「論」ブログヨシ樹

様々な話題を縦横無尽に語るパラダイムの転換を惹起するブログ。老若男女必読!

お蔭様で一周年!

2010年05月30日 | 読者との交流
一周年の記念記事を書く、と当ブログの兄弟ブログ“ヨシ樹の雑記帳”で告知したが、実はこう書き出している今もどう書こうか判然としないままなのである。一周年記念記事ということで書くジャンルとして新機軸である映画の論評でもしようか、と考えたが、あいにく私の住まいには映画のビデオやDVDが一本もない。これではあいまいな記憶のまま書き出して終わるに違いない。論評の際、何か事実を確認をする必要に迫られた時、そもそも当の映画のDVDがなければ観て確認することができない。確認しないままでは読者に嘘を伝えることになりかねず、読者に対して大変、失礼であるし、そんなブログは早晩、淘汰されるに相違あるまい。

事実を確認するのを怠り、読者に誤ったことを伝えるのは表現者として許すまじき行為である。嘘の記事は絶対に人の心を打たない。表現者に求められる資質として一番大事なのは誠実さに他ならない、と私は信じている。そういう次第であるならば、映画の論評は今回は控えるべきである、という結論に至った。

私はテレビは否定するが映画は肯定する。理由はあるが今回は詳らかにはしない。というのもその理由だけで一つの記事が書けてしまうからだ。またの機会に譲ることにする。今まで相当数の映画を選りすぐって観て来た。そのうちで感銘を受けた映画は少なくない。機会があれば、ぜひ優れた作品の評論を発表していきたい、と考えている。

私は映画館で映画を観覧することは滅多にない。映画館では二時間ないし三時間じっと座っていなければならず、それが堪らなく苦痛なのである。途中でトイレに行きたくなっても事実上、行けない。家のDVDで映画を観ている方がよほど気が楽であるし、愉しめる。高い料金を支払い、わざわざ窮屈で暗い映画館に足を運ぶ人たちの心理が私には理解できない。映画館と家のDVDとでは迫力が違う、などともっともらしいことを口にする人もいるが、それほど違うのであればレンタル屋でDVDを借りる人など皆無になるのではないか。いたずらに屁理屈を述べているとは思わない。突き詰めて考えればそういう次第になるのではあるまいか。

大学時代に映画製作を志す兄弟との邂逅があり、映画に限っていえばこの兄弟の影響を深く受けた。実は本ブログに載せられている記事「東京ソロツーリング 下」で記した神奈川県の小田急相模原駅で久し振りに再会を果たした友人たちとはこの兄弟のことである。大学生の当時、彼らの下宿に有志が集い、しばしば映画鑑賞をする機会があったのだが観ている際は映画に集中しなければならず途中でトイレに立つようなことがあれば厳しく咎められた。私がテレビで「ターミネータ2」を途中から観たことが分ると叱責までされた。どうやら彼らはジェームズ・キャメロン監督を高く評価しているらしかったが、これには閉口した。

以上の経験は映画を否定的に捉えることなりかねない悪い影響であるが同時に彼らからは映画に対する熱い気持を学んだ気がする。よい作品も教えてもらった。屹度よい影響もあるはずである。映画の話はここまで。いつか書く機会があるだろう。乞うご期待。

私がこうしてブログを続けている間、幾つかのブログがあるいはビルドされ、あるいはスクラップになっていった。いわゆるスクラップアンドビルドである。中には毎日更新されていたが途中で書くネタが尽きたのか閉鎖されているブログもあった。ブログを立ち上げるだけなら誰にでもできる。難しいのは続けることだ。その中でまずは一年続けることができたのは一重に読者諸賢のお蔭である、と感謝している。

本年四月に立ち上げたもう一つのブログである“ヨシ樹の雑記帳”は原則として毎日更新している。たしかに毎日の更新は大変である。しかし、私はこれからも毎日更新していける、と思う。かつての手塚治虫の言葉ではないが、アイデアはバーゲンセールに出すほどあるのだ。

