週末の夜、再開発地帯に店を出している韓国屋台に訪れた。オープンエリアの屋台は隣りに座る客達との垣根を壊す。
その夜は常連の三十代半ばのアベック。初めて訪れた四十前後の主婦二人組。七十歳くらいのお爺さん、お婆さんの三人組も初めてらしい。そして、ちょくちょく出入りしている私。いや、もう一人、お喋りには店主のオモニ(韓国語でお母さん)も加わっていた。
そこには人の笑顔があり、暗い夜に甲高い声が広がっていた。酔っ払いの戯言、時事放談と話しは尽きないのが酒の席。いつしか家族の話になり、そして「父親って?」という話題になった。
家庭の中で「父親」というのは何だろう?
ある人は「お金を稼いでくる人」と言い。
ある人は「居なくてもいい」と言う。
そしてある人が「姿が見えなくても安心感と存在感を与えてくれる人」と言った。
一同、黙ってしまった。
「母親は見て触れて安心感、存在感を与えてくれる人」と言う。
「安心感、存在感」これって、当たり前だけど、大事なモノだと思う。家庭でも仕事場でもお店でも遊び友達の間でも。それが不安になっているから、「自分探し」が流行ったり、メディアに踊らされて「情報集め」に奔走する始末。
自分の居場所は自分で見つけ、そこに居る事が周囲に安心を与える存在。
簡単だけど難しい。いつしか薄らいでしまった当たり前の事を気付かされた夜だった。
ひとときの語らい。新しい出会い。次に訪れる時、“店という空間”はどんな事を教えてくれるだろうか?
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