「浄土往生」は仏教究極の目的であり、重大な意味を持つ言葉である。さりながら、今日、この「浄土往生」という言葉がどう扱われているか。
死に向かう人への単なる〃気休め〃であったり、死んだ人を悼む遺族への〃慰めの言葉〃にしかなっていないのではなかろうか。
浄土真宗の葬式では決まって「亡くなられた方は浄土へ旅立たれました」と言われる。
親鸞聖人の教えからすれば、死んで浄土へ往けるのは信心決定した人だけのはずだが、そんなことを説く人はいない。だれでもかれでも死ねば弥陀の浄土へ往けるように言うのである。
これはただ遺族の心情を慮って、ということばかりではなさそうだ。
そもそも「浄土往生」を説くべき仏法者が、その究極の目的である浄土往生を「一つの考え方」ぐらいに勝手におとしめ、本気にしていないのである。だから、まるで状況主義的、つまりその場その場の状況によって言うことがコロコロ変わる。
そういう状況の中に登場したのが、親鸞学徒の本道たる『歎異抄をひらく』である。
この本には、至るところに親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を通して「浄土往生」が鮮明に説かれる。
「信心一つで、極楽に往生するのだ」
「他力の信心一つ獲得すれば、極楽に往生することに何の疑いもないのである」
「誰もが死ねば仏になれるのではない。現在、弥陀に救いにあい、〃仏になれる身〃になっている人のみが、浄土に生まれ、そこで仏の悟りを開く、これが親鸞聖人畢生の教誡であるからだ」
「浄土往生」を〃一つの考え方〃ではなく、生きた、揺るぎのない現実として断言されているのである。
僧侶から〃観念の遊戯〃ばかり聞かされ、浄土往生を〃そういう考え方〃ぐらいに思っていた真宗門徒が、『ひらく』の本気の主張に動揺したのは、想像に難くない。
そのためだろうか?
本願寺の勧学寮が『今、浄土を考える』という本を出版した。
勧学寮とは、本願寺の教学の最高位の人たちで構成された、あちらの頭脳中枢に当たるのである。
そういう点で、この本は重い意味がある。
なぜ、今、勧学寮が、一般向けに「浄土」について解説した本を出すのか?
何らかの要請あってのことと思われる。
この本の広告のうたい文句には、
亡くなったあの人はどこへ行ったのか?
死んだら私はどこへ行くのか?
とある。こういう問題提起は大いに結構と思うが、その回答となると心もとない。
広告の文面をを見ると、
「自分自身の問題として浄土を考えていく機縁」
「どのように浄土を考えるべきなのか」
「浄土の現代的意義について考える」
とある。
なぜ、凡夫の頭で、浄土を「考え」「現代に意味づける」などという試みに腐心するのだろう?そもそも凡夫の頭で浄土が分かる由もないではないか。
南無阿弥陀仏の仏智を頂いて、その仏智で分からせていただくことなのに、それを凡夫の思考レベルに引き下げ、浄土のあれやこれやを論ずることに何の意味があるのか。そもそもどういう目的でそういうことをするのか?(とかく学者は〃考える〃のが好きなようだが、お釈迦様の掌の孫悟空のようなことにならないだろうか)
仏の世界のことは、仏様に聞くよりない。我が身を〃孫悟空〃と知るならば、まずはお聖教を句面のとおり拝すべきであろう。
死に向かう人への単なる〃気休め〃であったり、死んだ人を悼む遺族への〃慰めの言葉〃にしかなっていないのではなかろうか。
浄土真宗の葬式では決まって「亡くなられた方は浄土へ旅立たれました」と言われる。
親鸞聖人の教えからすれば、死んで浄土へ往けるのは信心決定した人だけのはずだが、そんなことを説く人はいない。だれでもかれでも死ねば弥陀の浄土へ往けるように言うのである。
これはただ遺族の心情を慮って、ということばかりではなさそうだ。
そもそも「浄土往生」を説くべき仏法者が、その究極の目的である浄土往生を「一つの考え方」ぐらいに勝手におとしめ、本気にしていないのである。だから、まるで状況主義的、つまりその場その場の状況によって言うことがコロコロ変わる。
そういう状況の中に登場したのが、親鸞学徒の本道たる『歎異抄をひらく』である。
この本には、至るところに親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を通して「浄土往生」が鮮明に説かれる。
「信心一つで、極楽に往生するのだ」
「他力の信心一つ獲得すれば、極楽に往生することに何の疑いもないのである」
「誰もが死ねば仏になれるのではない。現在、弥陀に救いにあい、〃仏になれる身〃になっている人のみが、浄土に生まれ、そこで仏の悟りを開く、これが親鸞聖人畢生の教誡であるからだ」
「浄土往生」を〃一つの考え方〃ではなく、生きた、揺るぎのない現実として断言されているのである。
僧侶から〃観念の遊戯〃ばかり聞かされ、浄土往生を〃そういう考え方〃ぐらいに思っていた真宗門徒が、『ひらく』の本気の主張に動揺したのは、想像に難くない。
そのためだろうか?
本願寺の勧学寮が『今、浄土を考える』という本を出版した。
勧学寮とは、本願寺の教学の最高位の人たちで構成された、あちらの頭脳中枢に当たるのである。
そういう点で、この本は重い意味がある。
なぜ、今、勧学寮が、一般向けに「浄土」について解説した本を出すのか?
何らかの要請あってのことと思われる。
この本の広告のうたい文句には、
亡くなったあの人はどこへ行ったのか?
死んだら私はどこへ行くのか?
とある。こういう問題提起は大いに結構と思うが、その回答となると心もとない。
広告の文面をを見ると、
「自分自身の問題として浄土を考えていく機縁」
「どのように浄土を考えるべきなのか」
「浄土の現代的意義について考える」
とある。
なぜ、凡夫の頭で、浄土を「考え」「現代に意味づける」などという試みに腐心するのだろう?そもそも凡夫の頭で浄土が分かる由もないではないか。
南無阿弥陀仏の仏智を頂いて、その仏智で分からせていただくことなのに、それを凡夫の思考レベルに引き下げ、浄土のあれやこれやを論ずることに何の意味があるのか。そもそもどういう目的でそういうことをするのか?(とかく学者は〃考える〃のが好きなようだが、お釈迦様の掌の孫悟空のようなことにならないだろうか)
仏の世界のことは、仏様に聞くよりない。我が身を〃孫悟空〃と知るならば、まずはお聖教を句面のとおり拝すべきであろう。