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夢二の素顔

さまざまな人の夢二像

第8回「細き優男ではなかった夢二」(吉屋信子)

2024-10-21 09:02:31 | 日記

今回は文学少女の育成に大いに貢献したとされる『花物語』の著者、吉屋信子です。
作家林真理子の母親をモデルにした『本を読む女』の中には次のような著述があります。

万亀の本棚の中で、蕗谷虹児の切り抜きの下、特別の場所に並んでいるのは、吉屋信子の『花物語』と、樋口一葉の「たけくらべ」、そして吉田絃二郎の「小鳥の来る日」などである。(中略)「花物語」の表紙は、アールヌーボー風の鈴蘭の絵だ。この本を万亀は、学校の教科書を読むときのようにきちんと音読をする。すると目元がしだいにうっとりとほころんでくるのだ」(『女学校と女学生』稲垣恭子著)

大正時代、女学生の新しい世界を創り出した吉屋信子が、21歳で夢二と初めて出会った頃と、14年後に再会した時のエピソードを紹介します。

■吉屋信子
*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)の「竹久夢二」より
(注)本文は、吉屋信子が『私の見た人』(1963年(昭和38)、朝日新聞社)に掲載したものです。

宵待草

………待てど暮らせど来ぬ人を……宵待草のやるせなさ……。竹久夢二(本名茂二郎)がその郷里岡山の旭川の川原に咲く月見草をながめての詩はいまもうたわれている。
 竹久夢二描く絵は少女のころの私に甘露のごとき抒情の滋味(じみ)を与えた。夢二の絵に夢見心地になったひとは私ばかりではないはずだ。   
 雑誌<少女の友>に連載される夢二の<露子と武坊>の絵物語を私は毎月待ちかねた。絵に添えられるその文章も匂うように私を魅惑した。三色版の口絵も夢二のが多かった。角兵衛獅子の少年が夕空に富士の浮ぶ道を歩く姿。巡礼姿の少女が秋草のかたわらの石に腰かけてうつむく笠の下の可憐な顔……曲馬団の哀しきピエロと玉乗りの少女。私はいつまでも食い入るようにそれを見入った。
<女学世界>の口絵やさし絵は若い女の姿だった。顔の半分が目のような大きな大きな目。その手がまたばかに大きい。この人体のアンバランスの描き方が不思議な魅力を備えていた。これが夢二式美女として全国的にたくさんの陶酔者を持った。
 ある時の口絵に珍しく風景の水彩画が出た。それは奈良の郊外のくずれかかった築地のほとりに群がり作葉鶏頭だった。そのほのさびしい古都の片すみの風物の美しさに夢二特有の抒情が満ちあふれていた。そして文章が添えてあった。……。「ぼくがこの写生をしていると時雨が降った。絵の具がにじむと困ると思うと、うしろからそっと傘をさしかける手があった。振返るとそれは袴姿の奈良女子高師の生徒だった」……
 その傘をさしかけた女高師生もさぞ美しい人かと想像したが、あるいはそれは夢二御幻想のフィクションだったかも知れない。
 夢二は抒情画家でそして詩人で歌人だった。歌集<昼夜帯>を刊行している。また時には絵の傍に即興の俳句さえ添えた。洗い髪を櫛巻きにした下町風の美女がしなやかに両手をあげて簾(すだれ)を巻き上げる姿態を描いた傍に――たをやめの巻けばかなしき青簾――少女の私にはそれが世にもすばらしい句に思えてひどく感動してしまった。
 夢二式の大きな目に憂愁をたたえた美女は近代的の浮世絵だった。そこにあふれる抒情と感傷、そしてデカダンの日本的情緒の匂いもこもって、若い世代のひとを引きずやまなかった。
 その竹久夢二が<私の見た人>となったのは大正四年の夏のある日だった。
 夢二はそのころ、呉服橋外に<港屋>という小さな店舗を開き、自作の版画、千代紙、絵入り巻紙と封筒、夢二図案の半衿などを売っていた。だが私はそれを買いに行ったのではない。と言って夢二先生のお顔をひとめ拝みたいというファン心理でもなかった。
 目的は店主の夢二にでなく、夢二がそのころ、婦人之友社発行の<新少女>という少女雑誌の絵画主任を勤めていたので、私はある大望を抱いた。<新少女>に採用されたら夢二にさし絵を描いてもらってと、まったくとほうもないそれこそ夢見る娘だった。というのも私は女学校に居た時に<少女世界>への投書から抜擢されて短編の少女小説を掲載されたこともあり、勝手な自信を持っていたのだった。
 その少女雑誌の投書時代から東京の女学校の投書家たちと文通していた。そのひとたちと東京へ出ると会っていた。その文学少女グループのニ、三人は夢二を知っていた。港屋で買物のお顧客さまだった。その友だちが夢二経営の港屋へ私を連れて行くという。私はその友だちに大望を打明けず、ともかくいちど夢二を見てから考えることとして付いて行ったのは、とても暑い夏の日だった。