あの超多忙な勝間和代でさえ三つのブログを運営しているのである。私は勝間和代の考え方はあまりにも現世的で成功主義に立脚している点で甚だ懐疑的な評価をくだしている。それでも学べるものもあるのではないか、と思い数冊読んだ。自分と異なる意見も読み、論破するべく考えを練るために数冊、購入したのである。

以上のように私が勝間の本を読んだ動機はあくまで自分とは異なる意見を知るためである。ところが、〈カツマー〉とかいう彼女の熱狂的なファンがいることや、彼女がNHKの紅白歌合戦の審査員を務めたことをもって時の人として評価する向きもあるようだが、そういうのを事大主義というのだ。直に彼女の本を読んだうえで評価するか否かを決めればよいのである。紅白歌合戦の審査員を務めたから何なのか。熱狂的な追っかけがいて、その著書の売り上げが多いのが何ほどのことか。全ては本を実際に読んで判断すればいいではないか。

話が逸れたが『勝間和代のインディペンデントな生き方 実践ガイド』(ディスカバー携書)からブログに関する部分を引用しよう。《私は三つのブログを作っています。二つのブログは週に一回ずつ、一つのブログはほぼ毎日、更新しています。そのうちの一つのブログは「ながら学習」を紹介するもの、もう一つのブログはいろいろなマーケティングの切り口や手法を紹介するもの、最後のブログは、おもしろいと思ったことをランダムに記述していくものです。》

三つのブログを併せると一日平均四千人くらいの人が何らかの形で読むのだという。多忙を極める彼女さえ三つのブログを管理しているのだ。そうであるならば、私の不定期更新の“「論」ブログヨシ樹”並びに原則毎日更新の“ヨシ樹の雑記帳”を管理するくらい何でもない。

一周年の記事、やはりうまく書けなかったが、とりとめがなくなってきたのでもう終わるとしよう。最後に読者諸賢よ、今までのご愛読を感謝いたします。これからも二つのブログのご愛読何卒よろしくお願いいたします。なお、コメントをいただけると幸甚です。


以上
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥飛騨ツーリング 下

2010年05月23日 | オートバイ

▲ 山の名は忘れたが上りのロープウェイからの眺望


午前七時に起きてみると、そこはホテルの客室であった。ホテルに宿泊している以上当たり前だが常日頃マンションで寝起きしている私は少々、違和感を覚えたのである。旅は非日常とよく言われる所以だ。快眠できたうえで目を覚ましたので気分爽快である。ぐっすり眠るというのは、こんなにも清々しいことなのか。

そういえば、鬱病の兆候は睡眠に表れるらしい。酷く疲れて横になっても眠れない日々が続くのだそうだ。たしかに、それでは堪ったものではない。精神を病むのもむべなるかな。疲れて眠り、リフレッシュできるというのは当然のことではない。人は失ってみて初めて健康の大切さを知るのである。これは至極哀しいことである。何事も失ってみるとその有り難さが身に沁みて判るのだ。

以上のように快適に眠れた旨を弟に告げると、弟は一瞬、顔を歪ませ、私が鼾(いびき)をかき、且つそれが大きい鼾なので度々、起こされて十分に眠ることができなかった、と私に愚痴った。私は鼾をかくのか。それも大きな鼾なのか。自分が鼾をかくなどと指摘されたのは私のこれまでの生涯で一度もない。これには驚いた。

そうか、私は鼾をかくのか。それゆえに弟の睡眠を妨げてしまったのか。さぞかし迷惑だったろう。金沢にある弟の住まいで眠った時は弟は二階、私は一階で寝ていたので弟は鼾について気付かなかっただけなのであろう。そして、それゆえに私は自分が鼾をかくなどとは夢にも思わなかったのである。

とまあ、少し落ち込んだがホテルの大広間で朝食を済ませ、午前十時にホテルをチェックアウトした。ツーリング二日目はすでに始まっている。些細な事で悩むのは勿体ない。本日も快晴で外が眩しいくらいだ。絶好のツーリング日和である。目指すは〈新穂高ロープウェイ〉である。


