goo blog サービス終了のお知らせ 

golden days

nonsense sentence contents and fictional experiments

210226 リアル(real)とは何か

2021-02-26 | Weblog
・空間を創る時に、設計というヴァーチャルな段階から、現場にてモノがモノとして納まっていくプロセス、様々な人が関わってその調整をしながら仕上げていくという過程に携わることにおいて、リアルを感じる。

・食事をつくるということは、食材との闘い、タイミング。身体へと還元される栄養素も考慮しながら味と食感を想定して作り、そして食べる時に最もリアルになる。(お酒もね♪)

・音を奏でる時のチューニング、そして楽器からのリアクション、良い音を出せた時、そのメロディを身体という楽器を使って、パフォーマンスとして出せた時、リアルを思う。

・身体に意識を集中してストレッチをする。股関節を中心に身体の動きを柔らかくし、筋肉・筋を伸ばし、気の流れを確保し、身体が悦び始めた時にリアルになる。

・Face to faceのコミュニケーションは、言うまでもなくリアル。むしろ物理的に触れ合うことの難しい昨今の状況であるが故に、オンラインではない面と向かったコミュニケーションのリアルさ、重要さが際立ってくる。

・無意識にしていた自分の普段の行為をあらためて意識した時には、リアル感が増す。

・自分がこの世に存在し、生きている環境に、どれだけ呼応しているかという意識(高い系w)が、リアルを醸造するといっても良いのではと思う次第。

210224 かもしれない

2021-02-24 | Weblog
まるで蝶が羽ばたくかのごとく
空間を自由に行き来することが出来るかもしれない
でも実はもう既に羽ばたいているのかもしれない

自由ではないかもしれないけれど
日々の喧騒の中で楽しくありたいと思いながら
時に苦しくもがいているだけなのかもしれないけれど
端から見れば蝶の羽ばたきに似ているように見えるかもしれない

210204→05 midnight

2021-02-05 | Weblog
今宵は半月だった。深夜、バルコニーで煙草を吸いながらその澄んだ月を眺め、何を思うか。少し前に見た月が満月に近かったことからの、月日の流れの早さを思うか。あっという間に過ぎ去っていく人生にしがみつくのか、楽しむのか、流すのか。側で寝息を立てているプリンセスに、心から感謝したい、いつも一緒にいてくれてありがとう。

そう、身体という、この手で触れることの出来る実体、実感を、これ程までに愛おしく思えたことはない。だって、いずれ消え去ってしまうから。今、この手の中にあったとしても、それがこちらの思いを越えて、一瞬でなくなってしまうから。それがこの世に生きるということの、究極の不条理であることを思い知らされた、この2年間だった。

それでも自分の中の「生きていく」というエネルギー・意志みたいなものは、一体どこから来るのだろうか、と思わずにいられない。仕事、プライベート関わらず、表面的には大変だけれども、実はそのコミュニケーションを楽しんでいる自分に気がつく。いろんなエネルギーの循環する感じが、自分にとって心地良いのだろうなという内省。

自分は「生かされている」と言うとチョット宗教的にはなるけれども、自分は一人で生きているわけではなく、まわりの人たちとの関係性の中で生きているということに思い至れば、「生かされている」ことにも自然と納得がいく。天や神からではなく、水平的な、今その現実の中における関係性の中で。

「笑い」についても少し考えたい。笑うことの身体的な効能の話は良いとして、なぜ人は笑うのか、笑ってしまうのか、面白いってなんだろう。枝雀師匠の「緊張と緩和」論もしかり、真面目に「笑い」を追求することのバカバカしさに、いつも笑って終わるというオチにて、今宵はお開きと。

210106 「知性」とは何か

2021-01-06 | Weblog
歴史的かつ地理的(文化的)な意味における自分の生きている現在の時空間を
GPS(Global positioning system)的に知りたいという性向の表れ

