山田支隊による幕府山の捕虜殺害は、おそらく一部隊による、一回(ないし一続きの)捕虜殺害としては最大規模のものである。殺害場所は揚子江岸で幕府山で
はないのだが、地名を特定することが困難であるためか、捕虜が捕らえられ、一時収容されていた幕府山砲台の名を冠して呼ばれるのが普通である。
事件発生まで上海派遣軍の第13師団(師団長荻州立兵中将)は12月2日に江陰を占領した後、その主力は鎮江に向かった。第13師団には鎮江で揚子江を渡り、第十軍の国崎支隊と共に中国軍の退路を断つ役割が与えられていたが、渡河2日前の12月12日、歩兵第65聯隊(聯隊長両角業作大佐)を基幹とする支隊(歩兵第103旅団長山田栴二少将が指揮)が編成され、「烏龍山砲台ならびに幕府山砲台を占領し佐々木支隊の進出を容易ならしむべし」との任務が与えられた。佐々木支隊とは第13師団の南側を進軍していた第16師団のうち、佐々木到一少将が指揮する歩兵第38聯隊を基幹とする部隊のことである(このエントリに添付の作戦経過要図、および
「幕府山捕虜殺害事件(2)」に添付の南京攻略概要図を参照のこと)。
12月13日午後、第一大隊が烏龍山砲台を占領、聯隊主力は翌14日午前に幕府山砲台を占領したが、その際支隊の数倍に達する数の捕虜を得た。
山田支隊による幕府山砲台占領と捕虜については当時の日本でも報道された(『アサヒグラフ』掲載の写真は
ここで見ることができる。pippoさんのご教示による)。
朝日新聞 37年12月17日 朝刊
持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種
[南京にて横田特派員16日]
両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕へた部隊の方が聊か呆れ気味でこちらは比較にならぬ 程の少数のため手が廻りきれぬ始末、先づ銃剣を捨てさせ附近の兵営に押込んだ、一個師以上の兵隊とて鮨詰めに押込んでも二十二棟の大兵舎に溢れるばかりの大盛況だ、○○部隊長が「皇軍はお前達を殺さぬ 」と優しい仁愛の言葉を投げると手を挙げて拝む、終ひには拍手喝采して狂喜する始末で余りに激変する支那国民性のだらし無さに今度は皇軍の方で顔負けの体だ。
それが皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ、一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求めているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった。
(後略)
ところがこの約1万5千人の捕虜がその後どうなったかについては続報もなく、現存する旧日本軍の公式文書でも確認することができない。しかしながら、少なくともその一部が山田支隊によって殺害されたことについては異論がない。
確実な事実殺
害された捕虜の数については、歩兵第65聯隊の地元福島の『福島民友新聞』が刊行した『ふくしま・戦争と人間』(第1巻、白虎編)の約400人説から2万
人以上説までがあり、犠牲者数推定に大きな幅がある点でまさに南京大虐殺を象徴するような事件である。まずは立場を問わずほぼ認められている事柄を列挙す
ると次のようになる。
- 12月14日、山田支隊が約1万5千人(山田支隊長の日記ほかによれば14,777人)の捕虜を得たこと。
- これら捕虜の処置・処遇に関する公式の記録(戦闘詳報等)は発見(ないし公開)されていないこと。
- 捕虜の処置をめぐって山田支隊と上海派遣軍のあいだにやりとりがあったこと。
- 山田支隊に対して捕虜殺害の命令が出たこと。
- 捕虜を仮収容中の兵舎で火事が起こったこと。
- 人数・理由は別として捕虜の殺害が行なわれたこと。
- 山田支隊将兵にも死傷者が出たこと。
そして1.~7.のおのおのについて議論が分かれている事柄のうち主要なものは次の通り。
争いのある事柄1.→捕虜の中に老人、女性など非戦闘員は含まれていたのか? 含まれていたとしてどれくらいの数であり、また非戦闘員は解放されたのかどうか。捕虜を得たのは14日だけなのか、あるいはその後も増えて2万人を超えたのか。
3.→やりとりの詳細。殺害命令を下したのは誰なのか。
4→山田支隊長、両角連隊長は捕虜を解放するつもりだったのかどうか。
5.→火事の起こった時刻、規模、放火か失火か。火事に伴い捕虜の逃亡があったか。
6.→約400人説~2万人以上説。自衛発砲説と計画殺害説。
殺
害数を少なく見積もる論者の主張を集約するとこうなる。捕虜のうち約半数は非戦闘員だったのですぐに解放された。火事は大規模なものであり、その際約多数
の捕虜が逃亡した。残った捕虜(約4,000人)を密かに解放するつもりで揚子江岸につれ出したところ、捕虜の暴動が起き止むを得ず発砲したが、この際に
も多数の逃亡を許した…。
『ふくしま・戦争と人間』や『南京戦史』のこうした主張にまず感じる疑問は、これらによれば約15,000人のほとんど
が逃亡したことになるにもかかわらず、中国側の資料・証言が非常に乏しいことである。1万人以上の人間が逃亡したのであれば、戦後まで生存して証言する人
間がもっといてもよさそうなものであるが、これまでのところ生存者の証言として日本で紹介されているのは一例だけのようである。これはいかにも不自然だ。