▲ 写真はしらかば平駅でRWを待っている乗客


〈新穂高ロープウェイ〉は新穂高温泉駅から鍋平高原駅までの第一ロープウェイと、しらかば平駅から西穂高駅までの第二ロープウェイの総称である。通しの片道所要時間はおよそ二十五分で標高差は1039メートルある。

昨日の夕方、宿泊ホテルに行く道すがら高山市からそう遠くない場所に位置するコンビニで〈新穂高ロープウェイ〉の格安往復チケットを購入したが、観察していると、たいていの客は〈新穂高ロープウェイ〉の各駅でチケットを購入しているようである。格安チケットは正規の値段のチケットより数百円安いだけなので、それほどのお得感はないが、それでも数百円あればツーリングの際の水分補給の役割を果たすお茶のペットボトルが何本か買える。

少々セコイかもしれないが、節約できるところは節約するべきであるし、貰えるものは貰っておいて損はない。旅の費用は決して莫迦にならない。旅費は徹底的に管理するべきで万が一にも足が出る、ということがあってはならない。言うまでもないが、私たちは自分の身の丈に合ったお金の遣い方をするべきである。赤字だけは何としても避けねばならない。


▲ 上りのRWを下りのRWからケータイで撮影


ロープウェイからの眺望は素晴らしかった。思うに乗客は皆この眺望にお金を支払っているのだ。山々の肌の肌理まで仔細に見ることができた。冠雪残る穂高連峰を見て私は少なくない感動を覚えた。ロープウェイに乗っているのは時間にして片道三十分を軽く切るし、運賃も決して安くない。が、それにもかかわらず〈新穂高ロープウェイ〉に乗る意義は十二分にある。

ロープウェイを降り、新穂高温泉駅を後にすると〈市営食堂〉を目指した。ガイドブックには〈市営食堂〉は《登山者に愛されてきたリーズナブルに地元の味が楽しめる食堂》と評されていたので旅の予定に入れておいたのである。だが、観光案内所で訊ねてみると、すでに廃業している、とのこと。結論のみ述べると、私たちは道の駅近くの食堂でラーメンを注文した。いわゆるご当地グルメを愉しむことは叶わなかったのである。

食べてからまたバイクに往く道を走らせたが満腹のためか酷く眠い。バイクの居眠り運転などほとんどの読者諸賢にとって、おそらくは初めて聞くことに相違あるまい。だが、この時、私はほんの一瞬であるが眠ってしまいハッとしてハンドルを強く握りなおしたことが一再ならずあった。断っておくがこれは実話である。ぐっすり眠り、睡眠は十分な私にしてこの有様なのだ。そうであるならば、あまりよく眠れなかったと呟いた弟はどうなのだろう。ふいに心配になった。だがライダーは独りでバイクを走らせなければならない。私が心配してどうなるものでもない。弟にしろ、私にしろバイクに跨っている間はどのような障碍であれ、自分独りで乗り越えなければならないのである。

食堂で麺は言うに及ばず、汁まで一滴も残さず飲んだのが災いしたのかまだ眠い。快晴の午過ぎで山間部にもかかわらず、昨晩とは打って変わってポカポカ陽気なのだ。余談になるが、かつて物議をかもした『完全自殺マニュアル』に快適に死ねる方法として〈凍死〉が挙げられていた。〈凍死〉は体中が徐々にポカポカになり気持よく死ねるらしい。ちなみに一番キツイ自殺の方法は焼身自殺であるそうだ。それはともかくこの〈ポカポカ〉はライディング中は至極厄介である。時間の経過と共に覚醒できたが危険であった。

今回は往路と復路は異なる道を使った。復路は高山ではなく富山を経由して金沢に戻ったがまだ陽は落ちていなかった。私にとってこの週は名実共にゴールデン・ウィークであったと評してもよいだろう。

終わり
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥飛騨ツーリング 中

2010年05月16日 | オートバイ


        ▲ 古都金沢の街並み

五月二日日曜日未明、金沢にある弟の住まいで午前四時過ぎに目が醒めた。明るくなってから窓越しに外を眺めると、晴天である。しかも快晴であった。この天気は有り難い。バイカーにとって不幸なのは旅先でのトラブルでも、もしかすると、事故でもなく、ツーリングのまさにその日の悪天候に違いないはずである。私のこの表現はいささか語弊があるかもしれぬがバイカーに共通した心理である、と信じる。

