goo blog サービス終了のお知らせ 

高齢者になっても、ヒマ・ひま・暇やはり暇

高齢者「さいら」ブログ。リタイヤーから、晴れて高齢者の仲間入り。店名をマイナーチェンジ。内容は以前と同様雑他。

和歌山県知事辞職・逮捕

2006年11月03日 | 外なる話題
和歌山県知事辞職(2006年11月3日)
 ブログでは余り時事評論はしない「さいら」であるが、今回の和歌山県知事の辞職は、県民と言うよりは、元和歌山県職として考えるところがあり、少し記事にしてみようと思う。なんて大上段に振りかざしてみるが、退職時にあっても、県庁組織の最末端のペイイペイの「さいら」から見ると、知事とはお話しも出来ない雲上の人であったことをお断りしておこう。
 落下傘候補であった知事が、その改革を推進するためには、まず県庁職員に対し「威圧的態度」を取る必要があった。職務に対していつも「緊張」を求められた。このことは、県職上がりの知事が続いて、ぬるま湯にドップリと長く浸かっていた職員に新鮮な驚きを与えた。従来の幹部職員に取っては知事自身の企画力は内容とその実行速度は及ばなかった。さすが自治省出身の落下傘候補とペイペイの「さいら」も思ったものである。そう言う中で、上手く知事の方針に乗ることが出来た若手の隠れた「能吏」が抜擢されて行った。従来の訳が分からない人事ではなかった。「適当に」尾を振るのではなくて、「仕事で一生懸命」尾を振れば見返りがあった。
 その結果として改革派の知事として成果も出て来て、全国で有名になった。その姿勢が職員だけであるなら、特に問題もなかったし、県庁職員再生の手法としては良かったと思う。

しかし、その姿勢が職員のみならず「対議会」においても、露骨に出た。二期目の時にすんなりと与党の推薦が得られなかった。知事から言うと議会は「反改革」の「抵抗勢力」であったかも知れない。議会は知事の政策に対する「阿吽の牽制」が働かなかった。議会与党は「消化不良」を起こしていた。知事が余りにも早急に、「栄養過多の食事」を与えすぎた。何かギクシャクして「凝り」だけを残す結果になった。県会議員は選挙で上がってきた方々である。その重みを感じなかった。と言うか、県会議員にその重みを感じさせなかった。今回の辞職に際して与党が最も厳しいスタンスであった。与党であればこの事案に対する知事の具体的な関与が明らかになるまで静観するのが普通である。どうも、与党側からも何らかの「失政」を待ち受けていたように思える。

 改革に邁進した知事であったが、大阪の「フィクサー」と縁が切れなかった。これが根本的なことであろう。知事はその「フィクサー」の人となりを充分認識していたはずである。改革を自称するならば、その手の人をバッサリと「自分の近辺」から切り捨ててしまう必要があった。それが出来るのは過去の柵がない「落下傘候補」であった筈であると思う。自分だけが身ぎれいになるために、自分とワンクッション置いて、出納長にその対応を任せるのではなくて、完全に「県庁近辺」から切り捨ててしまう必要があった。「来ても相手にするな」。そう言う「緊張感」が必要であった。「人に改革を言って、自分は改革しない」典型的な事例と言われても仕方がないし、そこに奢りを見出すのは「さいら」だけではない。

 今回の事案で知事が言っているように、金銭のやり取りや出納長に対する具体的な指示はなかったと思っている。そこは信じても良いと思っている。又、出納長は個々の案件の報告もしなかったと思う。報告しないことが、「抜擢された能吏」の「職務忠実」の気遣いで有ったと思う。ナンバー3の不祥事、フィクサーとの交友が明らかになった時点で、幾ら自分の潔白を主張したところで、又その潔白さはその通りであっても、「改革の旗を自ら振れる」と考えたところは残念である。その結果、後進県「和歌山」の改革が20年遅れることになったのは残念であるとしか言いようがない。

