パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

宇治川右岸の紅葉を求めて散策-2-

2016年11月23日 | 日記
最期に拝観したのが、紅葉の名所の曹洞宗の「興聖寺」
参道「琴坂」の紅葉が有名だそうですが、少し早かったようです。
先ず、頂いたパンフレットを。(小さい画像をクリックすると拡大)

山号・寺号  曹洞宗 佛徳山 観音導利院興聖宝林禪寺
御本尊    釈迦如来
開創     道元禪師
       正法挙揚道場として開創
       「初開道場」

  

 

 

 


ご朱印「本尊 釈迦牟尼仏」


 
石門(総門) 総門から参道「琴坂」を望む

  
琴坂から山門を望む
琴坂との名前は、細長い坂の形と傍の谷川のせせらぎが琴のように響くころからこの名がついた。
「琴坂の紅葉ふみ行く老の杖」虚子


       唐風竜宮造りの山門   山門扉の寺紋「久我竜胆」透かし彫り

寺紋「久我竜胆」は、宗祖「道元禪師」の生家
父 内大臣 久我通親公 久我家の家紋


鐘楼             釣鐘



法堂(本堂)                    四条天皇勅額「興聖寶林禪寺」



血手形の天井

本堂は、伏見桃山城の遺構を用いて、幕府初代淀城主 永井守尚公により復興、建立され、
慶長5年落城の時の血の手形足跡が残る縁板を天井にし、外縁は鶯張の廊下です。
同じ曹洞宗で、鷹峯の円想窓と紅葉の名所、源光庵の天井にもあり、
鳥居元忠が自刄した時の伏見城の遺構と伝えられ、俗に「血天井」と呼ばれています。
血天井は、縁側からその板を外し、供養のため幕臣等によりお寺に移されましたが、
その際に床を、足で踏む床板にしては供養にならないからと、
天井にして手厚く供養しているものがいわゆる「血天井」と言われるものです。
他にも、東山「養源院」、大原「宝泉院」にもありました。


永井家菩提を弔う天竺殿      (開山堂)老梅庵
天竺殿の入口の左右に狛犬・獅子が…天竺殿は、寺の建物ではなく、
興聖寺を復興した、永井家の位牌を祀る建物で、
狛犬、獅子があるのではないか…とのこと。


三面大黒尊天 お顔の正面は笑み 右白い面は悲しみ 左青い面は怒りを表し、
人の心を表していると僧侶から聞きました。
三面とは、正面が大国天、右面が弁財天、左面は毘沙門天と言われています


僧堂

 
僧堂内部 座禅を見守るのは、獅子に乗った文殊菩薩だそうです。



東司(便所) 芻沙摩明王(うすさまみょうおう)便所の守護神(便所を清める)

洗浄偈」

便器の前に洗浄偈が、四枚貼られていました
右から①圊室(便所)に入る時 ②水を使う時 ③水で洗い流す時 ④手を洗う時
 ①圊室に入る時    左右便利 当願衆生 賢除穢汚 無婬怒癡
 ②水を使う時      已而就水 当願衆生 向無上道 得出世法
 ③水で洗い流す時   以水滌穢 当願衆生 具足淨忍 畢竟無垢
 ④手を洗う時      以水盥掌 当願衆生 得上妙手 受持仏法
                   (『華厳経』 浄行品より)
『大小便をもよおす時は、全ての穢れを除き、貪り、怒り、愚痴の三毒を捨てよう。
 水で手を洗った時は、そのさっぱりした手で、仏法を受け取ろう』と解するらしい。
興味があれば、洗浄偈の元である『華厳経』浄行品を見て下さい。
修行とは実に厳しい…トイレでも…と驚かされます。

 
僧堂を出たところの魚板   庫裏の魚板
(長く使われたせいか、いずれも木が凹でいます)
禅宗のお寺では必ず見かける魚板(魚鼓と言うことも)。
修行の合図、時刻などに使い、木槌で叩き鳴らされます。

  
薬医門前の「ひめこまつ」      内庭の石塔      内庭の十三重塔の旧相輪


  
山門の内側から        山門の外側から

  
山門入口の「いろはかえで」
イロハカエデ(いろは楓)は
裂片をイ、ロ、ハと数えることから。
イロハモミジ(いろは紅葉、学名 Acer palmatum)と同じ。
ムクロジ科カエデ属の落葉高木。
 
 
東禪院前の「かえで」と「花梨の実」

宇治川を渡って中の島「橘島」さらに平等院通り、宇治橋通りへ
  
朝霧橋遠景      朝霧橋上         橘橋

  
観流橋近くの浅瀬で魚を狙う


川鵜がGET!


宇治橋通り商店街のお茶の老舗


創業450年、朝廷、幕府の御用茶師上林春松家の現存唯一の長屋門(築300年?)


安政元年創業の中村藤吉本店


茶商建物の特徴的施設の張り出し、拝見窓 


万延元年辻利右衛門創業の辻利本店
幕末、1860年(萬延元年)江戸城桜田門外において大老井伊直弼が暗殺された年、辻利は創業いたしました。
徳川幕府の天領として数百年の間手篤い庇護を受けていた宇治の茶師たちは動乱の中、
その庇護を失い、販路を断たれ茶園は荒廃していくばかりでした。
それを見た創業者辻利右衛門は私財を投じて茶業の改善を図り、
玉露製法を完成させるとともに茶箱(缶櫃)を考案して販路を拡大し、宇治茶の復興に努めました。
                                   (辻利HP「辻利の歴史」より)
平等院正門横に銅像が建立されているそうです


 
JR宇治駅            駅の傍の「茶壺の形をしたPOST」
           


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