今日、岐阜県の奥飛騨まで行くのだが逸る気持を抑えなければならない。なぜといって、二階で弟がまだ寝ているからだ。昨日の疲れもあるだろうし、ビジネスマンとして多忙を極めた余裕のない日常を過ごしているのだろう、溜まった疲れもあるに違いない。それにもかかわらず、今日・明日のツーリングに付き合ってくれるのだ。私にできるのは「待つ」という単純な心遣いくらいのものである。そうであるならば、自分の昂る気持を抑えることくらいしないでどうする、私は自分自身に向って叱咤していた。

私は旅先ではいつも早く起きる。釣り人が早朝に起床するのと何ら選ぶところはない。愉しみがあれば、私たちは日頃、困難に思えてしまうことも造作なくできてしまうこともある。思うに人生も同様ではあるまいか。

人生のゴールは天皇であろうと乞食であろうと人を選ばず、誰であれ死である。まさか異論はあるまい。人間の致死率は百パーセントである。死の向こうに天国が待っていると確信できれば、この人生で出来する様々な不条理にも容易く耐えていけるはずである。

「人は死んだらゴミになる」とかつての某検事総長がのたまったらしいが難関の司法試験に合格を果たし、出世をし、検事総長にまで上り詰めた、いわゆる成功者の言葉がこんな不見識のていたらくなのである。地位ある人の正直な言葉ではあるだろうが、これではあまりに内容がないし、淋し過ぎる。私がかねてより成功と幸福は同義ではない、と主張する所以である。

死んだら無になるだとか、ゴミになるという思想信条で検事総長と比較すれば凡夫である私たちは、この困難な現世(うつせみ)を渡っていけるのだろうか。私は死の向こうには永遠の世界がある、と信じている。嗤わば嗤え!嗤うあなたは死んだら無になるのか。ゴミになるのか。この残酷と間抜けが同居しているような殺伐とした思想こそ嗤うべき背理が含まれているのではないか。この救いのない思想信条は人権思想を金科玉条のように奉っている今日の憲法の考え方に著しく反する。憲法の精神を遵守しなければならない法律家を束ねる高い地位にある人の前掲の言葉は人間の尊厳を踏み躙る何とお粗末な言葉であることか。若かりし頃、法曹を目指した人間のひとりとしても私は自分の全存在を懸けてこの思想に抗う。

話が大分逸れた。閑話休題。弟が起きてきた。私たちは弟の住まいの近くのマクドナルドで朝食を食べた。食べている間に富山から末弟たち家族もこのマクドナルドに到着した。合流した末弟たちは車を近くのスーパーの駐車場に停め、すぐ下の弟の車に全員が乗り込み、弟の通っている金沢中央教会を目指した。むろん、目的は礼拝に出席するためである。

この教会の礼拝に出席するのは昨年秋の能登ツーリング以来である。礼拝が終わり姪を膝から下ろすと若い女性が声を掛けてくれた。聞けば昨年、一回きり出席した私を憶えている、と言う。如何にもクリスチャンの女性らしい気配りであると思った。とはいえ、声を掛けられて嬉しくないわけはない。今こう記していて牧師のメッセージよりも彼女の配慮の方が心に残っている始末である。礼拝後のかようなフォローは至極大切である。この女性、若いのによくやっているな、と思った。

金沢中央教会を辞し、末弟たち家族、すぐ下の弟、及び私の五人で遅い昼食を共にした。私たち大人が食事をしている間、姪は夢の中の国にいた。姪にとっては勝手が違う場所で普段逢わない私たち伯父と行動して疲れたに相違あるまい。私は姪を見遣りながらそんなことを考えていたかもしれない。

