日中戦争スタディーズ

2006年12月1日本格運営開始。私たちは日中戦争についてどれだけ語ってきただろうか?

その後の中支那方面軍

2006-12-31 00:03:43 | 1937年の今日
南京攻略戦に参加した各部隊は、入城式前日の12月16日ころから次の作戦に向けての再配置にとりかかった。上海派遣軍では第13師団が津浦線に沿った北上作戦、第101師団(後述する杭州攻略戦後上海派遣軍に戻された)は上海、第9師団は蘇州、第3師団は鎮江、天谷支隊(第11師団の歩兵第10旅団)が揚州へとそれぞれ駐留。南京には第16師団などが残った。その後第16師団は華北に転用されて第一軍の隷下に入り南京には歩兵第10旅団が代わりに駐留。第11師団と重藤支隊は台湾へ。
第十軍は主力が杭州攻略作戦に従事(24日占領)、要所に分散駐留した。杭州攻略にあたって第十軍が発した「杭州占領に伴う秩序維持及配宿等に関する件」をアジア歴史資料センターで閲覧することができる(レファレンスコード:C04122536200)が、南京攻略時の掠奪、強姦、放火等が杭州で繰り返されるのを軍が恐れていたことがわかる。第十軍の小川法務官の12月28日の日記には

又 当杭州に在る師団長来り曰く 当地は余りに完全にして兵を宿営せしむるに適せず 他の所に於ける如く破壊せられあれば多少荒らすも心配なきも当杭州の如く上等の所にては永く宿営するを好まずと 自分は云う それは恰も上等の器物を扱いたることなき田舎者に貴重なる器物を取扱わしむる如き危険を伴うべしと云うと同一にあらずや 司令官は全くその例の通りなりと言われたり

と笑うに笑えないはなしが記されている。なお、国崎支隊は北支那方面軍に復帰。

さらに38年2月には中支那方面軍が中支那派遣軍へと再編成された。司令官は松井石根の更迭を進言した畑俊六。

軍紀引き締めのための将校会報開催

2006-12-30 20:14:55 | 1937年の今日
上海派遣軍飯沼参謀長、上村参謀の日記から、この日の午後南京及び周辺意駐留する部隊の副官等を集め、「軍紀風紀殊に外国公館に対する非違に就き厳に注意をなす」(飯沼日記より)。軍司令部が犯罪取締のためにようやく手を打ったわけである。松井司令官、飯沼参謀長ともに、このころになってようやく事態の深刻さを認識しはじめたことが日記からわかる。

日本政府・軍部の日中戦争処理方針

2006-12-29 16:49:37 | メモ
石射猪太郎の29日の日記より。

(…)
○御前会議にかけるべき支那事変処理方針を立案す。実を云うと最早熱が無い。どんな立派な案を立てても陸軍の不統制でダメになる。


これは翌38年1月11日の御前会議で議題とされた「支那事変処理根本方針」のことであろう。この「根本方針」についてはアジア歴史資料センターの「インターネット特別展 公文書に見る日米交渉」で閲覧することができる(こちら。プラグインが必要)。またみすず書房の『現代史資料12 日中戦争4』にはこの方針案について参謀総長(閑院宮)、軍令部総長(伏見宮)、枢府議長(平沼騏一郎)が行なった説明の要旨が収録されている。その内容は(1)日満支の「相互の友誼」を破壊する政策、教育等の廃絶、(2)日満支による防共政策、(3)日満支の経済的相互互恵を謳っているが、別紙和平案にも明記されているように中国が満州国を承認することを要求した方針である。この和平案ではその他に華北には中国主権のもとで「適当なる機構を設定」、内モンゴルには自治政府を設立すること、賠償の支払いなどが要求されている。
そして「支那現中央政府にして此際反省翻意」せず、「和を希め来らざる場合」には「帝国は爾後之を相手とする事変解決に期待を掛けず新興支那政権の成立を助長」するとしている。これが16日の「爾後国民政府を対手とせず」という近衛声明につながってゆくのである(15日が回答期限)。『川邊虎四郎少将回想応答録』(上記『現代史資料12』所収)ではこのあたりの事情について、参謀本部(多田次長)が長期戦への懸念などから和平交渉継続を主張したのに対し、「政府側は最早支那側に誠意を認め得ず」とし、米内海将が「参謀本部は外務大臣に対し不信任ということと同時に政府を不信任ということ」になる、総辞職だ、と脅しをかけ、ついに多田次長も和平工作継続を断念した、と説明している。

軍紀、国際関係に関する軍中枢の認識

2006-12-28 15:52:34 | 1937年の今日
12月28日付けで陸軍次官から中支那方面軍参謀長、特務部長宛に「陸支密電七五三号」が発せられている。岡本総領事が外務大臣にあてた電報で、米国人宣教師から次のような申し入れがあった、という報告を受けてのことである。

一、二十三日夜武装日本兵少くも四回南京米国大使館構内に来り 自動車三、自転車四、石油ランプ二、懐中電灯数個を掠奪せる外 士官の引率せる一隊は使用人を身体検査し現金約二百五十弗、時計、金指輪、身廻品を窃取し 又或兵は鍵の掛れる「パツクストン」の事務室をこぢ開けんとし銃剣にて扉を突刺し 又他の二名は支那夫人を強姦せんとするに他の兵の制止に依り未遂に終れり
二、 二十四日午前九時日本兵又々構内に入り乗用車二、「トラツク」一を 又巡警部屋より麦粉及米袋各一、懐中電灯、現金十一弗八十仙を掠奪せり
右に付き日高参事官の談に依れば強姦未遂以外は我警察にて確認せる由なり
本件事実とせば折角解決せる「パネー」号事件を逆転せしむる虞ありを以て外務官憲とも連絡の上至急適宜の処置を採られ度
尚右真相至急回示あり度

同じ日、参謀総長と陸軍大臣の連名で軍司令官宛に「国際関係に関する件」と題する通牒が発せられている。

 今次事変を繞る国際関係は頗る機微なるものありて皇軍の一挙一動は直に列強の関心を喚起し作戦の範囲中支に波及するに至って愈々然るものあり
(…)
(…)故に派遣各軍は過去に於て生じたる数次の此種事故に鑑み深く如上の国際動向に留意して克つ軍紀を振作し軍律を維持し益々皇軍の真価を発揮し以て国際関係を刺激せしむる虞あるが如き事なからしむる様厳に将兵に理解を与えて之が指導に過なからしめん事を望む

時すでに遅し、であろう。

外務省は当時もこの日が御用納め。石射猪太郎の日記より。

(…)
○陸軍省に至り対英回答の文句を確定する。橋欣をば処分できないのが陸軍の悲哀だ。内部情勢上やむを得ない事情を諒察せられ度しとは蓋し軍務局長の偽らざる本音であろう。
(…)

橋欣とはもちろん橋本欣五郎のこと。上海派遣軍参謀副長、上村大佐の日記より。

(…)
 軍隊の非違愈々多きが如し。第二課をして各隊将校会報を招集し参謀長より厳戒する如く手続きをなさしむ――来る三十日午前十時から実施することと定む
(…)
 南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す
(…)


