投稿者: 投稿日時: 2009/04/20 10:51:25
刑事裁判の裁判員制度の導入が近づいており、いろいろな問題点が指摘されているが、その目的は、冤罪事件が続いたことで、好意的にみれば開かれた裁判所、悪意にとれば国民に裁判の責任の一端を負わせようという意図であると思われる。
米国の陪審制と異なり、裁判官と裁判員の合議であること、つまり職業裁判官の関与によって、判決が偏向することを防ごうとしたところに特徴がある。
しかし、いずれこの裁判員制度は民事裁判にも導入されるのではないかと思われる。以下に述べるように民事裁判でこそ国民の常識や良識が期待されるからである。
刑事裁判では、刑事訴訟法が自白や状況証拠、伝聞証拠の証拠能力を制限する厳密証拠主義をとっているため、事実認定において誤判がおこることは比較的まれであり、裁判の焦点は法律論や量刑にあるので、職業裁判官に任せておいても良いと思われる。
これに対し民事裁判では、事実認定とその評価が重要である。司法試験に合格している裁判官は法律論や手続き論のプロではあるが、事実認定において一般人より秀でているとはいいがたい。
つまり日本では法科大学院入学の前提としての社会人経験はないから、法曹界しか知らないかれらがいわゆる人生経験に不足していてもおかしくはない。
実際、裁判官はその公平性を保つため、一般人と交際しない傾向があるし、歓楽街にもくりださないであろう。つまり、法廷以外では人間社会の清濁、現実に触れていないきらいがある。
一方ある弁護士の言によれば、争点が先鋭な裁判では、判決は一に裁判官の心証にかかっているので、一審、二審で事実認定が正反対だったりすることがあって、裁判官がだれであるかで、結論が正反対になることがままあるという。神ならぬ人間に真実を発見するのはむずかしいということであろう。
そういう意味で、事実認定とその評価に一般人の感覚を導入することは意味がある。特に医療裁判や労働裁判など、金銭訴訟のような契約書や法律論が前景にでないものについてその意義は大きいと考える。
確かに最近労働審判などが導入されて、裁判官以外の関与がなされているが、いかんせん、審判には強制力がない。ある意味では一審としての機能さえない。つまり当事者が拒否すれば審判自体進行しないし、審判における事実認定が本裁判の前提とならないからである。
刑事事件について重大犯罪に裁判員制度が導入されるのは冤罪の可能性を減少させるためでもあろうが、民事裁判でも名誉や財産の不当な侵害で当事者が死に至ることはありうる。
したがって民事裁判も人生を左右する重要なものであり、国民がこれに関与することは当然であろう。その場合、裁判員は刑事裁判での裁判員制度の最大の問題点である「徴兵制」を避け、志願制にすべきであろう。
もちろん個々の事件の志願制ではなく、裁判員名簿に掲載されるための志願である。個々の裁判では年齢別性別に調整するが、ランダムに名簿から抽出すればいいだろう。
また当事者に一度だけ裁判員を再選定させる権利を認めることも必要だろう。