昼食を終え、末弟たち家族と別れ、いよいよ奥飛騨に向けてのツーリングである。午後三時過ぎに金沢を発ち、北陸道の小矢部砺波ジャンクション(以下Jctと記す)を経由し、東海北陸道の飛騨清見Jctを降り、高山市内を駆け抜けた。高山を過ぎた辺りから山林が多くなり道幅は狭く、進むにつれて標高が上がる。標高が上がれば当然のこと、気温は下がる。五月初旬だが、寒いのだ。夏山登山をしたことのある人はご存知だろうと思うが夏にもかかわらず山頂付近の山小屋ではストーブが焚かれているくらいである。

私は大学時代、夏休みに上高地に近い、徳沢園をベース・キャンプにして蝶ヶ岳と槍ヶ岳に登った経験があるので、今回のゴールデン・ウイークのツーリングの行き先が急遽、奥飛騨に変更した際、何枚もの重ね着の必要性に気付いていた。そう、夏山でさえ山の上部では冬並みに寒くなるのである。

私は上半身は全部で四枚、下半身は全部で三枚を着込んでいた。内訳は上半身はTシャツ、フリース、ナイロン製パーカー、ライディング・ジャケット(ただし、メッシュ仕様)で、下半身はトランクス、防寒タイツ、革パンツである。そして、手にはグローブを嵌め、足には革製のブーツを履き、首から上はシールドの付いたヘルメットを被っている。私なりの山に向けての完全防備だが、それでも陽が落ちた山道(山道だが舗装はされていた)を走っていると冷気が隙間から入り込んでくる。



      ▲ 宿泊したホテルの部屋



      ▲ ホテルの夕食 旨かったあ~

弟は以上の知識がなかったのだろう、おやっと思うほど軽装で、後から酷く寒かった、と私にこぼした。弟は新平湯の宿泊ホテルに到着するや否や温泉に直行し、身体の芯にある冷気を温めているようだった。弟の荷物は手提げであるし、ライディング・ウェアは着ているものの、ちょっと買い物に行ってくるわ、というようないでたちだったのでさすがに山の寒さが身に沁みたはずである。私は予備のフリースを一枚、弟に譲った。ホテルに到着したのは午後七時で八時には大広間での夕食であった。弟の言葉を借りれば、〈密度の濃い一日〉の夜はこうして更けていった。

つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥飛騨ツーリング 上

2010年05月09日 | オートバイ


▲ またもやビッグ・スクーター、ホンダのフュージョンとヤマハのドラッグスター

ゴールデン・ウィークを利用して岐阜県は奥飛騨までバイクでツーリングに行ってきた。ご承知のとおり今年のゴールデン・ウィーク期間中は全国的に天気は良好で東海北陸地方も例外ではなく、ツーリングの間中快晴であった。今回のツーリングの一日目は金沢から奥飛騨温泉郷近くの新平湯に位置するホテルまで向った。バイクで疾走している際に目に飛び込んでくる景色は絶景と評してもよいくらい見事なものであった。

奥飛騨の山間部にはちらほら桜が咲いていた。ひっそり静かに咲いていて花弁の色はピンクというよりは白に近い淡い色である。私は人知れず寡黙に咲いているかような桜を大変、好ましく思った。豪華絢爛に咲いている桜よりも目立たず自己主張していないような桜を私は好む。私が好む人物像もこの奥飛騨で控え目に咲いていた桜と重なる。

思うに自己顕示欲が旺盛な人物は春に咲く桜から謙虚に〈無私〉という言葉の真の意味を学ぶべきである。むろん、私とて例外たりえず私も含めて述べているのだ。表現者は自然から多く学べる。『万葉集』に多く自然を詠んだ歌があるのは怪しむに足りない。

どうやら話を急ぎすぎたようだ。今回のツーリングは東京ツーリングの際と異なり、旅の道連れがいた。すぐ下の弟である。すぐ下の弟の住まいは金沢市にある。今回のツーリング・プランは昨年秋の能登ツーリングの時と全く同じである。すなわち、ETCを装着したマイカーで金沢市まで行き、バイクは現地で調達するのである。



▲ ゴールデン・ウィークで渋滞中の東名高速道路

五月一日の土曜日未明午前四時に私は自分の住まいを発ち、一路北陸道の金沢東インターチェンジ(以下、ICと略す)を目指した。愛知県の某ICから東名高速道に入ったが車を走らせてしばらくすると前が詰まりはじめた。東名はすでに渋滞していてなかなか前へ進めない。結局、岡崎ICまで行かないうちに一時間も費消してしまった。