三笠宮の日中戦争観

2006-12-27 21:30:59 | メモ
南京事件に関して発言が引用されることがある三笠宮崇仁の著書『古代オリエント史と私』(1984年、学生社)より。

 一九三六年の春、士官学校本科を卒業した私は、千葉県習志野の騎兵第十五聯隊に勤務を命ぜられました。そして一九三九年の暮、陸軍大学校に入学するまで各種の教育を担当しました。そのころのことで、今もなお良心の呵責にたえないのは、戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです。それゆえ、精神訓話(注、当時の軍隊用語)のさいには、日本のおこなう戦争は正義のいくさであると、部下に教えていました。
(…)
 一九四三年一月、私は支那派遣軍参謀に補され、南京の総司令部に赴任しました。そして一年間在勤しましたが、その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました。ここではごくわずかしか例をあげられませんが、それはまさに氷山の一角に過ぎないものとお考えください。
 ある青年将校――私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです――から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった、と語っていました。
 「聖戦」のかげに、じつはこんなことがあったのでした。
(…)

石井四郎を主幹とする防疫研究所ができるのは38年2月のことだが、石井は28年から30年までヨーロッパ各地を視察しており、おそらく各国の細菌戦研究状況を調べたものと考えられる。組織的な細菌戦研究こそ始まっていなかったが、軍隊内での地位向上を狙う軍医部の人間がこうした謀略を発想し、実行しようとしたことはあながちあり得ないはなしではない。

 あるとき、日本軍の戦利品の中にあった「勝利行進曲」という映画を見ました。これは重慶政府(重慶は当時の中華民国政府の所在地で、蒋介石氏がその主席)が製作したもので、日本軍の惨虐行為をテーマにした映画です。当時、中国人は日本を東洋(トンヤン)とよびましたから、日本人は東洋鬼(クイ)でした。この映画は宣伝を目的としたに違いありませんが、シナリオは事実をもとにして書かれたとしか思えませんでした。そこで、私は、大本営との連絡のため東京に出張を命ぜられたとき、この映画を携行し、大元帥陛下にお見せしました。
(…)

しかしながら、いわゆる『昭和天皇独白録』ではもっぱら対米開戦に至る経緯についての弁明が行なわれており、中国大陸での戦争犯罪に関して釈明する必要性は感じていなかったようである。

 私が上海地区の視察に行ったとき、ある師団長は次のように述懐されました。「われわれが戦っている敵方の中国軍と、日本軍に協力している味方の中国軍とを比較すると、相手方のほうが一般民衆にたいする軍紀が厳正です。われわれは正義の戦いをしているはずなのに、軍紀の緩んでいる軍隊を助けて、軍紀のひきしまっているほうの軍隊を討伐することに、つくづくと矛盾を感じます」と。今にして思えば、ヴェトナムにおける米軍もまさに同様の矛盾を感じていたのではありますまいか。
(…)
(14-20頁)

ヴェトナム戦争に言及するとは、立場を考えるとなかなか踏み込んだ発言であろう。




12月26日の日記から

2006-12-26 17:58:44 | 日記より
松井大将日記から。

(…)
 パネー号事件解決(欄外)
 二十六日パネー号事件解決の報あり 十分の出来にはあらざれど之にて一段落となれば支那の各方面に対する影響相当大なるべく 今後上海附近の謀略工作などにも一層の進展を期し得べし

パナイ号(パネー号)事件に関しては「公文書にみる日米交渉」も参照されたい。

 南京、杭州附近又掠奪、強姦の声を聞く 幕僚を特派して厳に取締を要求すると共に責任者の処罰など直に悪空気一掃を要するものと認め厳重各軍に要求せしむ

ようやく事態の深刻さに気づきはじめた松井司令官。20日の日記では「多少は已むなき実情なり」との認識だった。

小川法務官の日記より。適宜空白を補った。

吉×××事件は十二月十七日金山に於て支那人間に稍々不穏の挙動ある如きことを聞き 直ちに部下数十名を引率し支那人に至り射殺斬殺を為したる事実にして その間上官に十分連絡せざるのみならず 一つの好奇心より支那人を殺害せんとの念に基くとも認めらる 同隊は前線の戦闘に加わらず 従って支那人を殺さんとの一種独特の観念に駆られたるとも認むべく 戦場にては斯かる念を生ずるもの少なからず 又支那人に対する人格尊重薄きによるものの如し

この事件はどう処分されたか? 第十軍法務部の陣中日誌によれば全員が「三一〇条告知」、すなわち事実上お咎めなしの処分に終わっている。事件として受理したのが12月26日、被告人は第十軍後備歩兵第4大隊第4中隊の歩兵少尉以下23(殺人)、第十軍や先衣糧厰金山支部の主計少尉(殺人教唆)、通訳および第4中隊の兵・下士官4名(殺人幇助)、という大がかりな事件である。第十軍法務部陣中日誌によれば事件が起きたのは12月15日(小川法務官の日記と日付が違うが、こちらが正しいのであろう)、殺人教唆に問われた主計少尉から「宿舎付近に多数の支那人雑居し」云々と連絡を受けた第4中隊の将兵が26人の中国人を殺害した、というものである。
同じ日には第6師団工兵第6聯隊の一等兵が酒によって上海南市の民間人宅で強姦、3日後に再び同じ家でまず夫を射殺してから強姦、さらには同じ部隊の二等兵を「随行すべし若し肯かざれば射殺すべし」と言って小銃の銃口を向け脅迫した、という事件も受理されている。

12月25日の日記より

2006-12-25 20:58:00 | 日記より
飯沼派遣軍参謀長の日記より。

(…)  午後日高参事官、福井領事(南京総領事代理)来り種々話す。要は外国大公使館には為し得れば歩哨を立て彼等を安心せしめられ度、又成るべく早く所要の外国人を南京に来り得る如くせられ度と云うぬあり。
(…)
 長中佐上海より帰る。青幇の大親分黄金栄に面会上海市政府建物等の打合せを為し先方も大乗気、又女郎の処置も内地人、支那人共に招致募集の手筈整い年末には開業せしめ得る段取りとなれり。
 黄金栄の部下虞洽卿、王一亭等は中南支の一流の財界巨頭なりと。塩は彼等に売却し阿片を何とかして入手せしむる様考慮する筈。(…)

広域暴力団幹部の日記ではない。念のため。
小川法務官の日記より。適宜スペースを補った。下線は引用者による。

(…)
○上砂中佐事務打合せに来部
中佐曰く近頃強姦事件不起訴に付せらるるもの多く 憲兵が折角検挙せしものに斯く致さるることとなると努力の甲斐なしと 自分答う 或は然らん 併し自分は戦争中に於ける情状、犯人のその当時に於ける心理、支那婦人に対する貞操観念、是迄の犯行数(その実際の数を挙ぐれば莫大ならん)非検挙に終りし者と偶々検挙せられたる者との数の比較等、その他純理論よりすれば姦淫は当時の情勢上刑法一七八に所謂抗拒不能に乗ずるものと認むべきも 中には斯かる者全部なりと断ずるを得ざるべく 容易に要求に応じたる者も之あることを考えざるべからず 斯く観じ来りたるときは姦淫したる事実あれば直ちに強姦なりと断ずるは早計たるを免れざるにあらずや その他周囲に於ける犯行当時の事情を深く参酌して決定処理し居るべし 故に直に中佐の要求に応ずるを得ざるべし