港屋にて

 港屋は小さい可愛ゆい店だった。店の上に小さい二階がつき、店の屋根に<港屋>と夢二風の看板が出ていた。
 店に夢二は居なかった。店番の女のひと、それは奥さんでなく雇われている年増の女性が一人すわっていた。友だちはその人ともおなじみらしかった。「もう先生がいらっしゃるころですよ」と言われて待つことにした。
 まもなく炎天の街路を歩いて店へはいってくるその姿が見えた。黄いろい上布に素足に下駄、帽子なしで髪を長くのばしたそのころの画家らしい頭髪のスタイル、肩幅のひろいがっしりした身体つき、大きな顔の色は黒く目はぎょろりとしてたくましい……夢二だと直感した……この抒情画家はけっしてか細き優男ではなかった。
 友だちは私をかつての少女雑誌投書仲間だと言い、そして文学雑誌の投書家だなどと紹介の弁を振った。
「文章世界であなたのを読んだよ」
 夢二にそう言われて私はびっくりした。私は女学校上級のころから少し前までその雑誌の投稿家だった。
「ぼくも昔は中学世界のコマ絵に投書してたからね。いまでも投書欄読む習慣があるね」<文章世界>の私の投稿文を読んだと言ったのはこの竹久夢二と、あとでは岡本かの子夫人だった。私はちょっと感激してしまった。
 まもなく苺の氷水が私たちの前に運ばれ、夢二は真っ先にサクサクと音立てて匙を口に運びつつ「昨日は婦人之友社のテニスコートでテニスしたが汗を流したあとは愉快だね」と言った。
 私はじぶんの待望の<少女小説>の一件を言出そうかどうしようかと、ひそかに夢二を打診する気持ちで思い迷いつつ氷水が溶けてゆくのを見詰めていると……
「ぼくたちのいまやってる<新少女>は、今までの実感的な少女雑誌とはまるでちがったやり方でゆきたい、大いに闘うつもりなんだ」
 その夢二のふいに言い出した言葉に私は愕然とした。外の少女雑誌が<実感的>という意味はどう解釈すべきか……それは<卑俗>と同意語なのであろうか?ともかく高き理想を掲げる編集方針らしい。私はおびえた。そしてついに目的の話を持ち出すのをあきらめることにした。
 そこへ夢二の著書を出す話らしく出版社の人が訪れたので私たちは帰ることにした。「またいらっしゃい」と私たちに愛想を言われたが、それきり私は行くこともなかった。夢二を見た。それでもうたくさんだった。
 その翌年の春、私は<少女画報>に<花物語>の第一編鈴蘭が採用されて少女小説の舞台を得、やがて大阪朝日新聞に懸賞長編連載、そして、年月が経った。もう暑い日の港屋の店頭のことなど遠い日のたわけたことのように忘れていた。すでに港屋も失せていた。
 その間に夢二のうわさは時として伝わった。それは絵の話より女性関係の事だった。奥さんと離婚とか、女子美術の生徒の美貌のひとと悲恋とか、そして山田順子(ゆきこ)(のち徳田秋声の愛人)といっときの恋愛、そのために今までの同棲者兼モデルのお葉さんと別れたとか、夢二時は久遠の女性の青い鳥を追っているようだった。もうそのころは夢二の全盛期は去っていた。その抒情画は時代のテンポからズレてしまった。けれども私たちの少女の日の追憶の押し花のようには残っていた。
 それからのある時、新聞の求人広告に「親一人子一人の家庭の家政婦として着実な婦人来談。市外松沢村字松原、竹久夢二」というのが出ていたと、むかし夢二ファンだった人が私に語った。
 夢二はそうした生活なのだった。
 そして――やがて、はからずも私は夢二にまた会った。

