日中戦争スタディーズ

2006年12月1日本格運営開始。私たちは日中戦争についてどれだけ語ってきただろうか?

『戦後和解』(2)

2007-06-10 17:52:35 | 考察
(1)

第一章について。

「将来の平和のためには、過去を忘れてはならない」という定式は、少なくとも一般論としては、今日広く受けいれられていると言ってよいだろう。本ブログもまたそうした認識に立って、「日中戦争を忘れない」ための一つの努力として運営しているつもりである。
ただ、終わった戦争についてのこのような認識が一般的なものとなったのは比較的最近のことである、という問題提起(フィリップ・トウル)から本書は出発する。第一章は「戦後和解の歴史」が語られる。講和が「神の恩寵」とされた時代には「忘却」こそが来るべき平和のための最善の策と考えられていた。だが「講和=忘却」という構図には18世紀から19世紀にかけて揺らぎをみせるようになる。もともと「講和=忘却」が可能だった一つの背景としては、かつての戦争は国王の間の戦争であり、講和は戦争の災禍を実際に被った人々を無視して結ばれた、ということがある。この時期に進んだ社会の世俗化、啓蒙思想の普及、傭兵から国民軍への変化、これらはいずれも「講和=忘却」を困難にしつつあった。そしてこうした流れの延長線上に、「勝者に裁かれた敗者」の例としてナポレオンが現われることになる(ウィーン会議、1815年)。
また戦争のルールを人道か使用とする努力が徐々に実を結びつつあるときに近代的なジャーナリズムが成立したことも、「戦争体験の拡大」をもたらし、講和に際して世論を無視できない状況を産み出すことになった、という。(以上、26ページまで)


日露戦争の講和が世界史的にどう位置づけられるかについての議論も興味深いが、ここでは省略し、第一次世界大戦の戦後処理についての考察(31ページ以降)を見てみることにしたい。
「戦争の残虐化と一般市民の被害の拡大」が、「講和=忘却」を第一次世界大戦において破綻させた。それを象徴するのがヴェルサイユ講和条約第227~230条の刑罰条項である。ドイツ皇帝はオランダに亡命、実際に行なわれた裁判はわずかに過ぎなかったが、日本は戦勝国としてこの戦後処理に参加していた、という事実は強調しておく価値があるだろう。


アジア・太平洋戦争の講和条約であるサンフランシスコ講和条約に関して、しばしば東京裁判否定派が問題にするのが第11条である。本書の歴史記述が妥当であるなら、東京裁判否定派はすでに前の大戦において破綻していた戦後処理モデルに固執してこれをアジア太平洋戦争にも要求している、ということになろう。

小菅信子、『戦後和解』をめぐって(1)

2007-06-08 21:26:10 | 考察
従来の記事とは少しおもむきを変え、小菅信子著の『戦後和解 日本は〈過去〉から解き放たれるのか』(中公新書1894、2005年)をご紹介しつつ、考えていきたいと思う。帯では「日中和解は可能なのか 〈講和の歴史〉をひもとき、好転した戦後日英関係から、その可能性を探る」と、その狙いが記されている。著者の小菅氏は本書執筆当時山梨学院大学法学部政治行政学科助教授。主な業績に『東京裁判ハンドブック』(共著、青木書店)、『戦争の記憶と捕虜問題』(共著、東京大学出版局)などがある、とされている。

目次

序章 「戦後和解」とは何か

第1章 忘却から戦争犯罪裁判へ
I 神の前での講和
II 揺らぐ忘却―制裁の登場
III 勝者が敗者を裁く時代へ

第2章 日本とドイツの異なる戦後
I ドイツの選択
II 不完全だった東京裁判
III 曖昧化する日本の戦争責任

第3章 英国との関係修復
I 日英関係に刺さった棘
II さまざまな和解のかたち

終章 日中和解の可能性