日記であるから上砂憲兵中佐をなだめるための方便ではなく本気でこう考えていたということであろうか。性犯罪に関して現代なみの認識を要求するのは酷であろうが、同時代人である上砂中佐とくらべても事態の深刻さに関する認識が甘いことは明らかであろう。

又中佐は今後戦闘休止にもならば増加する憂いあり 引いて宣撫工作にも影響を及ぼすならんと 自分は之に対し 或いは然らん 併し又一面慰安設備も出来れば増加は防ぎ得るにあらずや 尚お一体人間は戦争等生命を擲たんとするが如き一大衝動線に直面したる場合には最後の一つとして婦女に接せんとするにあらずや 従って却って休戦なるとも増加を左程憂うるの必要なきと思わると答えたり

こちらは、いまだに慰安婦問題に関して旧日本軍を免罪しようとする場合に持ち出されるロジックである。


12月24日の日記より

2006-12-24 15:32:55 | 日記より
歩兵第103旅団長山田少将の日記より。師団と合流して滁県に駐留、24日には「十日以来の日誌を整理」する時間をとることができた山田少将。

(…)
一、予備兵のだらしなさ
1、敬礼せず
2、服装 指輪、首巻、脚絆に異様のものを巻く
3、武器被服の手入れ実施せず赤錆、泥まみれ
4、行軍 勝手に離れ民家に入る、背嚢を支那人に持たす、牛を曵く、車を出す、坐り寝る(叉銃などする者なし)、銃は天秤
5、不軍紀 放火、強姦、鳥獣を勝手に撃つ、掠奪

これは予備役・後備役兵の割合が高い特設師団である第13師団の兵士を自ら観察したうえでの記述であろう。
この後「二、辛苦」として水や食糧、便所などに関する苦労が綴られている。水については出発前に「井戸水にてのめるもの殆どなし、石井式濾水機使用のもののみ飲用可なり」との注意を受けていた(9月21日の日記より)。実は731部隊で知られる石井四郎が考案した石井式濾水機の本格的な実戦デビューは第二次上海事変であった(翌38年に正式採用。常石敬一、『消えた細菌戦部隊』による)。

「抗日教育の徹底」という見出しがつけられた一節には、「活動写真の広告、エロ本の中にも必ず抗日の記事を発見せざるなし」とあり、その徹底ぶりへの関心がうかがわれる。

○徴発の不仕鱈は、結局与うべきものを与えざりし悪習慣なり
○徴発に依りて、自前なる故、或る所は大いに御馳走にありつき、或る所は食うに食なしの状を呈す
 先に処女地に行く隊のみ、うまきことをすることとなる
○兵の機敏なる、皆泥棒の寄集りとも評すべきか
 旅団司令部にてもぼやぼやし居れば何んでも無くなる、持って行かる、馬まで奪られたり

似た証言は数多くあるが、旅団長が自分の指揮下の兵士を評したものだという点で注目に値しよう。

12月23日の日記より

2006-12-23 18:42:27 | 日記より
日本側関係者の日記を紹介するエントリが多くなってきたため、新しく「日記より」というカテゴリを設けた。「1937年の今日」との使い分けは必ずしも厳密なものではないが、出来事を中心に記述しそのための資料として日記を用いる場合は「1937年の今日」、日記の記事紹介を中心としそれにコメントする場合を「日記より」とする。

第十軍小川法務官の日記より。「×××」はみすず書房版の伏せ字。下線は引用者。

(…)
○小××××強姦事件、石×××外一名強姦事件を受理す
強姦事件に付ては是迄最も悪性のものに限り公訴提起の方針をとり成べく処分は消極的なりしも斯くの如く続々同事件頻発するに於ては多少再考せざるべからずかと思う

法務官が把握しているだけでも事件が「続々」発生しており、そのごく一部しか処分されたなかったことが明言されている。憲兵の目にとまらなかったものまで含めればどれほどの数になったことか…。

○司令官に松×××上官用兵器脅迫事件、杉×××上官用兵器脅迫事件の公訴提起命令上申す 外に竹×××外一名放火事件、福×××掠奪事件不起訴意見上申す 司令官は種々時事を談ぜられたるを聞く 曰く一般は戦争の絶対性を弁えず今より此の戦争を利用して政権を獲得せんとするものあるが如し 日本の内訌が起きざるか深甚の憂慮に堪えず 恐らく内紛の生ずるを免れざるべし 結局又対立抗争を見るに至るべし (…) 又日本としては第一統率、第二司法、第三教育が肝要にして或いは経済を云々する者あるも之は次の問題なりと思うと 自分は何れにしても日本としては大所高所より事を観察し将来の方針を決するの要あるべしと述べたり 又司令官は機構を改革することには十分研究するも機構の働きには何等見るべきものなし 十分注意すべき点なりと思うと

ここで要約されている「司令官」の見解を理解するには、柳川平助が皇道派の人脈に属していた(35年末まで、翌年の二・二六事件で決起部隊の将兵をだした第一師団の師団長であり、叛乱鎮圧後の粛軍で予備役に編入、杭州湾上陸作戦のため現役復帰)という事情をふまえておく必要があろう。拡大派/不拡大派の対立とは別の観点から事態をながめていたらしいことがわかる。
柳川司令官の発言に対する小川法務官の返答はなにやら意味深長で、暗に「第二」とされた司法に携わる者としての不満を感じさせる。経済は「第三」以下の扱いを受けているわけだが、結局のところ日本の軍備、軍事活動を大きく制約していたのは経済力の不足だったのである。

第16師団中島師団長の日記より。若干読みにくい部分があるため句読点を適宜補った。

一、小泉軍医中将来る、夕刻会談し東京の事情を知る。
 杉山陸相、近衛の小僧同様省内気骨ある人士なく、軍の一般情態並政界並に一般社会状態は全く二二六事件前と同様なる。彼の杉山氏陸軍を毒すること宇垣に勝るという。
 共に現時及将来を慨嘆して会食し終りに茶を立てて進む。小泉予想外なるに驚けり。用うる処の茶碗は古器として珍しきもの記念の為之を提供し名づ〔け〕て
   紫金山と称す。
(…)

まさか日本から持参した茶碗ではあるまい。師団長自ら「戦利品」を自慢。

12月22日の日記より

2006-12-22 11:25:42 | 日記より
12月21日に南京地区西部警備司令官となった佐々木至一少将は1937年のこの日城内粛清委員長を命じられ、24日から査問工作を開始している(佐々木日記より)。26日には宣撫工作委員長となり、「予は峻烈なる統制と監察警防とに依って」秩序と安寧を回復するという目的を達した、と日記に記している。