「平戸懐古」の絵

 昭和六年春、新宿のある小さい百貨店で竹久夢二の個展があるのを知った。それは近日夢二が外遊するその旅費のために催されるのだと報じられた。
 私はその画家の絵から受けた抒情の甘露を吸った日を忘れかねて、かつはあの過ぎ去った遠い日、港屋の店でイチゴの氷水をごちそうになったこと、そして文章世界の投書欄で私のものを読んだと言われた感激……それに酬いるために、一枚の絵を買ってこの画家へのお餞別に代えたいと思った。
 その百貨店は……今とちがうその当時のいささか場末の感のある新宿らしくまことにごみごみしたほこりっぽい入口で、そのはいるとすぐ横手の光線の足りないような倉庫めいた殺風景な一室が夢二の個展の会場だった。
 灰色の壁に三方ずらりと掛けならべてあるのはいわゆるパン画、力作を見せるためでなくただ売るためにのみ制作されたらしい水墨淡彩の小幅(しょうふく)が仮表装で押し並んでいた。そこにはもうかつての夢二の繊細な線は失せて文人画のような淡白な白筆だった。同じ画題のものが多く、なかに麦の穂を二三本描いただけで余白を多く残したのに、やはり棄てがたい余韻がある気がした。小幅一本はたいてい五十円平均だった。
 私はその麦の穂の一軸を買約して、会期終了後届けてもらう住所を百貨店の伝票に書き代金を払った。会場のゴタゴタした一角にそうしたテーブルと店員が一人居た。
 私は会場を出て正面入口はからはいって来る客たちの間をすりぬけて舗道へ向かう時、うしろから私の名を呼ぶ声がした。振り向くとそこに竹久夢二が追いかけて来ていた。
「ありがとう、ほんとにありがとう」と夢二は言った。私はいつのまにその人が私を見つけたのか、買約したのを知ったのか……あの会場に夢二が居たのを知らなかった。私はあわててまごまごとお辞儀した。私の傍へ寄ったその人は「さかんに書いていられますね」と真顔で言う。わたしはまたお辞儀して足早に逃げ出してしまった。
 買約伝票にしるした名で女の小説家と知ってか、それとも港屋をむかしたずねた文学娘を思い出してか……まさか、それとも文章世界の投書の名の記憶か……なんだかわからなかったけれども夢二その人の変貌には本当に驚いてしまった。あの港屋の店頭で初めて見た華やかな盛名の夢二の顔は今はしぼんだように小さく黒く、どこかやつれてしわばみ、鼻下に黒いチョビひげ、体格もやせて黒い服に小ぢんまりと……ただギロリとした目におもかげが宿っていた。私はいっとき感傷に打たれて舗道をたどった。
 夢二がアメリカからフランスへ貨物船で渡ったとかドイツをさまよい空腹のあまり倒れたとか伝えられて日本へ帰ったのは1年後だった。
 富士見高原の療養所で孤独の病人となって死去、行年五十一と新聞に訃報が出たのはそれから2年後の昭和九年の初秋だった。
 私の買った麦の穂は戦災で失せたが、戦後に私が画商から手に入れたのは、これぞ夢二のかつての繊細な筆の色彩に満ちた「平戸懐古」の小幅だった。 
 これはつい先年刊行の夢二遺稿の口絵にも使われた。青い海と岬の白壁の土蔵の遠景に平戸の遊女が洋傘を持つエキゾチックなオランダ船渡来の港への幻想図、夢二ならではのものである。
 雑司が谷霊園にあった「竹久夢二を埋む」と彫った墓石は戦後、無縁仏として整理される寸前に、有名だった抒情画家の筆とやっとわかって、にわかに<史跡>の標示が立てられる悲喜劇が生じたと伝えられる。(完)

