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沖縄戦国家賠償責任を認めぬ理由は、天皇の戦争責任を問う事につながるからだ

2017-12-08 14:50:07 | 沖縄

 2017年11月30日、沖縄戦で被害を受けた住民や遺族が国に損害賠償と謝罪を求めた訴訟の控訴審で、福岡高裁那覇支部(多見谷寿郎裁判長)は原告の訴えを棄却した。判決の内容は一審と同様である。一審では、「(戦前の)明治憲法下では国の責任を認める法律がない」と判断。国家賠償法の施行(1947年)前の行為について、国は賠償責任を負わないとする『国家無答責』の原則を採用。「軍人・軍属との差異」は「違法とは認められない」としていた。

 控訴審においては、沖縄戦で住民が追い込まれた「集団自決」について「日本軍の兵士による傷害行為や自殺教唆行為の存在がうかがわれる」と言及し、戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)など精神疾患の訴えを認めながらも、「当時は国家賠償についての規定がない」とし、日本兵の行為についても「(公務員の)逸脱行為について国の使用者責任を認める事は当時の法令解釈上できない。その軍人が個人責任を負うしかない」とし、民間人の救済法が作られなかった事についても「違法性が生じるというものではない」と退けた。

 ところで、沖縄県民はどのように扱われたのであろう。一部ではあるが紹介しよう。

 沖縄県民は軍と「共生共死」を強いられた。1944年7月のサイパン玉砕の後、沖縄守備に当たっていた第32軍渡辺正夫司令官は「地元住民は軍と共に玉砕するのだ」と公言していた。

 次の牛島満司令官(44年8月~45年6月23日)は、地元の官民を喜んで軍の作戦に寄与させるとともに、「敵の来攻に当たりては軍の作戦を阻害せざるのみならず、進んで戦力増強に寄与して郷土を防衛せしむる如く指導すべし」と指示した。

 1944年10月10日の米軍による「10・10那覇大空襲」(沖縄初空襲)以降、現地守備軍の最高首脳たちは、「世紀の決戦場である沖縄の戦略的使命は重大だから、県民は必勝の信念に徹して、一人で敵を十人殺す決意で軍に協力せよ」などと、軍人、非戦闘員の別なく叱咤し、「沖縄は軍の血を流させる『吸血ポンプ』の役割を果たせ」と呼号するだけであった。

 長参謀長は県民に向けて「今更言ったって始まらぬが、ただ軍の指導を理屈なしに素直に受け入れて、全県民が兵隊になる事だ。すなわち一人十殺の闘魂をもって敵を撃砕するのだ」と発言した。

 守備軍首脳は、「直接、戦闘任務につき敵兵を殺す事が最も大事だ」といい、県民に「ナタでもクワでも竹槍でも、身近にある武器で夜間斬り込みからゲリラ攻撃にいたるまで、あらゆる手段を尽くして敵軍を撃滅せよ」と指示した。

 読谷村のチビチリガマでは45年4月2日に「集団自決」(集団強制死)が起きた。「10・10大空襲」以降、読谷村への空爆も日毎に激しくなり、4月1日の上陸が近づくと艦砲射撃も加わり、村民は防空壕と化したガマに釘付けとなった。4月1日、海を埋め尽くした米国軍艦は上陸作戦前に読谷村に向けて艦砲射撃を行ったが、それは約3時間に合計9万9500発、1分間に約552発という激しさで、平均1坪に1発を打ち込んだ。これが沖縄では「鉄の暴風」と名づけられた沖縄戦の状況である。

 チビチリガマの「自決者」数は82人。調査は1983年に苦悩の末になされたが、この人たちの年齢を知ると「集団自決」という言葉は明らかに不適切であり、「集団強制死」と言うべきものである事がわかる。なぜならそれは、0~9歳=26人(幼児・小学校低学年)、10~12歳=15人(小学校高学年)、13~15歳=6人(中学生・うち男3人)、16~18歳=3人(高校生・全員女)、19~49歳=19人(働き盛り・うち男1人)、50歳以上=12人(高齢者・うち男5人)であるからだ(年齢不明者1人除く)。

 半数の41人が12歳以下の幼児と小学生で、中学生と高校生を含めると50人で、61%となる。中学生以上は40人であるがうち男は9人(中学生3人、55歳までの働き盛りが2人で、その2人のうち1人が視覚障害者、1人は身体障害者で、他の4人は老人)で、女が31人で圧倒的に多い。また、25歳から56歳までの17人の女のうち16人が、10歳未満の幼児の母親である。つまり、「教育勅語」を叩き込まれた母親が我が子を道連れにしたというのが実態なのである。そしてこのような行動へ率先して導いたのが、「生きて虜囚の辱めを受けず」と叩き込まれた複数の元日本兵や看護婦だったのである。