松井司令官は水雷艇で南京を離れ上海へ。「之れより謀略其他の善後措置に全力を傾注せざるべからず」、と。自分に与えられた任務がなんであったか、などはどうでもよいようだ。盧溝橋事件当時北支那駐屯軍参謀長で、強硬論を説く関東軍と独断専行の牟田口聯隊長らに囲まれ、ほぼ孤立無援で不拡大論を説いた橋本群少将(当時)は、後にこう述べている。

軍司令官其の他軍隊に居る者が専門外の外交経済問題を取扱うものですから、凡てにぎこちなく何か向うへ申込みをして拒絶せられたら軍の面目にかかると云う事になって非常に拙劣い。

だから外交は外交官に、とごく常識的な主張がこのあと続くのだが、外交をになうべき外務省の様子はどうか。

○対処要綱で商工大臣へ説明に行くの行かぬのとゴタゴタす。結局行かぬ事になる。
○対独回答案午後六時執行さる。大臣官邸に独大使を招致し回答文を与う。大臣大使館に問答あり。独大使は蒋介石は之ではキクマイと、其通り、こんな条件で蒋が媾和に出て来たら、彼はアホだ。
(…)

石射猪太郎の日記より。トラウトマン工作の経過については「トラウトマン工作:蒋介石、独大使トラウトマンと会談」および「トラウトマン工作、頓挫」「12月15日の日記より」をご参照いただきたい。この後の成り行きについては後日まとめてエントリにする。

12月21日の日記より

2006-12-21 22:39:30 | 日記より
第十軍小川法務官の日記より。

(…)
尚当会報にて聞く 湖州には兵の慰安設備も出来開設当時非常の繁盛を為すと 支那女十数人なるが漸次増加せんと憲兵にて準備に忙しと 兵の押すな押すなの勢にて列を為しながら先を争うがごとし

この迅速さでもって憲兵の増派が行なわれていたら…。
なお、多発する強姦への対策として「慰安所」を設置するという発想は「強姦=性欲に起因する犯罪」という認識に基づくが、フェミニズムはこうした認識を批判してきた。『岡村寧次大将資料』に“第6師団は慰安婦を連れて行軍していながら強姦が後を絶たない”という主旨の記述があることは、慰安所が強姦防止策として有効でなかったことを示唆していると考えることができる。

外務省東亜局長石射猪太郎の日記より。

(…)
○今日の閣議で対独回答きまる。然し蒋介石はもう媾和を云々しないだろう。青島の我方工場を焼いたのは彼の決意を物談る。何故に陸軍は媾和を急ぐかと云うに、大臣の言によれば対露問題の為め。牡丹江方面は相当緊張、事端発生の恐ありと云う。
(…)

牡丹江は現在の中国黒龍江省。後に中国残留孤児が多数発生した土地である。

歩兵第30旅団長(第16師団)、佐々木到一少将の日記より。

 全軍の配備を整理せられ各師団城内より退出、我師団は南京城を含む周囲地域を警備。予は南京地区西部(城内を包含)警備司令官を命じられ、城内警備に関しては派遣軍司令官の直轄となる。

多くの部隊が次の作戦に向けて移動を始め、「南京事件」は陥落前、陥落直後に続く第三段階を迎える。この人事について、秦郁彦は次のように評している(中公新書『南京事件』、165頁)。

 佐々木はかつて南京駐在武官の経歴を持ち『支那軍隊改造論』の著書もある中国通であり、適任者と見なされたのであろう。
 ところが、この人選はとんでもないミスキャストであった。往年は、陸軍随一の国民党通とされ、その同情者でもあった佐々木は、いつの間にか熱烈な反蒋論者、中国人嫌いに変っていたのである。城内警備に関し、南京憲兵隊と特務機関、その他の軍直轄部隊を指揮下に入れ、第十六師団を実動部隊として与えられた佐々木は、すでにその必要はなくなったと思われるのに、苛烈な便衣狩りを再開した。

佐々木到一の変身については『日本陸軍と中国―「支那通」にみる夢と蹉跌』(戸部良一、講談社選書メチエ)が詳しい。

幕府山捕虜殺害事件(2)

2006-12-21 07:10:57 | 個別事例
両角手記
幕府山で山田支隊が得た少なくとも約15,000人の捕虜のうち殺害されたのはごく一部であるとする主張の骨格は、「捕虜のうち約半数は非戦闘員だったのですぐに解放された。火事は大規模なものであり、その際約多数の捕虜が逃亡した。残った捕虜(約4,000人)を密かに解放するつもりで揚子江岸につれ出したところ、捕虜の暴動が起き止むを得ず発砲したが、この際にも多数の逃亡を許した」というものであることは前回紹介した。このシナリオの土台になっているのが歩兵第65連隊の両角連隊長の証言である。『南京戦史 資料集II』には「作業手記」と「日記」が収録されているが、「日記」はごく簡単なメモ程度のものであるうえに「研究者・阿部輝郎氏が筆写した南京戦前後の部分しか現存せず、その原本との照合は不能の状況」であり、「手記」の方は「明らかに戦後書かれたもの」で「幕府山事件を意識しており、他の一次資料に裏づけされないと、参考資料としての価値しかない」と『南京戦史』編集部自身が認めている(この点、なんらの資料批判もせず両角証言に基づき被害者は少なかった、と主張する論者に比べればフェアな姿勢である)。
では、両角手記を裏付ける「他の一次資料」は存在するのだろうか。上記シナリオのうち、他の資料によって確認できるのは「(規模・時刻・原因は別として)仮収容所で火事が起こったこと」および山田支隊側にも死傷者がでたこと、の2点だけである。この2点については『南京戦史 資料集』に収録されている兵・下士官の日記類、および在野の研究者小野賢二氏らが収集した山田支隊元将兵の陣中日記にも記載例がある。例えば『南京戦史資料集 II』所収の荒海日記には16日分に「捕虜の厰舎失火す、二千五百人殺す」とあり、翌17日分には「大隊で負傷、戦死有り」との記述がある。
これに対して「捕虜の約半数が非戦闘員であったので解放した」ことと「火事の際多数の捕虜が逃亡した」こと、「山田支隊長および両角聯隊長は捕虜を解放するつもりだった」ことの3点についてはこれらを裏付ける他の資料が存在しない(戦後の証言はあるが、当時の報道、日記等にみられない)。最後の点は2人の内面の問題であるからともかくとして他の2点は非常に目立つ事柄であり、当時の報道、陣中日記が全く触れていない(両角「日記」にも記載がない)のはいかにも不自然である。もしほぼ同数の軍民が一団となって投降したというのなら、中国軍の混乱ぶりを示すエピソードとして報道されていてもおかしくないはずである。
微妙なのが揚子江岸での処分(ないし暴動による自衛発砲)の際にも逃亡者が多数出た、とする点。飯沼、上村日記にこの点への言及があることは紹介したが、いずれも伝聞として記録されている。つまり「上海派遣軍には、多数の逃亡者が出たと伝わった」ことは確かだと思われるが、本当に逃亡者が多数出たとは即断できないのである。自軍から死傷者を出してしまったことへの言い訳として、捕虜の抵抗を大げさに伝えた可能性も否定できないのではないか。結果的に殺害された捕虜が少数であったのなら、師団に合流する予定を延期してまで死体の処理に追われた理由も説明できない。

