真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

日々考えたこと、気づいたことについて書いています。

第百六回 合理主義的な感覚(その一)

2017-08-28 12:02:22 | 思索
3年くらい前のことだったと思いますが、当時の職場で、倉庫にあったミツカン酢のダンボール箱に、こういう文言がありました。

「やがていのちにかわるもの」

私はこのキャッチフレーズを見て、非常に驚きました。
要は、ミツカン酢は、後で「いのちにかわるもの」であって、今のところは「いのち」ではないということです。

私は株式会社ミツカングループを批判しているわけではありません。

ただ、そうやって「いのち」と「いのちでないもの」をバッサリと切り分けている合理主義的な感覚と言いますか、そういうものに驚いたのです。

私自身、瞑想と出会う前は、そういう合理主義的な感覚に、特に驚かなかったかもしれません。当たり前と思ったかもしれません。

合理主義的な感覚からすれば、ミツカン酢は「いのち」ではないでしょう。人間の肉体に入ってから、栄養になって、人間の「いのち」になっていくのだと。

しかし、よく考えたら、体内に入る前に「いのち」でないのだとしたら、なぜその「味」がわかるのだろう、あるいはなぜ「栄養」になるのだろう、という疑問があります。

人の体で「いのち」になるのだったら、人の体に入る前から「いのち」でなければ、そういう「いのち」の力は持ち得ないのではないか。そう感じたわけです。

それからしばらくして、日本人智学協会代表の高橋巌先生の本、「自己教育の処方箋」を読んで、ミツカン酢のキャッチフレーズを見た時とはまったく逆の驚嘆をすることになりました。今日はその素晴らしい文章を引用させていただきます。

以下引用

日頃さまざまな情報の中につかって生きている私たちにとっては、何かを感覚の対象として強く実感することができにくくなっています。

けれども、例えば今手元に茶碗があるとします。その茶碗をよく見ながら、茶碗があるというときの「ある」という言葉の意味をよく考えてみると、どう考えても、茶碗が単純にここにあるのではなく、茶碗がここに存在しようとする意志を持って存在しているとしか思えないのです。

茶碗は強烈な存在への意志を持っているのです。存在への意志を持っていないとすると、茶碗はすぐにばらばらになり塵になってしまうのではないでしょうか。

茶碗が茶碗としてここに存在して、茶碗としての役割を果たしているということの中に、何か宇宙意志の存在さえ感じることができます。

周囲を見回して、そこに壁があったり、ガラス窓があったり、蛍光灯のランプがついたりするときに、壁も窓もランプも、それぞれ壁として窓として存在しようと意志して存在しているのです。

このことは私にとって、そもそも神秘学を考えるときの原点のようなものなのですが、この存在への意志を日本語は実に見事に表現しています。

日本語では、「石である」とも「石がある」とも言いますが、その「石である」の「で」という言葉の中に、存在への意志が表現されているような気がするのです。

仏教には「草木国土悉皆成仏」とか「山河大地同時成道」とかいう表現がありますが、個々の事物、生物だけでなく、そもそも一切の存在を可能ならしめている時間と空間も、時間であろうとし、空間であろうとして存在しているのではないでしょうか。

…中略…

日本語の言霊からいいますと、存在はまず自分自身から始まり、すべてのものは存在への意志を持って存在しているのです。日本的感性から言えば、ミルクを飲んでおいしいと思ったときには、ミルクの存在の生命を自分の中で体験するからおいしいのです。

美しく輝いている色を見て、きれいだと思えるときには、さきほど述べたような光の意志に触れたのです。この地上に生命を生み出そうとする意志が、光となって存在しているのだとすれば、輝く色を見て「きれいだ」と感じたのは、光と私とが存在への意志において一体化できたから、そう感じたのです。

そういう感覚のための教育が、子どものときになされているかどうかが決定的だと思うのです。今の教育ですと、そういうあらゆる存在の背後で働いている生命を体験することが、なかなかできないのではないかと思います。

引用おわり
(自己教育の処方箋 高橋巌 角川書店 63-64頁)


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