過去の多大なる書物(テキスト)から得られる知識やそこからの類推と想像力

「歴史を知ろうとしない人間に未来はない」と言った賢者の言葉にあるような
時空間を超えた脳の働き

201031

2020-10-31 | Weblog
満月の月光浴を心地よく穏やかに味わう

私の悲しみを覆うためにあなたに笑うのではなく
私の寂しさを補うためにあなたと居るのではなく
本当にあなたと一緒にいて穏やかだから一緒にいる
ただそれだけ

今はそれが少なくとも私にとって一番大切なこと
願わくば
それがあなたにとっても一番大切なことであれば
私は嬉しい

201029-2

2020-10-29 | Weblog
自身の身体の声を聞くことは
生命の維持として必要なこと
それくらい分かっていますよ

母へ

心配してくれて有難う

201029

2020-10-29 | Weblog
もはや自分は狂ってしまうのではないか?という問いが渦巻いた日。昼過ぎから緩やかに状況を打破すべく、身体を動かそうと散歩へと出かけた。

恵比寿から代官山、途中で思いがけず出会った馴染みのK弁当を仕込み、西郷山公園まで歩いて行った。途中、ヒルサイドテラス一連の槇文彦建築の、もはや歴史的数十年の重みを感じながら、あらためて建築デザインのストリートに与える影響なるものを思いめぐらしていた。

西郷山公園で弁当を食べ、過去に依頼され採寸した物件がどうなっているかと思いながら坂を下るも発見できず。池尻方面へと歩き、途中のポケットパークで喫煙し池尻へと向かうも、母高校の裏からのアプローチに散歩を広げ、そのまま駒場東大前駅へと。そこから井の頭線で渋谷に戻ったときに、知人からの連絡があった。

Djavanの変調とメロディーの自由さの心地よさに惚れている

2020-10-28 | Weblog
現代における音楽を規定している純コードから少し逸脱するような9thや13、6とか、詳しくは今学び始めている領域だけれど、現代もしくは近代社会を構築してきた心地よさというのは平均律であったり、音の世界を12音階で切り分けてきた心地良さであって、調が変わるとか不協和音に対する耐性がどこまであるかという話が、自分にとっての異物をどれだけ許容できるかというような、日々、日常における姿勢にも通じるのが、音楽の凄い所かもしれないと思い始めています。

インドや中東では、西洋音楽でいう12音階の間にさらに奥深い、音としての「刻み」がありますし、日本で言ったら、能楽の謡とか演歌のコブシ的なブレ、ゆらぎ感があるので。

201026

2020-10-26 | Weblog
今この時に生きているということの
政治的、経済的なものを超えて
抽象的概念を持てるということ
そしてそれをどのように
瞬間的に繋ぎ合わせることが出来るかということ

201023 姉へ

2020-10-23 | 姉との日々
最愛の、みー姉が逝って1週間。2人の娘によって葬儀などが滞りなく進んできたことも、姉の残した功績であることには間違いないし、娘たち、姉の母親、上姉含めた我々もまだ緊張感を保っている状況かもしれないし、お互いを気遣うやさしい言葉がグループLINE上で飛び交っている。それでも1週間は明らかに過ぎていった。

今宵は「情に棹させば流される」のではなく、早く流れゆく時間にあえて「情を持って棹をさしたい」気分になる。日を超えた午前1時前に見上げた空に、9月半ばには3時に見えていたオリオン座が同じ位置に見えた。それだけで地球が回っていることを知り、意識はフラットタイムへと赴く。

身体と意識、生と死、肉体として骨になる過程に立ち会うたびに「意識というものはいったい何処へ行くのだろう」という問いは続く。その答えは、たぶん無になるのは明らかだろうけれど、この世に残された者たちが、逝ってしまった人の思いの断片を拾い上げてゆくというプロセスによって、明らかになることなのかもしれない。

私が姉の死を「悔しい」と思うことが、もし仮に、今はどこにいるのか分からない彼女の魂というものを縛り付けているのであるならば、もはや「悔しい」とは思いたくない。自由な空間へと姉を送りたい。

姉よ、あなたは生きた。あなたは最後まで頑張ったし、私も寄り添ったと思う、私の中ではそう思える。そう思っていいですか?悔いはあるかもしれないれど、物理的な「肉体の時間」がある限り、こうなることは分かっていました。あなたの生きたかった分まで、その気持ちを胸に、これから私は生きていきます。昨年妻を失い、あなたを失い、今、とてもとても辛いです、本当に辛いです。

でも、私は生きたい、生きることを全うしたい。この燻んだ世界を生きるのだとしても、楽しく生きたい。そう思いながら、日々生きていきます。感情の波がおさまる前に、ここに記しておきます。