また、山田支隊の何倍もの人数でありながらあっさり武装解除に応じた捕虜たちが、その後満足に食事も与えられず衰弱していたであろう状態で、大規模な逃亡や暴動を企てたというのもただちに首肯しがたいはなしである。
真相の解明を困難にしている要因の一つは、山田支隊長の日記が極めて簡潔にしか書かれていない、ということである。14日から19日までの日記から関係する記述を再掲する。
他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発、幕府山砲台に向う、明けて砲台の附近に到れば投降兵莫大にして仕末に困る
(…)
捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元門外の三軒家に泊す (14日)
捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり (15日)
相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合せをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり (16日)
捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す (18日)
捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ (19日)
些事にいたるまで書かれた日記のなかにこれだけの記述しかないのではなく、引用にあたっての省略箇所はごくわずかでほとんどこれに尽きる、と言っても過言
でないほどである。そのため「火事についての記述がないのは火事が起こらなかったか、起こってもぼや程度だった」とはこの資料だけからは即断できず、また
捕虜が14日の約15,000人だけだったのか、それともその後増えた分については書かなかっただけなのかについても同様である。日記からは山田支隊長が
独断で捕虜の殺害を決めたわけではないらしいことがうかがえるが、被害者少数説が主張するように積極的に助けようとしたとまでは言えない。むしろ“殺害す
るにしても山田支隊の戦力で実行するのは困難”という困惑を読みとるのが自然であろう。捕虜の処置に対する問い合わせの相手は15日は「南京」、16日は
「軍」となっている。後者は上海派遣軍司令部のことであろうが「南京」の相手はだれか?
『南京戦史 資料集』に収録されたその他の日記から、関係する記述を(12月20日以降の分も含めて)引用する。
山田支隊の俘虜東部上元門付近に一万五、六千あり 尚増加の見込と、依て取り敢えず16Dに接収せしむ。 (飯沼派遣軍参謀長、15日)
荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処 何日かに相当多数
を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒がれ 遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し 且つ相当数に逃げられたりとの噂あり。上海に送りて労役
に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも (昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるべし。 (同、21日)
N大佐より聞くところによれば山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払い散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり。 (上村派遣軍参謀副長、21日)
飯沼、上村両日記から推測できるのは、15日に本間騎兵少尉に対して「皆殺せ」と言ったのは上海派遣軍(ないし中支那方面軍)ではなかったろう、というこ
とである。15日の時点で上海派遣軍の司令部も中支那方面軍の司令部も南京城内にはなかった。本間騎兵少尉が向かったのが「南京」であること、飯沼参謀長
が捕虜を第16師団に接収させようとしたことから考えれば、「皆殺せ」はすでに「南京」に師団司令部を構えていた第16師団が主張したことだと考えるのが
自然である。派遣軍が「上海に送りて労役に就かしむる」という方針を決めたのがいつなのかははっきりしないが、山田支隊への連絡が間に合わなかったらしい
ことは推測できる。また、飯沼日記からは15日以降捕虜が増えた可能性を排除できないこと、しかし増えていたとしても上海派遣軍には報告されていなかった
可能性があることを推測できる。
もう一つ、両日記とも「不始末」「下手なこと」については伝聞として記していることに留意すべきである。山田支隊からのきちんとした報告ではなかった可能
性が高い。山田日記には「山田支隊の将兵にも死傷者が出た」「相当数の捕虜に逃げられた」という2点とも記載がないことにも留意する必要がある。上述した
ように極めて簡潔な記述しかないとはいえ、飯沼・上村日記が伝えているような「噂」が真実だったとすると一言も触れていないのは不自然である。
山田支隊長、飯沼参謀長、上村参謀副長の日記からの絞り込みはこのあたりが限界である。稿を改めて、殺害
された捕虜はごく一部であるとする論者が依拠する両角歩兵第65聯隊長の手記、そしてこれまで言及してこなかった下級将校・下士官・兵士の陣中日記の検討
をおこなう。参考文献等についてはその際にまとめて挙げることとする。