真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

日々考えたこと、気づいたことについて書いています。

第百二十一回 「無限」は「有限」において自らをあらわす(その二)

2017-09-12 11:56:03 | 思索
有限な私という「場」において、無限が無限を無限しているのだと前回述べました。

ちっぽけな有限な私と、壮大な無限の宇宙との関係性。これをどうやって詳細に述べるかが哲学の目的です。

あるいはこうも言えます。ちっぽけな有限な私と無限の神。その関係性。それを頭でわかるのではなく、どう体験的に了解するか。それが宗教の目的と言えます。

有限な皿の上に無限の宇宙が乗っかっている。これは古今東西のどの探究者にとっても極めて謎の話です。ですから驚嘆なのです。

世間では普通、その謎と驚嘆は蚊帳の外です。なぜなら、どの宗教であろうが、どの文化でありどの言語であろうが、あるいはどの時代であろうが、次のような図式が人々によって信じられているからです。

すなわち、「無限の宇宙の中に、有限な人間、すなわち私がいる」という図式です。宇宙は無限で、その無限の宇宙の中に有限な地球があって、その地表の上に小さな砂粒のような人間がいる。それが「私」だ。そういう思考システムです。

この思考システムでは、「無限」というのは、宇宙の先の果てにある茫漠とした不可思議な夢でしかありません。

例えば、1、2、3、4、5・・・と数を数えて、永遠に先の先まで数えられることを「無限」と呼びます。しかし、これは1、2、3・・・という有限な数を、いくらでもつなぎ合わせられるということを言っているだけであって、果てしなく有限に有限を接合しているだけのことです。

つまり、果てしなく続く有限の接合体を、抽象的な観念としての無限と呼んでいるだけなのです。

宇宙が無限だというのも同じ論理です。地球があって、太陽系があって、銀河系がある。その外にも、何々系がある。この有限の「系」の果てしない接合体を、抽象的に無限と呼んでいるわけです。

有限と有限が果てしなく接合し、その先の先の遥かな先は、茫漠とした夢幻に消えていく。そういう夢幻を無限と呼んでいるのです。

しかし、よく考えてみたら、有限な地球があって、その外を有限な太陽系があって、その外を有限な銀河系があって・・・ということを果てしなく続けていく思考は、一つの思考のシステムです。

もちろん、誰がどのような思考システムを頭に抱えていようが、個人の自由ではあります。しかし、宇宙が、そういう有限な「もの」を果てしなく積み上げたものだとしか考えられないなら、それは宇宙的に残念なことなのではないかと思ってしまいます。

昔、このようなブラックジョークを聞いたことがあります。日本の近くの、ある莫大な人口を抱えている国民は、このような宇宙旅行をする。まず人の上に人が乗る。その上に人が乗る。さらにその上に人が乗る。またまたさらに、その上に人が乗る・・・これをずっとやっていくと、宇宙空間に到達する。つまり、人口が多い国では、宇宙船がなくても、宇宙旅行ができる。

これはただの笑い話なので、冷笑したければ冷笑していただければそれでいいのですが、しかし、果てしなく人間を積み重ねることが宇宙旅行だと考えることを笑うなら、なぜ果てしなく銀河系や「何々系」を積み重ねることを宇宙だと考えて笑わないのでしょうか。

有限なものは、確かに部分の総和です。一台の車は、エンジン、シャーシー、タイヤ、ボディパネルといった部分の総和から成り立っています。しかし、その考え方を宇宙に適用したところで、無限の宇宙を正確にとらえることはできません。無限の宇宙は、有限な部品の総和ではないからです。

この点、柳宗悦は、「神について」の中でこのように言っております。今日はそれを引用して終わります。

以下引用

自然における個々のものは神の一部を分有するのではないのです。何となれば、神は部分の総和ではないからです。否、神には部分とか総和とかいう別はないのです。彼処とか此処とかいう一部的個所を、神は有たないのです。神には分かつべきものがないのです。分割し得べき神はないのです。彼には一部なるものがないのです。彼は部分から成立しているものではないからです。

彼は全き彼なのです。ゆえに神は如何なる時においても所においても、「一」としての全き彼を啓示するのです。神は全一です。全一としての神なのです。しかし全一と総体とを同一視してはならないのです。これを混合するなら、神の本質は見失われるでしょう。

総体は部分の加によって成立するでしょう。しかし有限と有限との加は、無限にはならないのです。全一は常に部分の加を越えるのです。全一に部分はないのです。それは分かち得る何ものでもないからです。

神が自然に自らを示現するということは、彼を無数に分割するということではないのです。神は自らを分割することなく、万物の各々に、彼の全一を示現するのです。

引用おわり
(柳宗悦 宗教選集第3巻 神について 春秋社 126頁)


1 コメント

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Unknown (ぷりん)
2017-09-12 12:35:45
柳宗悦の言うことはその通りなんだろうけど、神を当然のように「彼」って呼んでるのが柳の文章を人間臭プンプンにしている。柳が女だったら神を「彼」って呼ぶだろうか?「それ」って呼ぶんじゃないか?「彼」って呼んだ時点で柳の自己陶酔ぶりがもう臭くて臭くて堪らない。
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