※吉屋信子(よしや のぶこ):1896年(明治29)1月12日 - 1973年(昭和48年)7月11日)1920年代から1970年代前半にかけて活躍した日本の小説家。初め『花物語』(1916年)などの少女小説で人気を博し、『地の果まで』(1919年)で文壇に登場。以後家庭小説の分野で活躍し、キリスト教的な理想主義と清純な感傷性によって女性読者の絶大な支持を獲得。戦後は『徳川の夫人たち』が大奥ブームを呼び、女性史を題材とした歴史物、時代物を書き続けた。同性愛者であったと言われており、50年以上パートナーの千代と共に暮らした。(wikipediaより抜粋)
吉屋信子 - Wikipedia



1914年(大正3)10月1日に日本橋呉服町(現八重洲)に開店した「港屋絵草紙店」


 


第7回「夢二との不思議な縁」(岩田専太郎)

2024-10-17 10:11:51 | 日記

夢二が上京した1901年(明治34)東京・浅草に生まれた岩田専太郎は、小学校卒業後、菊池契月、伊東深水に師事。1919年(大正8)、十代後半から『講談雑誌』(博文館)で挿絵を発表しました。その後、永井荷風らの連載小説の挿絵を描き、志村立美と小林秀恒とともに挿絵界の「三羽烏」と言われるほどの挿絵画家となりました。今回は、彼と夢二との不思議な縁に関するエッセイを紹介します。

■岩田専太郎
*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)の「竹久夢二の思い出」より
(注)本文は、岩田専太郎が『三彩増刊 竹久夢二』(1969年(昭和44)(三彩社)に掲載したものです。

忙中の走り書き意をつくし得ないことをおゆるし下さい。

私が、はじめて夢二の名を知ったのは、小学生の頃でした。そこはかとない哀愁をただよわせたその絵が、幼い少年の心を捕えたのだと思います。夢二の絵が載っていることだけで多くの少年・少女雑誌を買いあさったのを覚えています。

小学校を卒業するとすぐ私は、家庭の都合で東京の地を去り京都へ移りました。その頃長田幹彦氏の祇園をあつかった小説の単行本が幾つか出版され夢二がその装幀をしています。木版刷りの美しい本でした。その何冊かを買ったのも、舞妓を描いた夢二の絵がほしかったからでした。

はじめて夢二の姿を見たのもその頃でした。――会ったというより見たというのが正しいでしょう。

それは、岡崎の京都図書館で夢二の個展が開かれた時でした。その頃の私はまだ画家になる気はなかったのですが、好きな絵が見られるというだけで、それを観に行ったと思います。

なぜか、会場には人影がまばらでしたが、画壇のこととか、夢二の人気とかには、関心のない少年のことですから、気にもならなかったようです。心ゆくまで絵を楽しんだ後、会場のそとへ出ました。

図書館のまわりには芝生がありました。その裏口に近い場所に、黒い背広を着た顔色のさえない男の人が、立てた膝の上に顎をうずめるようにして座っていたのです。白い壁をバックに細い木立もあったと思います。

その人を見た瞬間、それが夢二だと思ったのは、なぜか判りません。遠い所をみつめているような悲しげな眼差しと、今にも消えてしまいそうなそのポーズとに、そのまま夢二の絵を感じたのかも知れません。しばらく私が立ちどまっている間、その人は身動きもしませんでした。