こうしてみると、両角手記は断片的な真実をもとにつくり出された弁明のためのストーリーである、とみるのが妥当だと思われる。
  • 捕虜の中に正規兵でない者が混じっていた可能性は否定できない。「十二三才の小供より五十才位迄の雑兵にて中に婦人二名有り」(山砲兵第19聯隊目黒伍長日記)、「若い者は十二才位より年長者は五十の坂を越したものもあり、服装も種々雑多で此れが兵士かと思われる」(聯隊本部、斉藤輜重特務兵日記)などの例がある。しかしその半数近くを解放したことを示す他の証拠はない。
  • 山田支隊長、両角聯隊長が捕虜殺害にためらいをもったのは事実と思われる。「殺すも生かすも困ったもの」(山田日記)な数であり、上海派遣軍からは第16師団に引き渡すよう指示が出ていたからである。第16師団の誰かが「皆殺せ」と言ったとしても、山田支隊としては第16師団の「命令」に従う謂われはない。だから改めて15日に相田中佐を派遣軍に向かわせているわけである。しかし人道上の理由から解放を決意したことをうかがわせる客観的な証拠は存在しない。派遣軍から捕虜を上海へ送る方針が伝えられたのは20日になってからであり、それまでに師団への合流の予定に追われた支隊が殺害してしまったわけである。15日に相田中佐と派遣軍の間でどのようなやりとりがあったのか、すなわち殺害決定が派遣軍の示唆によるものなのか、それとも山田支隊側の自発的な決定なのかについては決め手となる証拠がない。
  • 火事は実際に発生した。「三分の一程延焼す」(宮本少尉日記)と書かれている例もあるのでぼや程度ではなかった可能性はあり、また日本兵による失火を記録している日記もある(大寺上等兵日記)ので一度ならず起こった可能性もある。しかし多数の捕虜が逃亡したとしているのは両角手記だけである(生存者の回想記に“兵舎に火を放って逃亡しようとした”旨の記載があるが、行き止まりのため成功しなかったとされている)。
  • 殺害の際山田支隊側に死傷者が出たことは事実、抵抗する捕虜がいたことも事実かと思われる。しかし「処分」に立ち会った兵士の中に大規模な暴動を書き留めている例はない。他方、日本兵は「半円形」の隊形で射撃したという証言があり(柳沼上等兵日記、栗原伍長スケッチ)、同士撃ちによる死傷者の可能性を否定できない。
下級将校・下士官・兵士の日記
『南京戦史資料集』や『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』に収録された将兵の日記を見ると、山田支隊長が記録した14,777名以外にも捕虜が発生したことを記録している例が多い。「今日一日捕虜多く来たり、いそがしい」(15日の荒海上等兵日記)、「敗残兵数百降伏し来るとの報に一同出動、約二千米〔名〕」(中野上等兵日記)。捕虜の総数を2万ないしそれ以上とする日記が複数あり、「山田支隊の俘虜東部上元門付近に一万五、六千あり 尚増加の見込」という飯沼日記の記述とも符合する。山田日記の15日分の記述がもともと極めて簡潔であることを考えると、千人単位で増えてゆく捕虜について記録していないことも不自然とまでは言えない。捕虜の総数は2万ないしそれを超えたと考えるのが妥当であろう。
捕虜の殺害は16、17日の両日にわたって行なわれたこと、17日の方が多数であったことは確実である。
第一大隊
荒海上等兵日記 16日「二千五百名殺す」、17日「俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名」
伊藤上等兵日記 17日「その夜は敵のほりょ二万人ばかり揚子江にて銃殺した」
宮本少尉日記 16日「捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す」、17日「夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事」
栗原スケッチ 17日「我部隊は13,500であった」
第二大隊
大寺上等兵日記 18日「昨夜までに殺した捕リョは約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ」
遠藤少尉日記 16日「夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し1(第1大隊)に於て射殺す」、17日「夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す」
第三大隊
本間二等兵日誌 16日「捕慮三大隊で三千名揚子江岸にて銃殺す」、17日「中隊の半数は入場式へ半分は銃殺に行く、今日一万五千名」
高橋上等兵日記 18日「午後には連隊の捕虜二万五千近くの殺したものをかたつけた」 
山砲第19聯隊
目黒伍長日記 16日「午後四時山田部隊にて捕いたる敵兵約七千人を銃殺す」、17日「午後五時敵兵約一万三千名を銃殺の使役に行く、二日間にて山田部隊二万人近く銃殺す」
黒須上等兵日記 16日「二三日前捕慮(虜)せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す」

両日とも数字に幅はあるが、特に16日の殺害についての証言が2,500や3,000程度と5,000から7,000程度に別れているのが注目に値する(17日分については母数が多いことから目算の誤差が大きいとも、二日分を合わせて2万ないしそれ以上と記録したとも考えられる)。ここから、16日の殺害は2カ所にわけて行なわれたのではないか、という説が出てくるわけである(各兵士は自分が担当した分についてのみ記録したと考えることに無理はない)。この説をとれば2万5千人ほどの殺害が行なわれたと考えることができるし、16日の殺害を1カ所と見て少なめの推定をしたとしても1万5千人近くが殺害されたことになる。なにぶん夕方から夜間にかけてのことであり、生存者が皆無であったとは考えられないが(現に存在して証言もしている以上)、死体の処理に時間がかかっていること、生存者の証言がきわめてまれであること、現場に立ち会った将兵の誰もが多数の逃亡者の存在を記録していないことを考えると、「皆殺し」に近い状況であったと考えるべきであろう。

参考文献
(1)『南京戦史』、『南京戦史資料集 I、II』
(2)渡辺寛、『南京虐殺と日本軍』、明石書店
(3)小野賢二ほか編、
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』、大月書店
(4)南京事件資料集(http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/index.html)、「山田支隊」の項。本エントリで引用した日記の殆どはここで閲覧することができる。また、山田支隊と派遣軍とのやりとりに関する
eichelberger_1999氏の考察も紹介されている。
(5)南京事件の真実(http://www.nextftp.com/tarari/index.htm)、「幕府山事件の真相」の各項。本エントリでは考察の対象にしなかった、「収容所は2箇所」説については(2)とこの(4)を参照されたい。

12月20日の日記から

2006-12-20 20:12:11 | 日記より
入場式(17日)、慰霊祭(18日)も終わり19日は「休息第一日」だった松井将軍の20日の日記より。

 此日大使館に到り新着の領事館員等と会見し状況を聞く 曰く 去七月大使館引上当時支那側に寄託したる我公使建物は一部の小奪掠の外 概して相当に保護せられ 殊に大使館建物は内容共完く完全に保存せられあるは 支那側の措置としては寧ろ感服の値あり

