静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

勧学寮が『今、浄土を考える』

2010-05-24 19:55:00 | Weblog
「浄土往生」は仏教究極の目的であり、重大な意味を持つ言葉である。さりながら、今日、この「浄土往生」という言葉がどう扱われているか。
死に向かう人への単なる〃気休め〃であったり、死んだ人を悼む遺族への〃慰めの言葉〃にしかなっていないのではなかろうか。

浄土真宗の葬式では決まって「亡くなられた方は浄土へ旅立たれました」と言われる。
親鸞聖人の教えからすれば、死んで浄土へ往けるのは信心決定した人だけのはずだが、そんなことを説く人はいない。だれでもかれでも死ねば弥陀の浄土へ往けるように言うのである。
これはただ遺族の心情を慮って、ということばかりではなさそうだ。
そもそも「浄土往生」を説くべき仏法者が、その究極の目的である浄土往生を「一つの考え方」ぐらいに勝手におとしめ、本気にしていないのである。だから、まるで状況主義的、つまりその場その場の状況によって言うことがコロコロ変わる。

そういう状況の中に登場したのが、親鸞学徒の本道たる『歎異抄をひらく』である。

この本には、至るところに親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を通して「浄土往生」が鮮明に説かれる。

「信心一つで、極楽に往生するのだ」
「他力の信心一つ獲得すれば、極楽に往生することに何の疑いもないのである」
「誰もが死ねば仏になれるのではない。現在、弥陀に救いにあい、〃仏になれる身〃になっている人のみが、浄土に生まれ、そこで仏の悟りを開く、これが親鸞聖人畢生の教誡であるからだ」

「浄土往生」を〃一つの考え方〃ではなく、生きた、揺るぎのない現実として断言されているのである。

僧侶から〃観念の遊戯〃ばかり聞かされ、浄土往生を〃そういう考え方〃ぐらいに思っていた真宗門徒が、『ひらく』の本気の主張に動揺したのは、想像に難くない。

そのためだろうか?

本願寺の勧学寮が『今、浄土を考える』という本を出版した。

勧学寮とは、本願寺の教学の最高位の人たちで構成された、あちらの頭脳中枢に当たるのである。
そういう点で、この本は重い意味がある。

なぜ、今、勧学寮が、一般向けに「浄土」について解説した本を出すのか?
何らかの要請あってのことと思われる。


この本の広告のうたい文句には、

亡くなったあの人はどこへ行ったのか?
死んだら私はどこへ行くのか?

とある。こういう問題提起は大いに結構と思うが、その回答となると心もとない。
広告の文面をを見ると、

「自分自身の問題として浄土を考えていく機縁」
              
「どのように浄土を考えるべきなのか」
         
「浄土の現代的意義について考える」
    
とある。

なぜ、凡夫の頭で、浄土を「考え」「現代に意味づける」などという試みに腐心するのだろう?そもそも凡夫の頭で浄土が分かる由もないではないか。
南無阿弥陀仏の仏智を頂いて、その仏智で分からせていただくことなのに、それを凡夫の思考レベルに引き下げ、浄土のあれやこれやを論ずることに何の意味があるのか。そもそもどういう目的でそういうことをするのか?(とかく学者は〃考える〃のが好きなようだが、お釈迦様の掌の孫悟空のようなことにならないだろうか)

仏の世界のことは、仏様に聞くよりない。我が身を〃孫悟空〃と知るならば、まずはお聖教を句面のとおり拝すべきであろう。


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