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日本の精神の源流は九州にあり(前編)

2016年10月05日 | 日本

九州は、ある意味で日本の精神性あるいは宗教の発祥の地であることは間違いありません。

大和朝廷は、近畿地方から発生したのではなく、九州がオリジン(起源)であり、中国地方、出雲地方のほうを経由して畿内まで移動してきたものです。

 

したがって、高天原の原型が九州にあることは間違いがなく、「日本の精神の源流は、九州地方にある」と言ってよいと思います。

 

九州や四国および沖縄の人々はかつてのムー大陸から渡って来た、ムー帝国の末裔なのです。これらの人には同じ血が流れているというということです。この地域の人たちは、ほとんどがムー大陸から渡って来た人たちの子孫なのです。

 

また、ムーの人々は、途中の東南アジアのほうにもかなり上陸しています。ベトナムやタイ、ミャンマー、インドネシアなど、いろいろな所へ渡っていっています。そのように、ムーの末裔は、民族として今でも続いているのです。

 

邪馬台国については、「九州説」と「近畿説」とが長らく争っていますが、記紀などの歴史書に書いてあるものを見るかぎりでは、今の南九州、つまり宮崎県あたりを中心に地場を張っていたと考えられるのです。

 

宮崎から大分、熊本にかけて、あのあたりを中心に地場を張っていた大和朝廷が、奈良県のほう、すなわち、日本の中心部分を目指して東進したということは間違いないでしょう。

 

また、「東征」というのは、言葉としてはっきりしているので、「東に向った」ということは明らかだと思います。こう考えることによって、神武天皇の東征はあったのだと思うのです。「東征」は奈良から関東方面へ向かったということではないのです。

 

それまでは、各地にそれぞれの豪族を中心にした“ミニ王朝”がたくさんあったのでしょう。出雲あたりにも強い王朝らしきものはありましたし、近畿にもあったと思いますが、全国的な朝廷のもとになるものをつくろうとしたのが、神武天皇であろうと考えられるのです。

 

それでは、「どのように東進したのか」と不思議に思われるかもしれませんが、当時は、すでに海上交通が非常に発達していました。神武は船で近畿に来ているのです。陸を伝って歩いてきたわけでも、馬に乗ってきたわけでもなくて、船で来ています。当時すでに、そういう軍用だけでなく、民間人の交流・交易のための海上交通が発達していたのです。

 

神武は、日向のあたりから九州を上がって、北九州まで行き、さらに山口のほうから、広島、岡山、神戸、大阪と、このあたりを回ってきています。そして、和歌山のほうまで下りていき、紀伊半島をグルッと回って、三重のほうにも行っていますが、その東の名古屋のほうまで、今の宅急便よろしく、海の幸・山の幸を交換するルートがすでに出来上がっていて、船で移動していたようです。ともかく、神武天皇も船で東進してきたことがはっきりしました。

 

しかも、海戦、要するに海での戦いまでしているのですから、これは非常に優秀でしょう。

世界初の海戦といわれる、ギリシャのサラミスの海戦(紀元前480年)より、もっと古い時代に海戦が行われていたということが分かっています。

 

さて、船で東進してきた神武は、最初は西側から攻め入ろうとしたのですが、そのときには長髄彦(ながすねひこ)に“ブロック”されています。近畿地方のトップである王様(邇藝速日命・にぎはやひのみこと)は別にいましたが、長髄彦が大将軍だったので、これにブロックされ、その際、神武の長兄の五瀬命(いつせのみこと)は流れ矢に当たり、命を失っているのです。

 

実は、神武は四人兄弟の四番目でした。当時、男四人で出陣し、ほかの兄弟は戦死して、四人目が生き残ったので、かなり激しい戦いであったことが分かります。要するに、皇位継承者である上の三人が亡くなって、一番下である神武が生き残り、即位したというわけです。

 

さて、西側から攻めても勝てなかった神武は、紀伊水道を渡って三重のほうまで回ります。そして、三重の沖でも海戦を行い、これを制して三重から上陸し、伊勢神宮がある方向から、大和の地を攻めました。

 

なぜ、そうしたのかというと「先の戦いで敗れた理由は、太陽に向かって戦ったことだ」と考えたからです。当時、すでに天照大神への信仰があったので、「お日様に向って戦ったから負けたのだ」ということで、グルッと反対側へ回り、お日様を背中のほうにして戦ったら、今度は勝ちました。

 

「孫子の兵法」にも、「太陽を背中にして戦え」と書いてありますが、当然ではありましょう。相手はまぶしいので、太陽を背にしたほうが有利になるのは当然です。そのため、東に回って、三重のほうから攻め上り、この地へ来て、勝ちました。

 

なお、長髄彦については、「その戦いで戦死した」という説もあれば、「王様が降参したので、責任を取って自決した」という説、あるいは、「殺された」という説もあります。一部には、「津軽まで逃げていった」という説まであり、ある津軽の歴史書「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」には、「長髄彦の一族が津軽まで逃げてきた」と書いてあるので、諸説紛々という状況ではあるのです。

 

また、神武の時代の戦い方としては、船も使いましたが、弓矢を使った戦い方もしていました。さらには、鏡のようになる盾も使っていたようです。金属製の盾を使って、太陽の光を反射させ、目くらましをしたりもしていたらしいのです。

 

当時の日本は、今、言われているように「縄文式の土器しかつくれなかった」というレベルの時代ではなくて、中国の「項羽と劉邦」の時代程度の戦が十分にできるぐらいのものはあったのではないかと考えられます。

 

後編へ続きます。

後編は宮崎市内にある、天照大神(あまてらすおおみかみ)が生まれたとされている「みそぎ池」についてもお話します。

 

---owari---

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