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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第10回  

2017年10月31日 | 日記

7、従順:愛の試金石                    

ある人たちは、律法が養育掛として罪人をキリストに導いて、罪の赦しを受けさせる目的を達成した後では、もう律法は必要ないと、ガラテヤ書3章24節25節を用いて言うかもしれません。それはどのような意味なのでしょうか。養育掛としての律法と、キリストにある自由との関係を私たちは正しく理解しなければなりません。律法は私たちの罪を指摘しキリストに導きますが、キリストを受け入れた人は、心に養育掛の教えが刻まれ、喜んで律法に従うようになります。外面から厳しく罪を指摘する律法から離れたのは、心に律法が書かれ、律法の要求がその人の中で確立されたからなのです。 

律法と恵みはお互いに競争し合っているのではなく、完全な協力関係にあります。律法は罪を指摘して、恵みは罪から救います。律法は神様の御心であり、恵みは神様の御心をなし遂げる力です。私たちは救いを得るために律法に従うのではなく、救われたゆえに従うのです。その二つの真の関係をもっともよく表現した美しい聖句が、ヨハネの黙示録14章12節です。「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。信仰と行いについての完全な描写ではありませんか?信仰と行いの美しい調和が、イエス様を信じる聖徒たちを通して現されるのです。

従順の行為が愛の真実のテスト(試金石)です。行いは真のクリスチャンであることを証明するものです。「行いのない信仰も死んだものなのである」(ヤコブ2:26)。どんな男性であれ、口先の言葉だけで女性の心を得ることはできません。花を贈ったり、献身的な行動も起こさず、愛のプレゼントもしないなら、純粋で知恵ある女性は、そのような男性の心を信じることはありません。イエス様は言われました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ7:21)。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第9回

2017年10月30日 | 日記

一人の殺人者が死刑宣告を受けたと仮定します。死刑執行日を待つ間、彼は法律の下にあり、罪責感の中で、その日をおびえながら待つことになります。しかし死刑が実行される一日前に、大統領がこの囚人の罪状を再検討した結果、恩赦を与える事にしたと考えてみましょう。大統領が情状酌量して、自分の権限によってその囚人を完全に釈放しました。赦された囚人は、今はもう、法律の下にあるのではなく、恵みの下にあるようになりました。法律は二度と彼を罪に定めることはできません。彼は法律の告発に対して、完全に罪と定められることはなくなり、義人となりました。彼は監獄から自由に歩いて出ることが出来るようになり、どんな警官も彼を逮捕することはできません。

 

ところで、彼が恵みの下にあってこれ以上法律の下にはいないからと言って、思い通りに法律を破っても良いでしょうか?絶対そのようなことはありません!彼には大統領の恵みを受け赦された者として、もっと良く法律を順守する心と義務が生じるようになるのです。感謝と愛の心で、彼は自分に恵みを施してくれたその国家の法律に喜んで従うようになり、尊重することでしょう。まさしくこのようなことが聖書の教えではないでしょうか。

「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」(ローマ3:31)。ここにすべての問題に対する正確な答えがあります。パウロは、「クリスチャンはキリストの救いの恵みを信じるゆえに、律法を不必要なものとして廃棄してしまうのか?」と、私たちへ質問を投げかけています。そしてその質問に対して、彼は自ら答えて、「恵みによって救われたクリスチャンは、心に律法が書き記され、愛と感謝と自由な心で律法に従い、それによって律法を確立するのだ」と言うのです。

 

この真理は非常に単純で明快であるため、再度説明する必要はないのですが、神様に素直に服従したくない人々が、巧妙な偽りの理論を持ち出してきて心の定まらない人々を惑わしているために、もう一度この問題を強調する必要があると思います。

皆さんは速度違反をして警察に捕まったことがありますか?警官が反則キップを書いている時に、あなたが、本当に急いでいた事情があったことを説得力を持って警官に訴えたとします。すると警官は、書いていた報告書をゆっくり畳んで破りました。そしてのように言います。「分かりました、今回だけは赦す事にします。しかし、・・・」。ここでこの警官が言う「しかし」という言葉の次には、どんな言葉が出てくるでしょう。言うまでもなく「しかし、再び速度違反をしてはなりません」ということです?警官のこのような赦し(恵み)は、皆さんに法律に違反しても良いという道を開いてくれましたか?そうではなく、二度と法律に違反しないという強い決心をうながすのです。

このように、赦されたクリスチャンが、どうして神様の律法に従わなくても大丈夫だなどと言えるのでしょうか。クリスチャンは、イエス様の十字架の血によって自分たちの罪が赦されたことを知っているので、なおさら、二度と罪を犯したくないと思うのです。

 

イエス様は言われました。「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」(ヨハネ14:15)。もし、皆さんが真心からキリストを愛するなら、キリストが言われた真理の通りに生きたいと思われるのではないでしょうか。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第8回 

2017年10月29日 | 日記

6、律法の下にいないとは?