和歌山県知事収賄で再逮捕:かっての同僚達へ(2006年12月8日)
 先月和歌山県知事辞職で、感ずる所を記事にした。思っていたより根が深く和歌山県知事が収賄容疑で再逮捕された。職場では色々と大変だろうと思う。今日は、これを機会に、私がが若かった30数年前の職場の状況を話そうと思う。公務員も昔の入庁頃と比べて変化してきたこと、そしてその変化の速度は遅いにしても、本来の「特定の個人・法人に奉仕」するのではない「公僕」として公務員に必要な方向であることを話そうと思う。その方向性を従来に増して明確に我々職員に示したのはその知事であるが、それは間違っていない。県政のトップの不祥事を乗り越えて仕事に励んで欲しいと思う。この話題はこれでお仕舞いにしようと思う。
 
 「さいら」は技術職で、試験研究機関が最初の勤務であった。今から40数年前のことである。それが就職する時の売り手市場の条件でもあった。その間もない頃、同じ系列の行政職の技師が絡む幾つかの事件が報道されていた。行政は恐ろしい所だと新聞を読みながら思っていた。ところが、その内に、それが収賄事件に発展した。行政職技師の中堅職員数名が逮捕され、起訴された。当時は、懲戒解雇ではなくて有罪確定まで休職処分であった。新米の私はその方達をよく知っているのでなかったので、他人事、関係のないことの様に感じていた。試験研究機関にいて良かった位にしか思っていなかった。
 ある時、職場へ本庁の部長と我々技術職員人事に影響力を持つ課長補佐が来た。滅多にないことだそうだ。何でも「若い職員と一度話をしたい。」とのことで、若い職員だけで部長達と懇談した。その中で「さいら」は厚かましくも今思えばそんなことは出来ないと思うのであるが、その来訪者と「ビジョン論争」をした。当方の健康上の事情もあって、フィールドワークが出来ない状態であったので、一応希望を入れる形であるが、人事異動で「本庁勤務発令」が出た。入庁時の面接が思想信条のことで40分を超えた私は、採用は優等生ではなかった。行政からはキャンセルされると思っていて、驚いたが、どうしようもない。後でその時の事情を先輩に聞くと「あれは、人買いに行った。3人も休職になって、課が回らない。」「誰でも良かった。」と言うことであった。当時その課では「10年周期」で収賄事件が発生していた。極小さい規模の技術職ではその手の収賄事件は、その末端まで影響を受けることを始めて知った。

当時の行政の上司はその取り調べの状況を教えてくれた。贈賄側とその仲介者は幾ら個人的に親しくとも検察から同情の飴を与えられると「ペラペラ」と輪を掛けたように喋るのが通常であると。他人よりも自分が可愛いのは人の常である。押収品とその彼らの供述から「決して否定できない事実」をまず突きつけてくる。何の関係もない会議の席順で、「君の隣には○○がいて・・・」という辺りから始まる。検察は全てを知っている様に取り調べが続く。それからゆっくりと雁字搦めになった核心へと流れていく。「自白するしかない」「幾ら言い訳の問答集を作ってもどうにもならない。」と。
 又、「手帳は大事なことを書いてはならない。」「手帳は年が変わると焼いて捨てる。」等々、臨場感溢れて、話ながら、そう言う時の対処の仕方と日頃の心構えを教えてくれた。

 しかしその教えの内容は決して「公務員」の有るべき姿の教えではなかった。技術的な視点からの話に過ぎなかった。それでも、私は手帳はより一層神経質になり、重要なことは手帳に記録しないで覚えることとした。