 では、上記のような沖縄戦の悲劇が起きた根本原因はどこにあったのか。それは天皇の決断にあった事を紹介しよう。

 1945年2月14日、昭和天皇は国体護持のため、近衛文麿の即時講和を奨める上奏を受け入れず、「もう一度戦果を挙げてからでないと、話はなかなか難しいと思う」と答えた事にあった。そのため、2月26日に大本営が決定した「本土決戦完遂基本要綱」に従い国内の決戦体制が進められるのである。沖縄県は、本土決戦を遅らせる時間稼ぎの捨て石とされるのである。それに対し、米軍は3月26日には慶良間列島へ、そして4月1日には沖縄本島読谷村への上陸作戦を開始し、沖縄県民の悲劇が始まるのである。

 5月19日、昭和天皇は梅津参謀総長を介して沖縄の皇軍に対する次のような激励の言葉を伝えている。「第32軍(沖縄戦の主力部隊)が来攻する優勢なる敵を迎え、軍司令官を核心とし挙軍力戦連日よく陣地を確保し敵に多大の出血を強要しあるはまことに満足に思う」

 6月18日、梅津から牛島満司令官からの「訣別の辞」を知らされ、昭和天皇は「第32軍は長い間、非常に優勢なる敵に対し孤軍奮闘し敵に大なる損害を与え大層よく奮闘す。しかし最後の段階まで立派にやって国軍のためになるように」と述べた。

 このように見てくると、沖縄県民の悲劇の発生は昭和天皇の決断こそが大きな原因である事は明白である。そして、その沖縄県民の悲劇の代償を求めようとすれば、大日本帝国憲法第13条に定める「戦を宣し和を講じる」天皇や、第11条に定める「陸海軍を統帥する」天皇の戦争責任を問う事を避ける事はできないのである。また、職業軍人の戦争責任を問う事も同様に避ける事はできないのである。司法が沖縄戦の国家賠償責任を認めない大きな原因がここに存在するのである。

 大日本帝国憲法下では、軍人・軍属については、佐賀の乱、台湾侵略を機に「恩給制度」により、軍人・遺族らの生活保障をした。また、庶民については、1942年4月の空襲被害を機に戦時災害保護法などを適用した。しかし、敗戦後、GHQが軍人恩給停止命令(45年11月25日)を出したため、「保護法」ともども46年2月に廃止した。ちなみにGHQは「現在の惨憺たる窮境をもたらした最大の責任者たる軍国主義者が、他の多数の犠牲者において極めて特権的な取扱いを受けるがごとき制度は廃止されなければならない」(非軍事化政策の一環)として、軍人恩給に代わる「善良なる市民のための社会保障計画」の提示を求めたのである。

 大日本帝国憲法を否定して新たに制定した日本国憲法の「前文」では先の「アジア太平洋戦争」について反省し、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と定め、「戦争は政府が起こした」ものである事を明確にしている。この事はつまり、日本国憲法下に成立した政権は日本国憲法の精神に則り、大日本帝国政府による人権侵害政策が国民に負わせた被害・損害について、帝国政府に代わって謝罪し賠償の手立てを講じる事は当然至極の事である事を意味していると理解すべきである。旧西ドイツ政府では、空襲被害も戦争犠牲者援護の対象としている。また、ドイツの憲法裁判所は「国家の人権侵害から市民の権利を守る事を任務」としている。

 しかし、主権を回復した現自民党系日本政府はそれとは違った道を選択した。1952年には元軍人軍属を対象とする戦傷病者戦没者遺族等援護法を制定し、53年には軍人軍属の恩給制度を復活させ、54年には戦犯に対する恩給給付さえも復活させた(東條英機未亡人は56万円)。軍人軍属への補償を一番早く復活させ、その補償額も旧軍隊で責任ある階級の高い者ほど高額とする基準を決定をした。つまり、軍人恩給は戦争遂行の功績を讃え、昭和天皇(天皇家)への奉仕に対する「ご褒美」を意味しているのである。しかし一方で、戦時災害保護法は廃止したままにしておき、今日、東京や大阪の大空襲訴訟においても「受忍論」を押し付けつづけ、沖縄戦訴訟においても上記のような、大日本帝国憲法を尊重しこそすれ現行憲法の精神に基づかない、今日の人間からすれば「屁理屈」としかいえない事を理由として棄却の判決を出しているのである。司法は「軍人軍属との差異」を「違法とは認められない」とした理由を現行憲法の精神に基づいて誰もが理解納得できるように論理的詳細に説明すべきである。今日の司法の果たすべき役割は、安倍自民党政府や天皇家に対し、大日本帝国政府が庶民に与えた被害や損害について積極的に謝罪し賠償に応じるよう命じる事である。

 

 

 

 

 

 

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