒より孤独を愛す - ”
この歌人の言葉掛けさえ、
いまでは遠く 虚しく 響く とすれば
病理的と 名づけるほかない時代に 来てしまったのだろうか。・・・
まだ、わずかにでも伝わる耳をもつならば、
君よ、無名の鬼となれ!
有名を求めて商品と化すなかれ!
...............................
あなたの推薦クリックを毎回よろしく願います! へ!