――夢二に会えた――勝手にそうきめた私は、心おどる思いで家路につきました。

夢二に会って言葉を交わしたのは、その数年後、私が東京へ帰り挿絵の仕事をするようになってからニ十歳をすぎた頃でした。雑誌社の応接室で編集の人に紹介されたその人は、少年の日見たのと同じ人でした。やはり黒い背広を着て憂鬱な表情をしていました。いうまでもなく私は、京都のことも、少年の頃からその絵の愛好者だったことも、口にしませんでした。が、思いがけず自分が、その人と同じようにマスコミの仕事に従事するようになった十年近くの歳月の間、一時期を風靡し、女性関係その他プライベートに関しても、いろいろ噂の多かったことを知らなかったのではありません。

また、十年近くの時が流れ去り、私が挿絵の仕事に追われ続けるようになった或る年の正月のことでした。人目をさけたい事情があって、わざと暖い湘南の地をさけ寒い伊香保の宿に数日を送った時、宿帳には偽名を書いてあったのにかかわらず、画帖へ何か描くことを求められました。気のすすまぬまま炬燵の上でその画帖を開き、一枚一枚めくってゆくうち、思いもよらず、そこに「夢」の署名のある絵を見出しました。

広々と広がる枯野原に、黒い背広に黒いソフトの痩せた男が立ち、遠く汽車の煙らしいうす墨が流れていました。

  ――倖せは吾がかたわらを過ぎゆきぬ、のりおくれたる列車にも似て――

余白にかかれたその文字が、私の背筋にさむざむとした思いを走らせたのは、その頃の伊香保の宿に暖房設備がなかったせいばかりではありませんでした。盛衰の劇しいマスコミの流れから、死後時がすぎての盛名とうらはらに、一ツ時、夢二の名が忘れるともなく忘れられていたからです――海外旅行のあと、富士見高原に独り病をやしなっていると、人の噂に聞いてはいましたが――

二・二六事件の起こるすこし前、世の中が騒然としていた頃のことでした……

※岩田専太郎:1901年(明治34)6月8日 - 1974年2月19日。日本の画家、美術考証家。1901年6月8日、東京市浅草区黒船町(現在の東京都台東区寿)に生まれ、小学校卒業後、菊池契月、伊東深水に師事。1919年(大正8)、十代後半から『講談雑誌』(博文館)で挿絵を発表。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災し、大阪に転居。中山太陽堂の経営する広告出版社プラトン社の専属画家となる。同年創刊の『女性』(小山内薫編集)、翌年創刊の『苦楽』(直木三十五、川口松太郎ら編集)で、永井荷風らの連載小説の挿絵を描く。岩田専太郎、志村立美と小林秀恒は、挿絵界の「三羽烏」。1926年(大正15)に東京に戻り、同市滝野川区田端476番地(現在の北区田端)に転居する。この界隈は「田端文士村」と呼ばれた町で、すぐ後には隣に川口松太郎が引っ越してきている。同年『大阪毎日新聞』に吉川英治が連載した『鳴門秘帖』に挿絵を描いて評判を呼び、「モダン浮世絵」と呼ばれた。1937年(昭和12)、映画監督山中貞雄の遺作となった四代目河原崎長十郎主演の映画『人情紙風船』(P.C.L.映画作品)の美術考証を手がけた縁で、1939年(昭和14)、山中の遺した原案をもとに梶原金八が脚本を書き、河原崎が主演し、山中の助監督だった萩原遼が監督した映画『その前夜』(東宝映画京都撮影所作品)の美術考証を手がける。1954年(昭和29)、表紙絵及び挿絵が評価され、第2回菊池寛賞を受賞。1974年(昭和49)2月19日に死去。享年72歳。妹は女優の湊明子。(wikipediaより)

※「第1回夢二作品展覧会」…1912年(大正元年)11月23日~12月2日)に京都府立図書館で開催。
※二・二六事件:1936年(昭和11)2月26日から29日にかけて、陸軍の青年将校らが起こしたクーデター事件。 陸軍の「皇道派」に属する青年将校らが、東京の近衛歩兵第3連隊などの部隊を率い、首相官邸や政府要人宅を襲撃した。夢二は1934年(昭和9)に逝去している。


