大師堂と蜜厳堂で法話を拝聴しました。
大師堂への上り階段・参道
大師堂
大師堂での法話
およそ600年前、能を大成した世阿弥(ぜあみ)は、能楽に関するさまざまな文書を執筆していたことでも知られ、50歳半ばに書いた『花鏡(かきょう)』という伝書には
「初心忘るべからず」という言葉を書き残している。おそらく誰もが知っている言葉だが、これが世阿弥の言葉だということを知らない人も多いのではないだろうか。
一般的に「はじめの志を忘れてはならない」という意味で使われるが、世阿弥が言った「初心忘るべからず」は、もう少し複雑で繊細な意味を持っている。
世阿弥が言う「初心」は「最初の志」に限られてはいません。世阿弥は
、人生の中にいくつもの初心があると言っています。①若い時の初心、②人生の時々の初心、そして③老後の初心。それらを忘れてはならないというのです。若い時の初心とは、具体的には24〜5歳のころを言っています。能役者の場合、まずは稚児(ちご)姿がかわいらしい子供時代があり、声変わりなどをして苦労する青年時代がある。そして24〜5歳になると、いわば成人して声も落ち着き、舞も舞えるようになる。すると周りが、「ああ、名人が登場した」「天才が現れた」などと褒めそやしたりします。それで思わず、「自分は本当に天才なのかもしれない」と思ったりするわけですが、実はそれが壁なのだと世阿弥は言うのです。それは、その時々の一時的な花に過ぎない、そんなところでのぼせ上がるのはとんでもない。そこにまさに初心が来るのです。
この頃の花こそ初心と申す頃なるを、極めたるやうに主の思ひて、はや申楽(さるがく)にそばみたる輪説(りんぜつ)をし、至りたる風体をする事、あさましき事なり。たとひ、人も褒め、名人などに勝つとも、これは一旦めづらしき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねをも直にし定め、名を得たらん人に事を細かに問ひて、稽古をいや増しにすべし。(『風姿花伝』第一 年来稽古条々)
まことにこの時が「初心」である。それを、あたかも道を極めたかのように思って、人々に話をし、さもそのように舞台で舞ったりするのは、なんとあさましく、嘆かわしいことであろう。
むしろこの時期こそ、改めて自分の未熟さに気づき、周りの先輩や師匠に質問したりして自分を磨き上げていかなければ、「まことの花」にはならない。そこで満足して何もしなければ、芸もそこで止まってしまうからです。若いころの名人気取りを「あさましき事」と世阿弥は言うのです。確かに、こうした「あさましき事」は、今でもあるかもしれません。人気をいいことに、まだ若いのに名人気取りになっている俳優や音楽家はいるかもしれません。
人間誰しも、すごい新人が現れたと言ってみんなが褒めてくれる時期が一回は来るでしょう。しかし、次の年になれば、またあらたな新人がやってくるのです。だからこそ、新しいものへの関心からみんなが褒めたたえてくれている時、その中に安住してはいけないと世阿弥は言っているのです。そこでいろいろと勉強しなおして初めて、その上のステップに行けるというのです。
■『NHK100分de名著』2014年1月号より編集転載
蜜厳堂(興教堂)
蜜厳堂からの下り階段・参道
蜜厳堂での法話
『雑宝蔵経』に説かれている、「無財の七施(むざいのしちせ)」という教えです。
これは、金も物も名誉も地位もない人でも、布施しようという心さえあれば、七つの施しができるということです。
①眼施、②和顔悦色施、③言辞施、④身施、⑤心施、⑥床座施、⑦房舎施の七つが説かれています。
第一の「眼施(げんせ)」といいますのは、慈(いつく)しみの眼(まなこ)、優しい目つきですべてに接するように努めることです。
「目は、口ほどに物を言う」とか、「目は、心の鏡」ともいわれますように、人間の目ぐらい、複雑な色合いを映し出すものはありません。
その目に湛えられた和やかな光は、どんなに、人々を慰め励ますことでしょう。 特に、過失を犯して悲嘆にくれている時などは、更生への愛撫となりましょう。
第二の、「和顔悦色施(わげんえっしょくせ)」といいますのは、やさしいほほえみを湛えた笑顔で、人に接することをいいます。心からの美しい笑顔こそ、まさに人生の花であり ましょう。
純粋無垢な笑顔に接する時、人は一瞬、人生の苦労を忘れ生き甲斐さえ感じます。笑顔は周囲全体を和ませ、トゲトゲしい対人関係をスムーズにします。
第三の「言辞施(ごんじせ)」は、やさしい言葉をかけるように努めることです。思いやりのこもった態度と言葉を使うことを言うのである。
心からの優しい言葉は、どんなに相手を喜ばせるか計り知れないものがあります。
第四の「身施(しんせ)」は、自分の肉体を使って、他人のため社会のために奉仕することです。いわゆる無報酬の労働です。
人のいやがる仕事でもよろこんで、気持ちよく実行することである。
第五の「心施(しんせ)」といいますのは、心から、感謝の言葉を述べるようにすることです。
「ありがとう」「すみません」のたった5文字の音声ですが、世の中を、どんなにか住みよく明るくするか知れません。
第六の「床座施(しょうざせ)」は、場所や席をゆずり合う心遣いをいいます。
乗り物の座席の取り合いから、権力の座の争奪にいたるまで、いつの世相を見ましても、いかに、床座施が必要かが知らされます。
少しでも床座施の心があれば、この世は気持ちよく住みやすく変わるでしょう。
第七の「房舎施(ぼうじゃせ)」は、訪ねて来る人、求めて来る人があれば、一宿一飯の施しをして、その苦労をねぎらうことをいいます。
雨や風をしのぐ所を与えること。たとえば、突然の雨にあった時、自分がズブ濡れになりながらも、相手に雨のかからないようにしてやること、思いやりの心を持ってすべての行動 をすることである。
このように、布施しようとする精神さえ私たちにあれば、何も持たないどんな人でも、いつでもどこでもできる善行が、布施であることがお分かりになるでしょう。
世の中には、「布施」と云うことは、持てる者が、持たざる者に対して「めぐむ」ことであると考えている人が非常に多い。
布施をめぐむと考えることから、他のために一生懸命につくしても「してやったんだ」という気持ちが、心のすみのどこかにつくってしまうのでしょう。
これでせっかくの布施の行も、施(ほどこ)しとはならなくなってしまうのです。
他のものの為につくしても、役立つことが出来たとすらも考えようとしないのが、本当の意味で布施ということになるのです。
布施という難しい仏教語を使うからややこしくなるのかもしれません。「よろこんでもらうこと」と言い換えたら分かりやすいのだとも思います。
よろこんでもらう方法は、なにも「無財の七施」に限ったことではありません。
(記載は法話の趣旨であり、法話のメモではありません。)
大師堂と蜜厳堂では弘法大師、興教大師の誕生を祝い「灌仏」が設けられており、法話の後、お釈迦様の誕生仏に因んで甘茶を掛け合掌。
お堂巡り御朱印(クリック拡大)