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天皇の誕生日記者会見:沖縄を無視する差別意識、安倍政権と一心同体で相互補完関係

2017-01-12 14:11:34 | 皇室

 2016年12月、天皇は83歳の誕生日を前に、皇居で記者会見をした。「この1年を振り返って感じられた事をお聞かせください」という質問に答えて述べた内容は、フィリピン訪問、東日本大震災被災地訪問、熊本地震被災地訪問、台風10号による被害について、オリンピック・パラリンピック開催について、タイのプミポン国王死去、三笠宮崇仁親王死去、満蒙開拓平和祈念館訪問、大隅博士のノーベル賞受賞などについてであった。

 この時私がふと思った事は、天皇はなぜ「沖縄県」について述べなかったのだろうというという事であった。

 なぜなら、現行天皇は2003(平成5)年12月18日「天皇誕生日記者会見」では、「沖縄県に寄せられるお気持ちなどをお聞かせ願いたい」と言われ、「沖縄は離島であり、島民の生活にも、殊に現在の経済状況は厳しいものがあると聞いていますが、これから先、復帰を願った事が、沖縄の人々にとって良かったと思えるような県になっていくよう、日本人全体が心を尽くす事を、切に願っています」という内容を述べていたからである。

 さらにここ数年「沖縄県」では直接的には県民全体の「生活」にかかわる重大問題としての「辺野古新基地建設」について安倍政権の対応に憤慨し苦悩してきた。そしてそれは今も継続している。特に一昨年より日本全国民がその行方に関心を持つべき問題としてメディアも取り上げてきたにもかかわらずである。

 このような経過と状況の下で、今回の記者会見で全く触れていないというのは、きわめて「意図的」であると考えてよいと思う。率直に言えば、「政治に、安倍政権の沖縄政策に、不利な影響を及ぼす恐れがある」ので「触れない」という極めて「政治的な意図」に基づく「沈黙」であると考えてよいと思うのである。そして、そこには、天皇自身が「沖縄県民」に対する「差別」(人権侵害)意識を持っているからであり、安倍政権と結託しているからであると思う。

 「沖縄県」に関する発言は「政治的発言」と受け止められる可能性があるから発言を控えたと考える人がいるかもしれないが、2003年の「会見内容」も厳密に考えれば「政治的発言」だと言ってよい。しかし、その際には問題化しなかった。ならば今回においても「沖縄県」について発言する事は可能だったのではないか、また、すべきだったのではないかと思うのであるが、まったく触れなかったのである。

 質問に答えて述べた内容を見れば、一見、「災害」見舞、スポーツ、学術、死去がほとんどであり、天皇は憲法で「禁じられている」「政治的発言や行為」を「認められていない」事から、その事に抵触しないと国民が見做すような発言をしたと考える人もいるだろう。

  そこでであるが、国民は改めて「政治的行為や発言」とは何かを明確にする事の重要性を考えるべきであると思う。つまり、「政治」というのは厳密に考えれば「生活」のすべてであるというべきであると思う。そのように考えれば、記者会見の内容は一見、「憲法に抵触しない」ように思えるが、そのすべてが天皇の「政治的発言である」と解釈できる事になるのである。

 しかし、国民は「政治的」という意味を明確に理解していないために、「会見内容」に対して、「政治的発言ではない」と思い込み、「思考停止」状態になり、判断力も働かせずに受け入れる状態に自ら陥っているのが現状である。そして、天皇と安倍首相は、国民のその意識状態を利用して、「国民を自分たちの意に沿うようにコントロールする小道具」として「天皇の発言」を利用していると考えるべきではないだろうかと言いたいのであるがどうだろう。

 生活上の問題はすべて政治問題であるわけだから、政治の場において解決されるべきものであるが、会見内容を見るとその解決方法のあるべき姿として示されているのは、たとえば、

 東日本大震災については、「国民皆が寄り添い、協力していく事が必要と感じます」というもので、自民党政府の政策の問題、人権侵害の問題、損害賠償の問題として追及させない効果を持つ「政治的発言」である。

 熊本地震についても同様で、「皆が協力し合って困難を乗り越えようと取り組」む事を奨めようとする「政治的発言」である。

 災害全般については、「近年、個人や様々な団体と共に、各地の県や市町村などの自治体が、被災地への支援の手を差し伸べ、さらにそれを契機として、全国で様々な地域間の交流が行われるようになってきた」事を評価し奨めようとする「政治的発言」である。

 オリンピックについては、「多くの人々の関心が寄せられている事」を喜び、「国民に協力する」ように奨めている「政治的発言」である。

 ノーベル賞受賞については、この事を価値ある事として、受賞者を模範として努力する事を国民に奨めようとする「政治的発言」である。

 このように考えると、天皇や皇族が恣意的に行っている「象徴行為(公的行為)」というものに対し、国民が、憲法に照らして、改めてどのように評価しどのようにするべきか(例えば廃止、禁止とか)、について、適切な回答が見えてくるのではないだろうか。

 そしてさらに、天皇は自らを宗教者「ローマ法王」のような役を演じ、「発言」をしているようであるが、これが問題なのである。

というのも、天皇は、ローマ法王とは全く異なる、普遍性を持たない極めてマニアックなカルト宗教「神道」の最高祭祀者であるからだ。また、天皇は全国民をその氏子と見做して発言している。そして、彼の先祖「神武天皇」、その祖先「天照大神」、それを祀る「神道」の神像「日の丸」 とその讃歌「君が代」と教典「教育勅語」に対して、国民が「賛意」を示す事を当然と考えているのである。

 このような点から、天皇は現代世界に存在する「国王」とはまったく異質な体質を持っており、たとえば、英国の女王とも異なるのである。そういう体質を持つ天皇が、信教の自由を憲法で保障されている国民を象徴しているというのは論理的におかしいという事になるし、象徴的行為を行っている事もおかしいという事なのである。

 

 

 

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