リリカルな日々

いろいろな出来事に対して、自分なりに感じ、考えたこと書いてます。

イサム・ノグチ

2006-01-22 23:14:07 | 我思う
イサム・ノグチ
スタイリッシュな家具や椅子、和紙と竹ひごで提灯からイメージした照明「灯りシリーズ」で有名な彫刻家。そしてデザイナー。

恥ずかしながら、彼について私はこのくらいの知識しかなかった。いつ生まれ、いつまで存在した人なのかさえ、ひとつも私は知らなかったのである。
しかし、先日偶然につけたテレビから、私は彼の波乱の生涯を知ることになる。

イサム・ノグチが、日本人の父とアメリカ人の母を持つハーフだったことを知っていただろうか。てっきり日本人と思っていた私は単純に驚くと同時に、その番組を見ずにはいられなくなっていた。
今の現代においてこそ、ハーフなんて珍しいものでもなくなったが、昔はハーフに対してそんなに寛大ではなく、優しい世の中ではなかったようである。
事実イサム・ノグチは、相当「ハーフ」ゆえの苦悩があったようで、若い頃彼自身どこにも所属できない孤独感に苛まれていたようだ。戦後、有名な彫刻家として成功するが、広島の原爆記念碑のデザインを頼まれるも「原爆を落としたアメリカの血が流れている」という理由で話を白紙にさせられ、ケネディ大統領の墓碑をデザインする機会に恵まれるも、またもや「日本人の血が混じってる者に作らせるのはいかがなものか」とクレームがつき、降ろされる・・。日本にいればアメリカ人、アメリカにいれば日本人と見られるイサム。
苦悩と模索を経て、最後にかれの行き着く思想(悟り)は「自分は地球人である」ということ・・・。どこで産まれ、どこの血が流れていようと、私たちは地球の生命体のひとつでしかないのだ。日本人でありアメリカ人でもある。その個性を作品に生かそう!
結果、彼は堰を切ったように次々に、東洋と西洋の血を持つ彼だからこそしか作りえない作品を残していったのだという。
歴史に翻弄された人生は、彼自身の意識改革によって成功を得たのだ。

彼の作品が長い年月を経ても、いまだ人を魅了しつづけるのは、イサムのフリーソウルが私たちの心に呼びかけているからかもしれない。そしてそれは、これからを生きるキーワードなのかもしれない。
「人間よ、もっと大きくあれ。そして自由であれ!」
少なくとも私にはイサム・ノグチの作品たちがこう囁いてくる。



潜入!ナイトスポット!

2006-01-21 21:37:03 | 我思う
今日、妹から貴重な話を聞いた。
昨日職場の飲みで、2次会として話の流れから俗に言うナイトパブ(!)に行って来たというのだ!30年生きてきた私がまだ踏み入れたことのない、そしてこれからも踏み入ることはないであろう夜の大人の世界・・・。思えば、彼女は小さい頃より恐れをなさず何にでも挑戦する子だったなぁ。逆に、知らない人に声かけることはもとより、初めてなことが大の苦手で(今でもそうだが)な私に変わって、先頭に立ってくれる子だったなぁ。と感心しつつ(?)話を聞いてきた。

さて、職場の方と行き着いた2次会先は、「○ル○ューラ」という店。入ってみると綺麗な20歳位のロシアっ娘が数人いて、迎えてくれたという。
以前にも、韓国人の方のいるパブに行ったことのあった妹は、独特な雰囲気にもモノともせず何とかロシアっ娘と交流しようと試みたらしいのだが、なにせ相手はロシア語圏の方。英語も、そして韓国人の方とは可能だった筆談も通じず、知ってる数少ないロシア語「ボルシチ」「スパシーバ」を織り交ぜ何とか交流してた時である。変な曲が流れ出したと思ったら「show time!」と言って席を立ち始めたロシアっ娘たち。次に現れた場所は銀色の棒が立ってるちょっとしたステージの上。そこで彼女らは曲にあわせて次々に身に着けてるものを脱いでいったという・・・。
そして踊り子のパンティのゴムにチップを挟んでいく客たち。きっとそれらもオーナーにピンはねされるんだろうと思いつつだんだん妹は哀しい思いに駆られたと言う。そして曲がおわると同時に、魅力たっぷりに脱いでいった服を、最後に自分でかき集めそそくさと袖に帰る彼女たちに、何ともいえない気分になったと言う。

妹は踊るロシアの女の子の背景に、女という商品だけを武器に知らない国に出稼ぎに来る、来なくてはならない事情のある人が存在するという現実を目の当たりにし、日本がいかに恵まれた国なのかを痛感したという。しかし、需要と供給とはシビアなものよ・・・・・。

忘れがちだが、私たちの幸せのウラには、常に日本だけじゃなく地球のどこかの誰かが犠牲になっていることも事実として受け止めた上で、謙虚にいきなくては!と改めて思った貴重な体験話だった。

ちなみに公の仕事をしてる妹の、最後に一言「お堅い仕事してる人は誰よりもストレス抱えてんのよ」って言葉が妙にリアルだったなぁ(笑)

三谷幸喜作品

2006-01-16 00:35:26 | 我思う
映画「ザ・有頂天ホテル」を見てきた。
三谷作品ならではの、いくつものストーリーが同時展開し、いろんな人の嘘が嘘を呼んでのドタバタ空間劇。満員の会場からは、老若男女問わず声をあげて笑いのおこる2時間20分だった。

私が三谷作品が好きなのは、「王様のレルトラン」であれ、「合言葉は勇気」であれ共通して、人間一人一人の「愚かさ」をたのしく愛しく書いているからである。

ある人物は「見栄っ張り」なため、ささいな小さな嘘をつく。そして、ある人物は「自分の欠点」を隠すためごまかそうと躍起になる。それが最後には大きな嘘へと発展し、いつも大変なことになるのだが、それらの「嘘」や「ごまかし」のウラには「優しさ」や人間本来持ち合わせているであろう「人間くささ」があるのである。
決して、誰かを陥れたいとか人を傷つけるといったような悪意はなく、あくまで「他人」を気遣っての「嘘」なのだ。そして、そういった愚かな優しさを本当の「嘘」とは言わないことを皆知っているから、三谷作品は人を魅了し続けているのではないだろうか。

こういう作品がもっとあってほしいと願うし、こういうストーリーを思いつき脚本をかける三谷氏を愛してやまない。
三谷氏は私がこれからも大いに期待するクリエイティブな1人である。


ご挨拶。

2006-01-11 22:33:55 | 我思う
「リリカル」とは、つまり「叙情」。日々何気なく考えたこと、感じたことを自由に述べること。

ささやかながらも自分の思いを主張する場がずっと欲しかった私。それが今回ブログを開設したきっかけであります。

私は時折、答えの永遠にでない話題(要は、人の数だけ答えや考えがある話題、善悪の線引きがとてもできないデリケートな問題)を、妹はじめ家族に問う習性がある。結局答えはいつもでないのだが、それはそれでいいと思っている。そもそも答えなんかどうでもいいのかもしれない。考えを交差させる中に真実はあり、そして他人と思考しあうことにこそ意味があると思っている。

実は、このブログにもそういったものを期待してたりする。私のココで吐露した考え、感情に、これからどんな人がコメントして行ってくれるのだろう・・・。そしてどんどんたくさんの方にお目にかかりたい!これからいろいろな形で「出会い」が待っていると考えると既に軽く興奮気味。本当に楽しみ!

そんな私のブログ。「リリカルな日々」。皆様何卒御贔屓に!たくさんのコメントお待ちしてます!