結論のみ記せば、金沢東ICに辿り着くまでに六時間強くらいかかったことになる。高速道路を使用した割りにべらぼうな時間が費やされたが私は前もって予想できていた。インターネットで当日の渋滞を考慮したうえでの予想時間を調べていたのだ。驚きを禁じ得なかったのは金沢まで六時間近くかかったことではなく、予想時間の正確さである。ほとんど誤差なくピッタリの時間に金沢に到着した。

一方、私とは別に末弟たち家族も兵庫県某市から金沢を目指して高速道路を進んでいた。タッチの差で ―本当に僅差だが― 私の方が金沢市のくだんの住まいに先に到着した。昼食を蕎麦屋で共に食べ、その後、車二台に分乗してお隣の富山県にある富山市八尾町に向けてさっき通ったばかりの北陸道を北上した。

富山の八尾は親父の故郷で九十二歳になる親父の母親が住んでいる。私たち兄弟からすれば祖母である。今回、末弟が祖母に嫁と姪のお披露目をするのに乗じて私と真ん中の弟、末弟たち家族の総勢五名で親父の実家である八尾を訪れた。

伯父によれば、案内したい場所や見せたい物があるので午後四時までには到着するように言われていたので金沢市で食事をしてから間もなく八尾に向った。遅れずに到着し、親父の生家の玄関の呼鈴を押すと伯母が迎えてくれ、後から伯父が出てきてくれた。ちなみに祖母は伯父と伯母と共に一つ屋根の下で三人で暮らしている。近所には従兄が家を構えて家族と住んでいる。



▲ 富山市八尾町にある中核工業団地の遠望

私たちは伯父の案内で近くの工業団地を小高い丘から遠望した。その際、伯父はあれこれ指差しながら、煩を厭わず丁寧に工業団地について説明してくれた。それから、納屋に並べてある民具や農具を伯父の案内を聞きながら閲覧し、茶菓を食べながらひとしきり談笑し、いよいよ夕餉(ゆうげ)である。

夕餉には豪勢に寿司が振舞われた。一つひとつが美味しい寿司で海の幸を食べるなら日本海側、さらに言えば北陸の富山や新潟に止(とど)めをさすだろう。寿司だからと言うべきか、酒も振舞われたが私はアルコールは好まないので帰りの運転を理由に酒は呑まない旨を伯父に告げた。半分は方便であるが、もう半分は運転の必要に迫られての本気だった。

この宴(うたげ)には祖母も参加していた。祖母の立ち居振る舞いは九十二歳とは思えないほど、かくしゃくとしていて決して緩慢ではない。思うに若い頃から野良で働いてきて足腰が丈夫なのだろう。ただし、寄る年波で耳が遠くなっていた。宴の途中、私は時折、周りに気取られぬよう祖母の様子を注視していたが皆が笑って盛り上がっている時に祖母が笑わない場面が度々あった。淋しそうな固い祖母の表情が気になった。

耳が遠くなってコミュニケーションが取れないのか。さもなくば、別の理由によるものか。まさか祖母本人に直接、問い質すこともできず今でも気懸かりではある。柱時計がボーンボーンと午後九時を知らせたのを機にこの辺でお暇するのが適当と考え、末弟家族を残し私たちは祖母の家を辞すことにした。一番下の弟たち家族は一晩、泊まっていく予定なのであった。帰りしなに伯母から富山名物〈ますの鮨〉をお土産に渡された。ここまでしてくれたのだが私はありきたりの感謝の言葉を訥々と述べることしかできなかった。こういう時、弁が立つ人を羨ましく思う。

帰る際は祖母をはじめ、伯父、伯母、従兄、末の弟たち家族が総出で見送ってくれた。幼い頃,親父が運転する車で八尾に帰省し再び私たち家族が帰る時にいつもしてくれたあの変わらぬ心遣いである。私たちの乗る自動車はやがて小さくなり、テール・ランプごと夜の闇に消えていった。

つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする