真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

日々考えたこと、気づいたことについて書いています。

第百十九回 神秘的なものは現実的である(その六)

2017-09-10 11:02:44 | 哲学
マルクスは「宗教はアヘンだ」と言いましたが、人類の全てが無宗教になって共産主義者になったら、独善性や排他性といった愚かさから人類は自由になれるのでしょうか。

共産主義の歴史を見る限りでは、そうではありません。スターリンが処刑した人の数は、何十万人とも何百万人とも言われていますが、王政のロシアではそこまでの人数が処刑されたことはありません。

結局のところ、看板を取り替えても、中身が愚かなら、愚かなのです。この愚かさを克服するために、宗教的な修行は存在すると言えますが、自分の修行が中途半端なことを自覚せず、自分のことを一人前の何々教徒だと過信すると、独善性と排他性へとつながります。

この点、マルクスの「宗教はアヘンだ」という言葉はかなり説得力があります。ほとんどの信徒や宗教家は、先に述べた「過信」の奴隷だからです。ですから、宗教と言えば、四六時中、喧嘩や戦争をしており、独善性と排他性の博覧会のような様相を呈しているのです。

しかし、もともとの宗教の発生は、そういう対立や争いの博覧会や、そのための組織や教義(ドグマ)といったものではありません。それは、神秘と現実が一つのものとして相即する驚嘆なのです。

マイスター・エックハルトはこう言っております。

以下引用

何年か前のことだったが、どの草をとってもそれぞれちがうのはどうしてなのかときかれることがあるかもしれないなと、ふと思ったことがあったが、あとで実際そうたずねられた。これらはなぜそんなにちがっているのかと。

そこで次のようにわたしは答えた。どんな草もこんなにも互いに似ているのはどうしてなのだろうか。このことの方がもっと驚くべきことではないかと。

ある師は語っている。すべての草がこれほどまで似ていないのは、すべての被造物へあふれんばかりに注ぎこむ神の慈しみの豊かさのためであり、それは神の栄光がそのことによって尚いっそう顕われるためであると。

しかしわたしが、そのときに語ったことは次のようなことである。すべての天使たちが原初の純粋性においては、ひとりの天使であり、全くの一(いつ)であると同じように、すべての草もまた原初の純粋性においては一である。そこではすべてのものは一であると。

引用おわり
(エックハルト説教集 田島照久訳 岩波文庫 118-119頁)

どんな草であっても原初の純粋性においては一(いつ)であると、草を実際に見て驚くことと、「どんな草であっても原初の純粋性においては一(いつ)である」という教義を暗記することは、まったく違うことです。

マイスターに起きた体験は、実際に目の前の草を見て驚いたという体験です。それはキリスト教の教義でもなければ、哲学的知識でもありません。

仮に、マイスターのこの文章を読んで、「草は一(いつ)である」と覚えたとしても、実際に庭の雑草を見て、単なる無価値な雑草にしか見えなければ、その教義(キョウギ)はただの教義(ドグマ)にしか過ぎません。

言葉は、現実という神秘を見た人間が、驚きとともに発したものでなければ、ただの情報(メディア)にしか過ぎないのです。

草は現実です。この草という現実の前面には、草という物質があります。草のDNAを分析して博士論文を書くことなら、悟性で十分です。

しかし、草という現実の背後には、草という驚くべき神秘があります。草という窓を通して、「すべてのものは一である」ことを見るのです。ここでは、自分も草も一(いつ)なのです。

一(いつ)なる真理を認識する人間の能力を、ヘーゲルは理性と呼びました。だから、ヘーゲルは、理性的なものは神秘的なものであり、現実的なものであると言ったのです。

宗教であれ、哲学であれ、その言葉を教義(キョウギ)として勉強するだけなら、それはただの教義(ドグマ)にしかなりません。そのドグマは独善と排他に結びつき、宗教の何々派は別の何々派と対立するでしょうし、哲学の何々派は別の何々派と対立するでしょう。

しかし、私が公園の草を見て、そこにマイスター・エックハルトの言葉をありありと思い出すなら、その草は草でありながら、私であり、マイスター・エックハルトなのです。私が公園の草を見て、そこにヘーゲルの言葉をありありと思い出すなら、その草は草でありながら、私であり、ヘーゲルなのです。

そうなった時、はじめて宗教や哲学は、人を惑わすアヘンであることを超えて、神秘であり、理性であり、現実であるという生命そのものとなることでしょう。


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