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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

生ける神の印 VS 獣の刻印 第6回

2017年05月15日 | 日記

5.第4条の戒めの重要性

 あなたは今、この小冊子を読みながら、次のような疑問が浮かんだかもしれません。「第4条の戒めにある七日目の安息日とは、はたしていつを指しているのか?」、また、「ユダヤ人たちが、今もずっと守り続けている安息日は土曜日で、もし土曜日が真の七日目だとしたら、なぜ大多数のクリスチャンが日曜日を、すなわち主の日を守っているのか?」、「今日まで、教会の指導者や博士たちが、それを知らずにいたということだろうか?」、また、「神様が昔、安息日を守れと言われた時から、今まで一度も暦や曜日は変わっていないのだろうか?」、「昔の第七日目が、今も変わらず同じ日なのか、どうやって分かるのか?」、「いつというのは、さほど重要なことではなく、一週間の中で、都合のよい時に、一日、安息日を守ればよいのではないだろうか?なぜ、生真面目にある特定の日だけに固執する必要があるのか?」などなど。では、このような質問に一つずつ答えていきたいと思います。

① 聖書が語る七日目の安息日はいつなのか?

「この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引取り方を願い出て、それを取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた。この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた。イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ」(ルカ 23:52-56)。

 

イエス様は安息日の準備の日、すなわち安息日の前日、十字架にかけられました。イエス様が亡くなられた後、イエス様の弟子たちが戒めの通りに、安息日を守ったと聖書は記録しています。ルカによる福音書24章1-6節では、「週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。ところが、石が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、『あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい』」と書かれています。

 イエス様は安息日の次の日によみがえられました。その日は日曜日でした。そして、教会が日曜日にキリストの復活を祝うということと、多神教の風習や儀礼から、復活祭の日曜日の習慣が生まれました。そのため、日曜日の前の日が安息日であり、それは現在の土曜日です。イエス様は、金曜日に十字架上で亡くなられ、安息日には墓の中で休み、日曜日の朝によみがえられました。これは、とても明らかな事実です。

 今日、多くのクリスチャンが日曜日に教会に行っていますが、その理由は、イエス様がその日に復活されたからだと語ります。しかし、聖書そのものは、イエス様の復活を記念して、礼拝を守れとは言っていません。「創造の記念日として、七日目を忘れずに神聖に守りなさい」とはっきり言っています。そして実は、この安息日が、真のクリスチャンのしるし・刻印なのです。「わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた」(黙 1:10)。この聖書の言葉に出てくる“主の日”を、多くのクリスチャンは日曜日だと考えています。しかし、使徒ヨハネは、日曜日に神様の啓示を受けたのではありません。ヨハネが啓示を受けた「主の日」とは、土曜日の安息日であることは聖書から見て間違いありません。なぜならキリストご自身が、安息日を「主の日」と呼んでおられるからです。「また彼らに言われた、『安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである』」(マルコ 2:27,28)。ヨハネは、主が語られたこの言葉を覚えていて、安息日を「主の日」すなわちキリストの日として呼んだのです。

しかも、ヨハネがこの啓示を受けた時期は、A.D.95年前後であり、そのころは日曜日を守る習慣が教会には全くない時期でした。キリスト教会が正式に礼拝日を第七日目の土曜日から日曜日に変更したのは、A.D.364年、キリスト教会の総会であるラオデキア会議からでした。このような変更は、聖書の言葉に完全に背くことで、結局このことは、教会会議の権威を聖書の権威よりも上に置くことでした。しかし、このような教会の背信は、実は、そうなることが聖書に預言されていたのです。

ではこれから、その預言を見てみましょう。