「日本側の措置」はどうだったか。「1937年秋冬コレクション」の12月20日の項をご覧いただきたい。

 又避難区に収容せられある支那人は概して細民層に属するものなるも 其数十二万余に達し独、米人宣教師の団体と紅卍字会等の人共と協力して保護に任しあり  聞く江蘇省政府は其引上げに際し 独人シーメンスのものに銀十万元と南京現在の糧米を託して保護を依頼したるものなりと云う 真否明かならざれど現に城内に現蓄せられある糧米は一万担に達し 外にも尚隠匿せられあるものあり 当分の間居民の糧食に事欠くことなしと云う
(…)
 尚聞く所 城内残留内外人は一時不少恐怖の情なりしが 我軍の漸次落付くと共に漸く安堵し来れり 一時我将兵により少数の奪掠行為(主として家具等なり)強姦等もありし如く 多少は已むなき実情なり

「江蘇省政府」とはあくまで中国に統一政権を認めないという決意のあらわれであろうか。それにしても、まるで安全区のことは初めて耳にするかのようなこの書きぶり…。

所変わって東京。外務省東亜局長石射猪太郎の日記より。

○土曜の閣議で対独回答まずまず纏り、明日本きまりになるとやら。責任回避の臣ども。
(…)
○明日の閣議に事変対処要綱をかける事を大臣に説得するに骨を折る。問題は北支に満鉄を入れぬと云う閣議了解事項にあり。松岡総裁の大臣来訪其他満鉄社員の運動等相当空気はイライラして居る。バク発を保せず。

保身に汲々とする閣僚と、利権拡大に懸命な満鉄。

○青島の我工場等やかれたとの情報。青島連中陳情に来る。愈出兵となるであろう。之は蒋介石の手である。戦局更に拡大、日本コマル。玆が彼のネライドコロであろう。

この頃南京においてどれほどの建造物が焼かれていたかについては、「1937年秋冬コレクション」の21日のエントリを参照されたい。

幕府山捕虜殺害事件(1)

2006-12-20 01:00:31 | 個別事例
山田支隊による幕府山の捕虜殺害は、おそらく一部隊による、一回(ないし一続きの)捕虜殺害としては最大規模のものである。殺害場所は揚子江岸で幕府山で はないのだが、地名を特定することが困難であるためか、捕虜が捕らえられ、一時収容されていた幕府山砲台の名を冠して呼ばれるのが普通である。

事件発生まで
上海派遣軍の第13師団(師団長荻州立兵中将)は12月2日に江陰を占領した後、その主力は鎮江に向かった。第13師団には鎮江で揚子江を渡り、第十軍の国崎支隊と共に中国軍の退路を断つ役割が与えられていたが、渡河2日前の12月12日、歩兵第65聯隊(聯隊長両角業作大佐)を基幹とする支隊(歩兵第103旅団長山田栴二少将が指揮)が編成され、「烏龍山砲台ならびに幕府山砲台を占領し佐々木支隊の進出を容易ならしむべし」との任務が与えられた。佐々木支隊とは第13師団の南側を進軍していた第16師団のうち、佐々木到一少将が指揮する歩兵第38聯隊を基幹とする部隊のことである(このエントリに添付の作戦経過要図、および「幕府山捕虜殺害事件(2)」に添付の南京攻略概要図を参照のこと)。
12月13日午後、第一大隊が烏龍山砲台を占領、聯隊主力は翌14日午前に幕府山砲台を占領したが、その際支隊の数倍に達する数の捕虜を得た。
山田支隊による幕府山砲台占領と捕虜については当時の日本でも報道された(『アサヒグラフ』掲載の写真はここで見ることができる。pippoさんのご教示による)。

朝日新聞 37年12月17日 朝刊
持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種
[南京にて横田特派員16日]
 両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕へた部隊の方が聊か呆れ気味でこちらは比較にならぬ 程の少数のため手が廻りきれぬ始末、先づ銃剣を捨てさせ附近の兵営に押込んだ、一個師以上の兵隊とて鮨詰めに押込んでも二十二棟の大兵舎に溢れるばかりの大盛況だ、○○部隊長が「皇軍はお前達を殺さぬ 」と優しい仁愛の言葉を投げると手を挙げて拝む、終ひには拍手喝采して狂喜する始末で余りに激変する支那国民性のだらし無さに今度は皇軍の方で顔負けの体だ。
 それが皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ、一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求めているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった。
(後略)

ところがこの約1万5千人の捕虜がその後どうなったかについては続報もなく、現存する旧日本軍の公式文書でも確認することができない。しかしながら、少なくともその一部が山田支隊によって殺害されたことについては異論がない。

確実な事実
殺 害された捕虜の数については、歩兵第65聯隊の地元福島の『福島民友新聞』が刊行した『ふくしま・戦争と人間』(第1巻、白虎編)の約400人説から2万 人以上説までがあり、犠牲者数推定に大きな幅がある点でまさに南京大虐殺を象徴するような事件である。まずは立場を問わずほぼ認められている事柄を列挙す ると次のようになる。
  1. 12月14日、山田支隊が約1万5千人(山田支隊長の日記ほかによれば14,777人)の捕虜を得たこと。
  2. これら捕虜の処置・処遇に関する公式の記録(戦闘詳報等)は発見(ないし公開)されていないこと。
  3. 捕虜の処置をめぐって山田支隊と上海派遣軍のあいだにやりとりがあったこと。
  4. 山田支隊に対して捕虜殺害の命令が出たこと。
  5. 捕虜を仮収容中の兵舎で火事が起こったこと。
  6. 人数・理由は別として捕虜の殺害が行なわれたこと。
  7. 山田支隊将兵にも死傷者が出たこと。
そして1.~7.のおのおのについて議論が分かれている事柄のうち主要なものは次の通り。

争いのある事柄
1.→捕虜の中に老人、女性など非戦闘員は含まれていたのか? 含まれていたとしてどれくらいの数であり、また非戦闘員は解放されたのかどうか。捕虜を得たのは14日だけなのか、あるいはその後も増えて2万人を超えたのか。
3.→やりとりの詳細。殺害命令を下したのは誰なのか。
4→山田支隊長、両角連隊長は捕虜を解放するつもりだったのかどうか。
5.→火事の起こった時刻、規模、放火か失火か。火事に伴い捕虜の逃亡があったか。
6.→約400人説~2万人以上説。自衛発砲説と計画殺害説。

殺 害数を少なく見積もる論者の主張を集約するとこうなる。捕虜のうち約半数は非戦闘員だったのですぐに解放された。火事は大規模なものであり、その際約多数 の捕虜が逃亡した。残った捕虜(約4,000人)を密かに解放するつもりで揚子江岸につれ出したところ、捕虜の暴動が起き止むを得ず発砲したが、この際に も多数の逃亡を許した…。
『ふくしま・戦争と人間』や『南京戦史』のこうした主張にまず感じる疑問は、これらによれば約15,000人のほとんど が逃亡したことになるにもかかわらず、中国側の資料・証言が非常に乏しいことである。1万人以上の人間が逃亡したのであれば、戦後まで生存して証言する人 間がもっといてもよさそうなものであるが、これまでのところ生存者の証言として日本で紹介されているのは一例だけのようである。これはいかにも不自然だ。
また、山田支隊の何倍もの人数でありながらあっさり武装解除に応じた捕虜たちが、その後満足に食事も与えられず衰弱していたであろう状態で、大規模な逃亡や暴動を企てたというのもただちに首肯しがたいはなしである。

