スタアという存在

2013-10-25 20:23:18 | よしなしごと
キムラタクヤとホンダケイスケって似てる。
人気と実力を兼ね備えたスタアですね。

でも天才じゃない。
ひとに努力や根性を見せびらかすタイプではないし、むしろ努力とかを隠すタイプなんだとうけれども、発言も物腰も本業における輝きも、すべてが、ああどこかで常人ならざる努力をしているんだろうなあって感じさせるところが、ふたりとも似てる。
これは肯定的な意味で言っているの。
常人はそんなにストイックに(人に知られずに)ずっと努力や鍛練を続けることは出来ないし、またその鍛練によりふたりの様なカリスマ性や、洗練された技量を会得し、それを努力ゆえだと言うことはおくびにも出さない、なんて離れ業は出来ない。
そこが非凡であり、スタアであるゆえん。

でも天才じゃない。
エースを狙えで、お蝶夫人は言う。「天才は無心なのです。」名言だ。
浅田彰(たぶn)も言った。スキゾだ、と思った瞬間、それはスキゾではなくなる、と。

天才が努力をすることにより誰も辿り着けない様な領域に達するということなら、浅田真央が思い浮かぶ。シニアデビューした頃の彼女のなんと無心だったこと。最近の彼女は、神々しいばかりだが、もう無心ではない。でもあの天才が、心折れずに、致命的な怪我もせずに、トップ選手であるというのは、やはり奇跡的なことで、どうぞこのまま彼女に無事にオリンピックで満足の行く演技をさせてあげてください、と祈るばかりだ。
そう。天才はやはりその突出した、度外れた、過剰な何かによって、どこか危うい。

でも、キムラタクヤにもホンダケイスケにもその危惧は感じない。そういう安心感。ずっとスタアでいてくれる、いつもカッコよくあってくれる、という信頼感が持てる。彼等が凄いのは、時代に合わせるのではなく、時代を引き付けること。彼等はマスにおもねるのではなく、彼等自身がカッコいい、と思う振る舞い、物言い、生き方をしている。そういう方向に努力をしている。それが、みんなのアイドルになるところが、あまたの努力家とは決定的に違うところだ。二人は、その本業の技量に於いて天才ではないと感じる。けれでも、間違いなくカリスマであり、その存在自体、他人に真似しようのない人達だ。

二人が結果を出した時の涼しげな様を目にする度に、その影の途方もない努力を思って勝手に感動し、それをマスコミなどが天才と誉めそやせば、二人の努力は報われているなあ、と感じ、その人気故に叩かれればそれが彼等のさらなる糧になるんだろうなあ、と思いを馳せるわけ。
で、ありながら、ほんの少し痛々しさを感じてる事は、、、やっぱり本人達には失礼にあたるんだろうな。。。申し訳ない。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。