第6回「夢二への恩」(蕗谷虹児)

2024-10-15 08:52:13 | 日記

前回に引き続き蕗谷虹児のエッセイをご紹介します。
これには虹児の半生が略記されていますが、非常に困っていたときに夢二に助けられ、夢二の庇護のもとに生きてきたと切実に書いています。
こういうところに、恋と旅の漂流生活をしていたといわれる夢二が実は多くの人に愛されていたという理由が垣間見えるような感じがします。

■蕗谷虹児
*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「蕗谷虹児 先輩 竹久夢二」より
(注)本文は、蕗谷虹児が『別冊週刊読売』第三巻第一号(1976年(昭和51)(読売新聞社)に掲載されたものです。

 小学生時代から、絵が好きだったので、十五歳の時に私は、同窓の日本画の大家、尾竹竹坡(おたけちくは)先生の弟子にしてもらって、新潟から東京に出て来た。
 当時は、文展の全盛時代で、文展に入選しさえすれば、食うや食わずの無名画家でも、写真入りで新聞雑誌に書きたてられて、生活が保障されたものだったので、私も大方の画学生同様に、文展に入選したいばかりに、大作の出品が習作と懸命に取り組んでいて、博物館の鎌倉時代の仏像の写生と、絵巻物の模写に励んでいた。好きで描く浮世絵や挿絵は、厳しい絵の勉強の合間の愉しみにしていたので、夢二の挿絵集の春の巻等は、日比谷図書館で私は見ていた。
 竹坡先生は、文展に出品した「訪れ」で、文展の最高賞の金牌を授与されていたので、大変な羽振りであった。が、もう一度最高賞を撮れば、文展の審査員に昇格されるという大切な出品作を、なぜか落選させられたので、先生と、一門の弟子たちは前途の希望を失って、ちりばらばらになり、私も、父が新聞記者をしている樺太(からふと)へ落ちて行ったが、父の家には、私とうまくいかない父の後妻がいたので、私は父の家からも出て、樺太の村落から村落を、つたない絵を画いて売りながら、北へ北へと漂泊してゆき、国境から先には行けなかったから、四年間の放浪のはてに、東京へ引き返すべく、不凍港の久春内(くしゅんない)から小樽行きの船に乗ったが、大雪の小樽駅で、父の友人の、名寄(なよろ)の禅寺の和尚と村の人たちから餞別にもらった当分の間の学費を、掏摸(スリ)に掏られて、殆ど無一文の素寒貧(すかんぴん)になって東京に帰ってきた。そんな私を止めてくれた彫刻家の戸田海笛(とだかいてき)と、遊びにきていた先輩の中沢霊泉(なかざわれいぜん)が、夢二さんと仲がよかったので、二人に連れられて、本郷の菊富士ホテルにいた夢二さんのところへ行ってみたのだが、夢二さんは「樺太帰りの熊」と呼ばれて誰れにも相手にされない私に同情して、樺太で描いた私のスケッチを見てくれた上で、東京社の編集長に紹介状を書いてくれたのだった。
 当時の東京社からは、「婦人画報」と「少女画報」の他に二、三の雑誌が出ていたが、東京社は夢二さんの紹介なので、すぐ私に「少女画報」に挿絵を描かせてくれた。
 それ以来私は、夢二さんの庇護のものとで挿絵を描いたので、夢二さんが亡くなったときには、挿絵を描く張りあいを失って、何度描くのをやめようとしたかしれなかった。夢二さんは亡くなってからも、無分別な私が、道を踏み違えないように、心配してくれた、と私は思っている。
 ━━夢二さんと、お葉さんと三人で、渋谷の通りへ散歩に出たことがあった。その頃の道玄坂には、力車が行き来していたが、街燈の光りの輪には蝙蝠(コウモリ)が飛びかい、ラジオもテレビも無くて、音のない走馬燈のように、夜の渋谷の通りは静かであった。が、大きな月が舗道に映し出した私の影をステッキで指して、
「僕の若い頃を想い出すよ」と、夢二さんが言った。
 夢二さんが三十六歳で私が二十二の時であった。