真相の解明を困難にしている要因の一つは、山田支隊長の日記が極めて簡潔にしか書かれていない、ということである。14日から19日までの日記から関係する記述を再掲する。

他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発、幕府山砲台に向う、明けて砲台の附近に到れば投降兵莫大にして仕末に困る
(…)
 捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元門外の三軒家に泊す (14日)

捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり (15日)

相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合せをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり (16日)

捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す (18日)

捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ (19日)

些事にいたるまで書かれた日記のなかにこれだけの記述しかないのではなく、引用にあたっての省略箇所はごくわずかでほとんどこれに尽きる、と言っても過言 でないほどである。そのため「火事についての記述がないのは火事が起こらなかったか、起こってもぼや程度だった」とはこの資料だけからは即断できず、また 捕虜が14日の約15,000人だけだったのか、それともその後増えた分については書かなかっただけなのかについても同様である。日記からは山田支隊長が 独断で捕虜の殺害を決めたわけではないらしいことがうかがえるが、被害者少数説が主張するように積極的に助けようとしたとまでは言えない。むしろ“殺害す るにしても山田支隊の戦力で実行するのは困難”という困惑を読みとるのが自然であろう。捕虜の処置に対する問い合わせの相手は15日は「南京」、16日は 「軍」となっている。後者は上海派遣軍司令部のことであろうが「南京」の相手はだれか?

『南京戦史 資料集』に収録されたその他の日記から、関係する記述を(12月20日以降の分も含めて)引用する。

山田支隊の俘虜東部上元門付近に一万五、六千あり 尚増加の見込と、依て取り敢えず16Dに接収せしむ。 (飯沼派遣軍参謀長、15日)

荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処 何日かに相当多数 を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒がれ 遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し 且つ相当数に逃げられたりとの噂あり。上海に送りて労役 に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも (昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるべし。 (同、21日)

N大佐より聞くところによれば山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払い散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり。 (上村派遣軍参謀副長、21日)

飯沼、上村両日記から推測できるのは、15日に本間騎兵少尉に対して「皆殺せ」と言ったのは上海派遣軍(ないし中支那方面軍)ではなかったろう、というこ とである。15日の時点で上海派遣軍の司令部も中支那方面軍の司令部も南京城内にはなかった。本間騎兵少尉が向かったのが「南京」であること、飯沼参謀長 が捕虜を第16師団に接収させようとしたことから考えれば、「皆殺せ」はすでに「南京」に師団司令部を構えていた第16師団が主張したことだと考えるのが 自然である。派遣軍が「上海に送りて労役に就かしむる」という方針を決めたのがいつなのかははっきりしないが、山田支隊への連絡が間に合わなかったらしい ことは推測できる。また、飯沼日記からは15日以降捕虜が増えた可能性を排除できないこと、しかし増えていたとしても上海派遣軍には報告されていなかった 可能性があることを推測できる。
もう一つ、両日記とも「不始末」「下手なこと」については伝聞として記していることに留意すべきである。山田支隊からのきちんとした報告ではなかった可能 性が高い。山田日記には「山田支隊の将兵にも死傷者が出た」「相当数の捕虜に逃げられた」という2点とも記載がないことにも留意する必要がある。上述した ように極めて簡潔な記述しかないとはいえ、飯沼・上村日記が伝えているような「噂」が真実だったとすると一言も触れていないのは不自然である。

山田支隊長、飯沼参謀長、上村参謀副長の日記からの絞り込みはこのあたりが限界である。稿を改めて、殺害 された捕虜はごく一部であるとする論者が依拠する両角歩兵第65聯隊長の手記、そしてこれまで言及してこなかった下級将校・下士官・兵士の陣中日記の検討 をおこなう。参考文献等についてはその際にまとめて挙げることとする。

12月19日の日記から

2006-12-19 00:05:43 | 日記より
山田支隊長の日記より。

 捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ
 軍、師団より補給つき日本米を食す
(…)

第13師団は方面軍の命により鎮江で揚子江を渡り、上流で渡江した第十軍の国崎支隊とともに南京背後の退路を遮断する予定であったが、12月12日に歩兵第65連隊を中心とする支隊をもって南京攻撃に参加せよとの命令を受けた。支隊は南京陥落をうけ師団に合流するはずだったのだが、思いがけず多数の捕虜を得たためその「処分」に手間取り出発を延期したというのである。

松井方面軍司令官の日記より。

(…)
 此日午後幕僚数名を従え清涼山及北極閣に登り南京城内外の形勢を看望す 城内数カ所に尚兵燹の揚れるを見るは遺憾なれど左したる大火にはあらず 概して城内は殆ど兵火を免れ市民亦安堵の色深し
(…)

ラーベ、ヴォートリンらの日記と比較されたい。高所から「看望」したのでは見えないものがある。現に、派遣軍参謀副長上村上村大佐は同じ日の日記に「軍紀上面白からざる事を耳にすること多し、遺憾なり」と記している。派遣軍参謀長飯沼少将もこう記している。

(…) 
 憲兵の報告に依れば十八日中山陵奥の建物に放火し今尚燃えつつあり。又避難民区に将校の率ゆる部隊侵入強姦せりと言う。(真偽確かならざるも)其他之に類すること及英、米大使館又は領事館の「トラック」を押収し或はせんとしたる者ありて注意事項は実行せられあらず。本夜副長より参謀長に電話にて注意を与う。
(…)

「副長」とは上村大佐、「参謀長」とは隷下の師団の参謀長か?
なお「女郎屋を設ける件」につき長勇中佐に依頼したという記述がこの日の日記にあることは既に紹介した通り。また、この日は新兵器「てなか弾」「なすか弾」の実射に立ち会っているが、「てなか弾」とは『南京戦史資料集』の注によれば「黄燐を二硫化炭素に溶解し、これにゴム片を浸したもので少量の重油を添加した」手投げ火炎弾とのことである。

第16師団中島師団長の日記より。少し長くなるが全文を引用する。適宜スペースを入れて読みやすくした。『南京戦史資料集』で誤記に付されている注は特に判読に差し支えがない限り省略した。下線は引用者が付したもの。

一、此日中央飯店より軍民学校内校長(蒋介石)官舎に移る 警備の為の歩兵一小隊あり

 別に趣味生活の相手として天竜寺村上和尚、花岡萬舟、高山剣士、浄土宗黒谷本山派遣白崎軍僧と映画班の二名と当番及宮本副官と共にす

一、戦勝後のかっぱらい心理

 我々が入るときは支那兵が既に速くより占領したる処である 彼等には遺棄書類によつて見れば大体四、五月以降給料は払うてない 其代りかつぱらい御免というので如何なる家屋も徹底的に引かきまわしてあるから日本軍の入るときは何ものもなく整頓しては居らぬ

