静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

客観的・論理的にって、どうよ?

2009-11-13 18:25:41 | Weblog
因果の道理を批判的に書いた、あるサイトには、

>私は客観的・論理的な方法で納得したと思っていました。
>しかし改めて冷静に考え直してみると、それは単なる思い込みに過ぎなかったことに気がつきました。

とありました。
全体の論調として、因果の道理を信じている人は科学的、論理的思考に疎く、ただの思い込みの激しい人間のように語られ、このサイトの主張こそ、冷静かつ、客観的・論理的な「正しい物の見方」だ、というように書かれています。

しかし、「客観的・論理的な方法で納得する」ことと「単なる思い込み」との間には、残念ながら?サイトの主が考えているほど、本質的な区別はありません。

驚く人もあるかもしれませんが、今日の哲学や科学の先端においては、詳述はしませんけれど、そういうことが一般的に言われております。

とはいえ、

「客観的・論理的な方法で納得する」ことが、全く無意味と言っているわけでもありません。

生きるということは常に「あれか、これか」の選択を迫られるのですから、「客観的・論理的な方法」というものが、大まかな判断基準として〃便利なもの〃であることに間違いはないのです。
事実、「客観的・論理的な方法」を無視して、私たちの日常生活は成り立たないでしょう。

ただ、

何でもかんでも「客観的・論理的な方法」で真偽の見分けがつくというものでもないのです。

「客観的・論理的な方法」で納得できるかどうか、というだけでは割り切れぬ重大な問題が、この人生にはある、ということもまた事実なのです。その2,3の例をあげるなら、人間の運命や真実の自己についての問題がそうでしょう。
そのことを、先述のサイトの主にも分かってほしいと思うのです。

「客観的・論理的な方法」というものには限界があります。それは分かりやすく言えばこういうことです。

Aが、自分の釣った魚を「1メートルある」と言い、Bが「そんなにはない。80センチほどだ」と言って譲らず、どちらの言い分が正しいかをめぐって言い合いになったとします。
そんな時、普通なら物差しを当てれば一目瞭然と思われます。
案の定、Aが物差しを持ってきて、
「ほーら見ろ。やっぱり1メートルあったじゃねえか」
これで決着ついたと思っていると、Bが
「ちょっと待った!その物差しの目盛りは本当に正確なのか?」

こう言ってきた場合、どうなるでしょう。

Aは物差しを裏返し、
「これが見えぬか愚か者。このJIS規格を何と見る」と勝ち誇ったように言い返しました。でもBは、
「へん、それがどうした。JIS規格なら正しいと、どうしてそう言い切れる?」
あくまで突っぱねます。
頭にきたAは、物差しの目盛りの正しさを証明する、もう一つの物差しを持ってきて言いました。
「さあ、これでどうだ。二つの目盛りは一致しただろう。ザマアミロ」
でもBが、
「二つの物差しの目盛りが一致したのは分かった。でもそれで目盛りの正しさをどう証明したことになるのか?」
あくまでこう言い張るならば、これは際限なくさかのぼって決着のつかない話となります。


「客観的・論理的な方法」という〃物差し〃で物事の真偽が判定できると主張するならば、そう主張すること自体、ではその「客観」とか「論理」という〃物差し〃自体の真偽はどうやって判定されるのですか?という堂々巡りの議論を抱き込んでしまいます。

そもそも主観を離れた「客観」的な視点など、誰がどうやって確認できるのでしょう?
「A=Bであり、かつA=Bではない」ということは「論理」的にはありえない話ですが、その論理というもの自体の正しさはどうやって確められるのでしょう?

結局、「それを言っちゃあおしめえよ」というわけで、いちいち疑っていたらキリがないし、「まあここは一つ、自明のこととして、それ以上突っ込んでも意味ないし、やめておきましょうや」ということで、お互い暗黙の合意が成り立っているわけです。

ところが仏教では、私たちが「自明」と信じていることの中に、つまり「客観」とか「論理」の中に、私たち自身の〃存在〃と根本的に結びついているような、根の深い錯覚があると教えられているのです。

というわけで、

「金が儲かる」「病気が治る」などインチキご利益を売り物にした新興宗教を、「客観的・論理的な方法」で「ただの思い込みだ」と断罪するのならまだ分かりますが、因果の道理というのは、私たちが勝手に言い出したことではなく、仏智を体得せられた釈尊の教説なのです。

「客観的・論理的」というものの本質を看破しておられる釈尊が、45年間、明らかにしてこられた因果の道理を、「そんなものただの思い込みです」と切って捨てるとは、先述のサイトの主は随分、大胆な人なのでしょう。しかし、それだけの大胆発言をするには、まだまだ学問が十分ではなかったと思われます。こういうことを書く前に、もう少し〃改めて冷静に考え直して〃みる必要があったのではないでしょうか。

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