 系統的ではないが、先輩が、業界との付き合い方法も教えてくれた。行政での最初の出張で驚いたことがあった。或る団体が実施した補助事業の中間検査に検査担当者と共に、出向いた時のことである。夜になると、その団体の方が食事の席にいた。それで一緒に食事をした。立派な料理が出て来た。勿論酒も出て来た。置屋が有る様な所でなかったので仲居さんが話し相手になってくれた。所謂「ご接待」である。翌朝、宿泊代を支払うべく旅館の仲居に言うと「代金はもう頂いております。」と言いながら、領収書をくれた。「お土産を預かっています。」と差し出した。こんなことは試験研究機関に居た私は初めての経験であった。
 帰庁して慌てて、上司に顛末を報告した。キッと叱られるであろうと思いながら。上司が言うには「それは特別なことではない。」「今回は君がメインでなくて、同行した検査員がメインだ。」「その検査員を接待する立場に君はある。」しかし、「宿泊代も出して貰うのは、良くあることだが、少し問題だなあ。」「以降は少なくとも素泊まりの費用だけは置いてくるように。」行政はそんなものかと思った。
 また、ある先輩は言った。その先輩が言うには、「業界との飲食はOKだ。」「これは付き合いだ。」「ごちそうさまと言えばよい。」「お中元・お歳暮はこれもOKだ。」「遠慮することはない。」「これらは全て社会通念上許される。」「萎縮するな。」
 そして最後に一番重要なことを付け加えた。「しかし、キャッシュと女は絶対にダメだ。」「幾ら酔っても受け取るな。」「お歳暮とかは、必ず中を調べて、キャッシュが無いことを確認せよ。」「万が一入っておれば、直ぐに、ワシに相談せよ。」
これらが当時のスタンスであった。
 もっとも、当時としては珍しい方もいた。業界を訪問して、協議している時にお茶が出される。その方はお茶は飲んだが、「コーヒー」、と言ってもインスタントであるが、は絶対に手を付けなかった。その方と同行しても、決して恒例の「会食」などはなかった。どちらかと言うと行政でその様なスタンスが異端児であった。そう言ってもそのために、その上司は仕事が出来ないという訳ではなかった。その先輩はその先輩の流儀で仕事をしていた。

 このようにして、結局の所、どのようなスタンダードで対処したらよいのか分からなかった。それぞれが自らのスタンダードを持つ必要があった。非常に幅広いスタンダードの中から選択せざるを得なかった。しかし、どのような場合であっても「キャッシュと女」だけは絶対に受け取ってはならないことだけは確かであると思った。それで、私ははかなり融通の利く方を選択した。

 しかし、時代と共に、その様な会食も少なくなった。と言うか、禁止されて行った。「ただ酒は飲むな。」が徹底して行った。当然のことながら、業界・関係官庁の方でも慎むようになった。

 そうは言っても、有ることもあった。どの時点からはハッキリしないが、多分それなりの責任有る立場になってからだと思うが、誘われた会食は行くことは行ったが、一人では行かなくなった。本当に必要だと思った会食は「割り勘」にした。二次会は私のよく行くスナックにした。幾ら小遣いがあっても具合が悪かった。本来ならば、「コーヒーは飲まない」先輩を見習うべきであるが、「さいら」はそうも行かなかった。その内、その様な機会は殆どなくなった。

 そう言う状況になっても、会食を誘う人もあった。私は警戒をした。誘う相手に良からぬものを感じた。

 世話になった方にお歳暮とかお中元その他プレゼントを贈ったり頂くことでその感謝の念を現したり、日頃のご無沙汰のお詫びの気持ちを現すことは社会ではよくあることである。その風習は悪いこととは思わない。昔は業界からのお歳暮等は当たり前のことであって、その贈られる「数と質」はその役職の「ステータスシンボル」でもあった。しかし、最近は、業界からのそれらは配達があった時には、「受領拒否」で返すのが習わしである。一端、「受領」すると後々が面倒である。ここ数年ほどの間に、完全に遵守すべきこととなっている。「会食」もそうである。当然と言えば当然である。公務員にはそう言う気遣いは無用であることが業界にも徹底された。「当時の社会通念」と「今の社会通念」が変わったのである。窮屈と言えばその通りである。
 しかし、そう言う今の社会通念で言えば、重複する言い方であるが、夜ご馳走になるとか、お歳暮の送付を受けるとかは相手に疑問を持たなければならない。まず「特別な意図」があると思わなければならない。決して、今どうこうというのではない。特別親しい関係を将来のために持っておこうという意図かも知れない。いざというときに、判断を間違う恐れがある。