一、そこに日本軍が又我先にと侵入し他の区域であろうとなかろうと御構ひなしに強奪して往く 此は地方民家屋につきては真に徹底して居る 結極ずふずふしい奴が得といふのである
 其一番好適例としては
 我ら占領せる国民政府の中にある 既に第十六師団は十三日兵を入れて掃蕩を始め十四日早朝より管理部をして偵察し配宿計画を建て師団司令部と表札を掲げあるに係らず 中に入りて見れば政府主席の室から何からすつかり引かきまわして目星のつくものは陳列古物だろうと何だろうと皆持つて往く
 予は十五日入城後残物を集めて一の戸棚に入れ封印してあつたが駄目である 翌々日入て見れば其内の是はと思ふものは皆無くなりて居る 金庫の中でも入れねば駄目といふことになる

一、日本人は物好きである 国民政府というのでわざわざ見物に来る 唯見物丈ならば可なるも何か目につけば直にかつぱらつて行く 兵卒の監督位では何にもならぬ 堂々たる将校様の盗人だから真に驚いたことである
 自己の勢力範囲に於て物を探して往くというならばせめても戦場心理の表現として背徳とも思わぬでもよかろうが他人の勢力範囲に入り然も既に司令部と銘打ちたる建築物の中に入りて平気でかつぱらうというのは余程下等と見ねばならぬ

一、中央飯店内に古器物の展覧会跡あり 相当のものがあつて之を監視したが矢張りやられた とうとう師団長が一度点検した上錠をかけて漸く喰止めた位である

一、軍官学校校長官舎は蒋介石が居たとのことで予が占拠する筈にしてあつた 第九聯隊を出してまで取りて置いたのに自己の宿営区域にもあらざる内山旅団〔野戦重砲兵第五旅団〕司令部が侵入して之も亦遺憾なく荒して仕舞つた
 とうとう中央飯店の家具を持ち運びやつと住える様にしたのである

一、戦場には所有権否定案が如実に表現して居る 我々も支那人に対しては怖られて居るが日本人仲間の間所有権否認は之れ亦功利主義利己主義個人主義の発達した一大現象を見ることが出来るだろう

一、軍隊で自動車を捕獲して検査小修理を兵卒がやつて居る
 通りかかりたる将校が一寸見せろとのぞき込む つづくつて其儘乗り逃げして往く

一、最も悪質のものは貨幣略奪である 中央銀行の紙幣を目がけ到る処の銀行の金庫破り専問のものがある そしてそれは弗に対して中央銀行のものが日本紙幣より高値なるが故に上海に送りて日本紙幣に交換する 此仲介者は新聞記者と自動車の運転手に多い 上海では又之が中買者がありて暴利をとりて居る者がある
 第九師団と内山旅団に此疾病が流行して張本人中には輜重特務兵が多い そして金が出来た為逃亡するものが続出するということになる 内山旅団の兵隊で四口、計三、〇〇〇円送金したもの其他三〇〇、四〇〇、五〇〇円宛送りたるものは四五十名もある 誠に不吉なことである

食糧の掠奪についていえば、被害者の怒りはともかくとして、兵站を無視した作戦を強要された現場の窮状を理解できなくはない。しかし「金庫破り」についてはまさに火事場泥棒としか言いようがない。民間人もまた一枚噛んでいるのだから、戦後になっても事実を証言しない人びとがいるのも不思議ではない。そして掠奪を嘆く中島師団長にしてからが、どちらかといえば自分の領分を荒らされていることを怒っているのである。
第16師団の後方参謀木佐木久少佐はこの日の日記に「昨夜も憲兵隊と、特務班と、師団の兵との間に、くだらぬ事件が起こっている」と記しているが、詳細は不明。

第十軍小川法務官の日記より。地域による治安(あくまで日本軍にとっての、だが)状況の違いに触れたうえで。

(…)自分は思う ひどく遣られたる所の支那人は概ね戦禍の甚だしきに恐れを為し絶対服従するにあらずやと 人類上より見れば途中たた感じたるが今の支那人程悲しき人間はこれあらざるべし 既記の如く日本兵の荷物を肩にし或は人力車の古いのに積み中には非常に弱り足も碌々前に出ざるが如き者もあり それを拒めば直ちに遣られ逃げれば勿論 今は只命の侭に動くの他なく 又既記の如くその行列の珍なるは到底その現状を見ざる者の想像し能わざる所なり 或る人は全く戦争には死んでも勝たねばならずと 実にその通りなり 戦敗国の民程哀れなる者なし 因みに蒋介石は或る人の談に英蘭銀行に六億と外の銀行に同じく六億を預金すと 全く支那国民こそいい面の皮なりと言うべし

日本が「戦敗国」となった時に小川法務官、ないし「或る人」はこの時のことを思い出しただろうか。なお、「既記の如く」とあるのは、しばしば引用される次の有名な一節(12月11日の日記より)などをさす。

(…)尚道路上又はその附近には如何にも大部隊が通過せし跡歴然たり 中には露営せし残物もあり 如何に我が前進せし戦闘部隊が困苦欠乏に耐え行軍せしかを思わしめたり 丁度自分等が行軍せし時の行軍部隊は所謂大行李輜重隊、中には小砲等の進むを見たり 甚だしき部隊にありては疲労の為か支那人を連れそれに背嚢は勿論 銃 鉄帽までも背負はせ 又その数多数に上り甚だしきは兵の数程も連れたるを見る。或る人曰く百鬼夜行の有様なりと 恰も日本兵の行軍やら支那土民の行列やら区別付かざる感なきにあらずこの点遺憾に思いたり その支那人は命ぜらるる侭に多くの荷物を背負い中には相当老人も居たるを見る 既記の如く戦敗国の良民なる民程不幸なる者なしと その場合我が兵の命が侭に従わず少しでも拒めば立ち所に遣られ万一逃げてその辺をうろつけば直に遣られ 支那人としては進退これ極まり 結局言はるるままに動かざるを得ざるに至る

日本の中国侵略を正当化しようとする論者は当時の中国の前近代性を強調する傾向があるとは「既記の如く」であるが(昨日のエントリを参照)、敵国の非戦闘員に武器まで運ばせて行軍する軍隊は「近代的」と言えるだろうか? 吉田裕の『日本の軍隊』(岩波新書)によれば、第二次上海事変当時の日本軍を視察したアメリカの駐日駐在武官ハリー・クレスウェル少将は、次のように述べているという(199-200頁)。

これらの歩兵部隊の行軍軍紀の奇妙な特徴は、兵士の個人装備を運ぶための手助けとして、ほとんどあらゆる種類の運搬手段を使用していることである。そのような運搬手段の範囲はあらゆるものを含んでいる。すなわち、乳母車から、人力車、倉庫で枠箱を運ぶのに使う、低い二つの取手の付いた荷車、そして東洋中で使われている人力で引っ張る普通の二輪車まで、である。

作戦によっては自分の体重よりも重い装備を背負って徒歩で行軍する兵士の労苦は想像に余りあるが、逆に言えば近代戦を戦う国力がなかった、ということでもある。