幸せな本の読み方

2020-10-14 | Weblog
自分の本棚にふと見つけた本を初めてのように読み始めて、その内容に新たなる視点を得られたとかなんとか思っていたら、読んだ本リストの中に3年前に読了していた記録を見つけて驚愕する。
読んだことを忘れていたことは事実だけれど、読みながら何となくどこかの雑誌の初掲ででも読んだことあるような感じはしていた、これはホント。
それでもたぶん、3年前から自分の視点も変化しているわけだし、あらためて読んでみて3年前の下地があるから読んでいてすーっと内容が入ってくるのだろうなとも思ったという、なんて幸せな本の読み方。

ごはん問題と料理問題について

2020-10-13 | Weblog
娘が学校へ行く時に、たまに昼食としてホットサンドを作って持たせたりしているけれど、授業の時間や状況的にコンビニで買ったりサイゼみたいな所で友達と食べてきた時には、請求して下さいなということにしている。事細かにレシートを見て計算しているわけではないけれど、先日「フラペチーノは?」と聞いてきたので「それはごはんではありません」と答えた。

いや待てよ、おにぎりやサンドウィッチならごはん、じゃあ肉まんは?アメリカンドッグは?お茶のかわりにフラペチーノだったらごはんに含まれる?などと考え始めたら、キリがなくなってくる。じゃがりこだって、お湯で戻してポテサラにするという話もあるし。江戸前の握り寿司は江戸時代の究極のファースト・フードだったわけだし、1日3食キッチリと食べていたことはなかったらしいし。

同様に、料理とはどこからが料理なのかという話。火や包丁を使うならば料理?じゃあ蕎麦を茹でてもり蕎麦は?レトルト・チンでも一手間加えたら?惣菜を買ってきて並べるのは?などと、コレもキリがない。
別に問題にするほどの話ではないけれど、いろんな人の意見を集めてみたくなる。

「エンターテインメント」について

2020-10-12 | Weblog
「子育てはエンターテインメントである」と思って娘を育ててきたつもり。
「entertainment」は語義的には「楽しませる」←『enter(互いに)tain(保つ)』とあるけれど、まあいいや。

娘がBabyの頃から色々と「楽しませる」ことをやってきたけれど、
逆に親としても子供の成長過程、中でも言語取得のプロセスについて
「あぁ、猿から人間になるというのはこういうことか」などとこちらも勝手に多大なる刺激を受けてきた。
それが「互いに保つ」ということだったのか。

「生まれ落ちてきたこの世界をどれだけ楽しめるか」というのが自分の根本的な考え方ではあるけれど、
それを娘にも伝えたいという気持ちがずっとある。
その上でこちらも成長してきた娘から様々な刺激をもらって、
なるほど「子育てはエンターテインメントである」と思ってきたことは、
あながち間違ってなかったのではないかと、思わされる日々。

少し引いて考えてみると、
「人生そのものがエンターテインメントである」とも思える。
周りの人々との日々のコミュニケーションの中に、
何かしら楽しめる要素を見つけることが出来るか否か。
出来れば毎日は楽しくなる。

音を取るということ

2020-10-11 | Weblog
ある楽曲のメロディーを追っていく
それをたとえ鼻歌であっても再現する
そこにそのメロディーを作った人との邂逅がある
音にのせられた言葉は分からなくとも
時代と場所と風土と文化を超えた流れがある

それを感じることが
音楽の醍醐味

快楽主義について

2020-09-28 | Weblog
数年前、まだ娘が小学校の高学年か中学に入った頃だったと思う。もう忘れたけれど、何かの話の流れから「オトチンは快楽主義者だから」と言ったら、娘が驚いたような顔をしたので内心、あれ?こりゃ教育的にも間違った発言をしてしまったかな?と思ったことがあった。娘がその言葉をどのように捉えていたかどうかは(んな発言、覚えてねぇだろうという確信のもとw)いいとして、その発言の意図をここで考察(言い訳)したい。

自分の「快楽主義」を定義すると、快楽だけを求めて生きているということではなく、常に自分を「快楽」と思える状況に持っていく人でありたいということ。自分の思い通りに行かないことや不快と思うことに直面した時に、どのように自分を位置付けるかを考え、自分が心地良いと思える方向へ持っていくことを意識すること。不快なことに対して「なぜ自分はコレが不快なのか」を紐解いていくことによって納得する、そのプロセス自体が快楽であると思えたならば、「Welcome to 快楽主義」