(参考)記載内容当時の蕗谷虹児の履歴(wikipediaより)
1919年 (大正8年)、竹坡門下の兄弟子の戸田海笛を頼って上京。戸田海笛の紹介で日米図案社に入社、図案家としてデザインの修行をする。
1920年 (大正9年)、22歳、竹久夢二を訪ねる。夢二に雑誌『少女画報』主筆の水谷まさるを紹介され、蕗谷紅児の筆名により同誌へ挿絵掲載のデビューを果たす。吉屋信子の少女向け小説『花物語』に描いた挿絵が評判になり、10月創刊の講談社『婦人倶楽部』のカットなど挿絵画家としての仕事が増え始める。
1921年 (大正10年)、竹久夢二の許可を取り、虹児に改名。朝日新聞に連載の吉屋信子の長編小説『海の極みまで』の挿絵に大抜擢され、全国的に名を知られるようになる。『少女画報』『令女界』『少女倶楽部』などの雑誌の表紙絵や挿絵が大評判で時代の寵児となり、夢二と並び称されるようになる。

(余談))
2014年、新潟県新発田市にある蕗谷虹児記念館で夢二の原画展が開催された。同年3月1日から開催された郵政博物館開館記念企画展「蕗谷虹児展」のため、同館から貸出資料要請を受けた際、誤って蕗谷虹児に返送された夢二画の原画が見つかったのである。虹児が夢二を信奉していたからというわけではないだろうが、これも縁であろう。

蕗谷虹児記念館(新潟県新発田市)


第5回「”生きている夢二式美人”を見た」(蕗谷虹児)

2024-10-13 09:03:03 | 日記

「花嫁人形」の画と詩で有名な蕗谷虹児は、父親の仕事の関係で行った樺太での放浪生活ののち東京に戻りましたが、友人らに連れられて菊富士ホテルの夢二宅を訪れました。1920年(大正9)のことで、夢二36歳、虹児は22歳でした。
夢二は虹児の持参した絵を見て雑誌『少女画報』主筆の水谷まさるを紹介を紹介したことから、虹児は挿絵画家としてデビューすることになりました。この時点では「蕗谷紅児」と称していましたが、翌年、竹久夢二の許可を取り、「虹児」に改名。朝日新聞に連載の吉屋信子の長編小説『海の極みまで』の挿絵に大抜擢され、全国的に名を知られるようになり、『少女画報』『令女界』『少女倶楽部』などの雑誌の表紙絵や挿絵が大評判で時代の寵児となり、夢二と並び称されるようになりました。(Wikipediaより)
夢二宅を訪れた時の様子を掲載した文章をご紹介します。

 

■蕗谷虹児

*『竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「蕗谷虹児 夢二さんの画室」より
(注)本文は、蕗谷虹児が雑誌『令女界』に連載した、挿絵入り自伝小説「乙女妻」(1937年(昭和12)1月号~同年12月号11回目第一六巻第一Ⅰ号(宝文館)に掲載されたものです。東京・本郷の“菊富士ホテル”に暮す夢二を訪ねた一夫(虹児)のエピソードが綴られ、夢二の恋人お蔦(お葉)も文中に登場しています。

