静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

唯物論への疑問(2) この体は誰のもの?

2009-11-26 18:12:11 | Weblog
これは経典に出てくる話です。

釈尊に、大号尊者というお弟子がある。
商人であったとき、他国からの帰途、道に迷って日が暮れた。
宿もないので仕方なく墓場の近くで寝ていると、不気味な音に眼が醒めた。
一匹の赤鬼が人間の死体を持ってやって来るではないか。
急いで木に登って、震えながら眺めていると間もなく、また一匹の大鬼がやって来た。
「その死体をよこせ」と大鬼は言う。
「これはオレが先に見つけたもの、渡さぬ」と、赤鬼と大喧嘩がはじまった。
その時である。赤鬼は木の上の大号を指さして、
「あそこに、さっきから見ている人間がいる。あれに聞けば分かる。証人になってもらおうじゃないか」
と、いい出した。
大号は驚いた。いずれにしても食い殺されるは必定。ならば真実を言おうと決意した。
「それは赤鬼のものである」
と、証言した。
大鬼は怒った。大号をひきずり下し片足を抜いて食べてしまった。
気の毒に思った赤鬼は死体の片足をとって大号に継いでやった。
激昂した大鬼は、さらに両手を抜いて食べた。
赤鬼はまた死体の両手を抜いて来て大号につけてやった。
大鬼は大号の全身を次から次に食べた。赤鬼はその後から大号の身体を元通りに修繕してやった。
大鬼が帰った後、赤鬼は礼を言って立ち去った。
「ご苦労であった。お前が真実を証言してくれて気持ちがよかった」と。
一人残された大号は、歩いてみたが元の身体と何ら変わらない。
しかし今の身体の手足は、どこの誰の手やら足やら分からぬ。仮り物ばかりである。
街へ帰った大号は、
「この身体は私のものですか、他人の身体ですか」
と大声で叫びながら歩いた。
大号尊者と、それから仇名されるようになった、という。


荒唐無稽な話に思われるかもしれませんが、この話の中には、「私とは何か」という問題について、深遠な問いかけが含まれています。

普通に考えると、肉体の「内」と「外」で、「私」と「私以外」を区別していると思います。

では肉体が私なのか?よく考えると、肉体はいろんなパーツから成り立っています。

大きく区別すれば、
頭部・右腕・左腕・胴体部・右足・左足
経典の話のように、このうち右腕を他人のものと付け替えても、私という主体までチェンジしたとは普通考えないでしょう。ということは、右腕は「私」そのものではなく、「私の所有物」だったということです。

同様にして、左腕、右足、左足、胴体を順々に付け替えても、私は私のままでいると思われます。ということは、これらは皆、「私の所有物」であり、これらを〃私のもの〃と言わしめる私は、どこか別にあるのだと普通、考えられます。

では、頭部。
これを他人のものとチェンジすると、それ以外の肉体は元のままでも、私という主体は、もうそこにはないと考えるのが普通だと思います。
これは今日、ほとんどの人が、頭部こそ「私」というものの主体が存在する場所と信じている証拠でもあります。

では、その確信がゆらぐような話を、今からしたいと思います。
(つづく)

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