 

私たちはしばしば、神様の戒めを格下げしようとする次のような発言を聞きます。「私たちは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、これ以上十戒を守る必要はありません」。これは正しい見解でしょうか?聖書は確かに、私たちが律法の下にあるのではないと記していますが、それは私たちが、律法に従う義務から解放された事を意味するのでしょうか?このことを教える聖書箇所はローマ人への手紙6章14、15節です。「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない」。

 

私たちが、聖書が語るそのままを受け入れるなら、どれだけ簡単に混乱を防ぐことになるでしょう!パウロは自分の言葉を自分で説明しています。彼は、私たちが律法の下にあるのではなく恵みの下にある、と語った後で「それでは、どうなのか?」という言葉を付け加えました。それは、「そのことをどのように理解するべきか?」という意味です。彼の答えに注意してみてください。その当時ある人たちは、律法に対するパウロの説明を誤解して、「恵みの下にあるから律法を犯しても大丈夫だ!」と言っていましたが、パウロはこのことをとても心配して、付け加えて説明した内容が「あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは“罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない”と言いました。強い断定的な言葉で、パウロは恵みの下にあるという事実が、クリスチャンたちに律法を犯しても良いという免許証を与えているのではないと語っています。しかし今日、おびただしい人たちが、このパウロの警告を無視しています。

 

もし恵みの下にあるという事実が、律法を守ることからクリスチャンを解放することでなければ、パウロが「律法の下にあるのではなく」と言ったのはどのような意味でしょうか?彼は、ローマ人への手紙3章19節で次のように説明しています。「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである」。ここでパウロは「律法の下にある」という事を「神のさばきの下にある」という事と、同一視しています。

つまり、律法の下にある人たちとは律法を犯す人たちです。彼らは依然として律法の定めの下にあることになります。逆に言えば、このことが真のクリスチャンが律法の下にいない理由です。彼らは律法を犯さないようにされることによって、律法の下で罪に定められることはなくなりました。そのために彼らは、律法の下にあるのではなく恵みの下にあるのと言えるのです。続いてのパウロの論証で、彼は恵みの力が罪の力よりさらに強いという真理を指摘します。そしてパウロは断固とした口調で「律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである」(ローマ6:14)と言いました。恵みは罪の権勢を打ち砕いて、神様の戒めに従う力を与えるのです。まさにこれこそが、クリスチャンが律法によって指摘される罪責感から解放され、罪の下にいない理由であり、クリスチャンが引き続き「罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない」(ローマ6:1)と言った理由です。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第7回  

2017年10月28日 | 日記

5、キリストの新しい戒め

またある人たちは、キリストが語られた新しい愛の戒めを根拠として、十戒が廃されたのだと主張しています。イエス様がヨハネの福音書13書34節で「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい」と語られ、すべての律法の要約として、神と人への愛である二つの大きい愛の律法を語られたのは事実ですが、主はそれらが十戒を無効にする新しい戒めだと言われのではありません。実際、イエス様が新しい戒めを与えられた時、全く新しい戒めを語られたのではなく、旧約聖書に書かれていた言葉を引用して、十戒の根本的な性質について説明されたのでした。「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記6:5)。「あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である」(レビ記19:18)。  

このような洞察力ある霊的な原則が、キリスト時代の律法主義者たちには忘れ去られていたので、キリストの教えは彼らに全く新しいものとして聞こえてきたのです。しかしイエス様が十戒を変更されたり、廃止されたのではありません。

 ある日、ひとりの律法学者がイエス様に「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」と、質問した時、このように答えられました。「イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ22:37~40)。

この二つの愛の戒めは、実に「律法全体と預言者とが、かかっている」内容を、厳選して簡単にまとめたものであることに注意してください。このマタイによる福音書22章37節~40節は、どの戒めの中にも、イエス様が言われた二つの愛の原則が、すべて含まれているという事を指摘する聖書箇所なのです。パウロがローマ人への手紙13章10節で、このことをもう一度反復して言及したように、キリストは愛こそ律法の完成であるという事実を語られたのでした。

 かりにある人が、キリストを心と精神と思いを尽くして愛するなら、彼は十戒の中で神様に対する私たちの義務を教えた最初の4つの戒めを遵守するでしょう。またもしあるクリスチャンが、隣り人を自分を愛するように愛するのであれば、他の人に対する義務を教える、十戒の後半の六つの戒めを遵守することでしょう。彼は自分の隣り人から盗んだり、偽りの証言をすることはできないでしょう。愛はすべての律法に従順であり、完成するように導くでしょう。愛は律法を廃するのではなくて、むしろ完全にすることです。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイ5:17、18)。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第6回 

2017年10月27日 | 日記

鏡自体には、私たちの顔に付いている汚れを消すことができません。どんなに鏡を覗き込んで、鏡に映った顔をこすってみても奇麗になることはできません。鏡の役割は、顔に付いている汚いものを見せて、洗面台に行って顔を洗うように教えてあげる事です。同じように律法は、人に心の罪の恐ろしさや汚れを教えて、人が罪人であることを宣言し、真の清さを得るために十字架に向かわせるように指示してあげます。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである」(エペソ2:8,9)。パウロはこの事を、ガラテヤ人への手紙2章16節でさらに強調しています。「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである」。

 

ここで私たちは、律法に関する問題の中で、最も誤って教えられている問題の一つを考えなければなりません。多くの真面目なクリスチャンが、旧約時代は律法による行いの時代であり、新約時代は恵みによる救いの時代であるという考えを受け入れています。そのために、旧約時代の人々は律法を守る行いによって救われ、新約時代の人々は恵みによって救われると考えています。しかしこれは真理ではありません。聖書はいつの時代のどんな人にも、救いのための完全で、美しいただ一つの計画を提示していますが、それは「信仰を通して恵みによって」救われるということです。

 

天国には、行いによって救われた人たちと、信仰によって救われた人たちの2種類の人々がいるというようなことは決してありません。あがなわれたすべての魂は、恵みによって救われた罪人だけなのです。旧約時代に救いを得た人たちも、やはりイエス・キリストの血潮の功績に頼った人々で、彼らは信仰によって、傷のない羊を聖所に持って行き殺すことによって、キリストの身代わりの犠牲を信じていることを行為で表現しました。そして彼らは、やがて来られるイエス・キリストのあがないの死を見上げたのです。現在の私たちも、信仰によってキリストの死を見上げる同じ方法で救われます。天国において、救われたすべての人は、世の初めから殺された小羊をたたえる、あがないの歌を共に歌うという事を忘れないで下さい。