 これも行政へ転勤して気付いたことであるが、それぞれの机の上に「印鑑ケース」が置いてあった。それを見ると、その係が扱っている業界の振興会とか協議会とかの印鑑が入っている。担当者はその金を自由に飲み食いに使っていて、無くなると、「会費」を徴収した。この金は、一連の収賄事件が発生して、私的な金のやり取りに感覚が麻痺した一翼を担っていたと判断された。それで、その手の会は全く無くなったが不思議なことに印鑑ケースは残っていた。
 当時は課も金がなかった。第3四半期を過ぎると旅費が無くなり、非常勤職員の給料も底を漬いてくる。総務に恃まれて、その金を工面するために業界へ「せびり」に行くのは技師の上司の役目であった。団体の長は「余り無駄遣いするなよ」と言いながらも必要な金を出してくれた。
 
 その内に、課もある程度裕福になり、それと共に巧妙な裏金造りが総務の責任で行われた。裏金にも段階がある。課の総務が作る裏金は悪いことであったが、何と言ってもオーソライズされていた裏金である。上級官庁へ出張する時には「お土産」はそこから当然出して貰った。更に難しい依頼ごとで行く時などには、総務の責任者を連れて行った。総務はさすがに手慣れたもので、東京事務所の職員に相談して、会食の手当などをしてくれた。東京事務所職員の手帳には「料亭」・「バー」等が羅列して有った。それが彼らの仕事であった。
 今はそう言うことは全く出来ない。それ以降、ほんの暫くの間は、出張費を浮かして、土産にすることも出来た。今はそんな余裕のある出張は出来ない。そもそも上級官庁は会食はしないし、土産も受け取らない。精々、最初から割り勘という条件で、安い居酒屋位ですることになった。業界や会社のの営業員も、決して、お土産持参とか「会食のお誘い」はしなくなった。
 そうなると、納得して貰うまで、説明をする。会食をして、「泣き言」を聞いて貰う時代は過ぎた。相手の疑問には詳しく説明する。技師としてのそれが本来の責務であろう。このことが重要になる。或る薬品会社のプロパーが言っていたことであるが「医者は接待が好きである。」「しかし最後はその薬の良い点を医者に納得して貰うことが一番大切である。」

 そう言うことが本当に徹底されたのは、前知事の頃である。それまではどちらかと言うと私は「疑心暗鬼」であった。「上層部はそうでないだろう?」の疑問が消えなかった。しかし、彼が我々に指示したことは全く間違っていない。その教えは彼の行動がどうで有れ、正しい。今は、スタンダードも明確にされている。我々が居た時代とは異なっている。

 さて昔の汚職事件のその後であるが、一人だけ最高裁まで争った人が居た。最高裁でも有罪はそのままであった。その間、十数年ほど時が経っていた。ある時、検察庁から電話があった。「押収品を返却するから取りに来い。」総務の人と一緒にそれを取りに行った。貰い受けた押収品には至る所に「付箋」が貼られていた。その付箋には「メモ書き」があった。警察・検察では一生懸命に事案の解明に努めた形跡が明白であった。当然それらの押収品は書類の保存期限が切れていた。所要の廃棄手続きをして、二人で、その書類を密かに焼却した。何とも言えない気持ちであった。二度とこういう事案を起こしてはならないと思いながら焼却した。
 
 こういう事案に遭遇すると、本人だけでなく、周囲の職場や妻・子供に何とも言えない気持ちをもたらす。そのことは決して忘れて欲しくはない。

その後、我々の技術端では汚職事件は再発しなかった。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。