(そうだ、挿絵で身を立てると言う方法もあったのだな……)
一夫は、こう思い立つと、急に夢二さんに逢いたくなった。
(その頃、氏は本郷の菊富士ホテルにおられた。)
久しぶりに訪ねて行くと、
「来たね。」と氏は、静かに秋風のように笑った。
卓上には、楽譜の表紙のためらしい描きかけの絵が載っていた。
「春になったね。」
「ええ、僕は、春になると夢二さんに逢いたくなるんですよ。」
「なぜだい?」
煙草に火をつけて氏は椅子に凭(もた)れた。
「なぜだか、わかんないけど」
「なぜだか、わかんないけど―――かハハハ」
氏は、天井を仰いで煙草の煙を吹いた。
(夢二さんはいつ逢っても、一風変わった風態をしていられたが、この日は、紫紺(しこん)の袋頭巾のようなもので長髪を押えて、くち綿の、渋い八端(はったん)らしい地の丹前を着ていた。)
そこへ、お蔦さんが出て来た。
荒い派手やかな黄縞のお召に、繻子の昼夜帯を締めて、夢二さんが描く絵からそのまま抜け出して来たようなお蔦さんだった。
(こんな美しい人と一緒にいるので、夢二さんの絵はいつでも若いのだな……)
一夫は、お蔦さんの顔を見るたびにそう思った。
夢二さんは、絨毯の上へ描きかけの絵を置いて、そこへ胡坐(あぐら)をかいて描き始めた。
一夫は、椅子に腰を掛けたままその絵の仕上るのを見ていたが、見ているうちに、その画ペンの動きに魅せられて、甘やかな洋酒の酔心地のようなものを感じた。
敷じき物も窓掛けも、本棚も、卓子も椅子も、何処を見ても夢二式ならざるはないその部屋だった。
(夢二さんは、こんな綺麗(きれい)な部屋で、こんな綺麗な人と一緒に暮して、こんな綺麗な絵を描いている――倖(しあわせ)だな。)
一夫は、自分より二十年も齢上の夢二さんが、羨ましくなって来た。
「僕なんかにも描けるかしら――」
一夫が思わず言うと、
「挿絵をかい?描いてみたらどうだい。」
「描けるかしら――」
「好きなら描けるさ、――別にそううまい挿絵家も日本にはいないじゃないか――」
氏は、こう言って一夫に勇気をつけてくれた。

この二三日後に、一夫は、日米図案社の午休みの時間を利用して、T雑誌社を訪問してみた。
「何か御用ですか?」
編集長のT氏が、幸いに逢ってくれた。
「夢二さんが行って見よと言うので来たのですが、僕も挿絵を描きたいと思いまして――」
「ああ、そうですか、いままでどこかに描いた経験があるのですか?」
「ないのですが――」
「では、見本と言うようなものを持って来ましたか?」
「ええ。」
一夫が差し出したのをT氏は老眼鏡らしいその眼鏡越しで、一枚一枚、味わうように見てゆく――。
一夫は、その前の椅子にかしこまって、T氏の顎のところで、さっきから生物のように揺(ゆらめ)いている大きな瘤(こぶ)を、凝(じ)っと見つめていた。(完)

 
『竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)


「花嫁人形」(1924年(大正13))


第4回「夢二の女性論」

2024-10-09 12:45:34 | 日記

今回は、夢二自身の声を聞いてみます。
夢二の語る京都の女性と東京の女性。
これを読むと、夢二がどれほど鋭い眼と感覚で街の風俗を見ているかがよく分かりますが、内容もさることながら、文章を読むと、まるで夢二が目の前で語っているような書きぶりです。当時のものの言い方を知る参考にもなります。「マインドを持たない」などという言葉が大正時代に出てきたので、当時の言葉使いに関する知識の乏しい編者は驚いてしまいました。
なお、難解な言葉等に関して、編者が文章の途中に適宜(注)を入れていることをご了承ください。

(『竹久夢二』(竹久夢二美術館監修、河出書房指新社)の「竹久夢二 女性論」より抜粋)
美人画をはじめ、時代を象徴する女性像を描き続けた夢二。同時に恋多く、理想の女性を生涯求めてやまなかったその姿は、マスコミからも注目され、女性論や恋愛論について執筆を依頼されることも多々あった。自身の思いや体験から得たこと、また女性に対するメッセージを、夢二は的確な言葉で書き表した。そしてそれらの文章は、いつの時代にも通じる普遍的な内容も多く、時代を超えて心に響くものばかりである。

「京都の女 東京の女」(『新家庭』第四巻第一号 1919年(大正8)1月)
 東京の女と京都の女と比較して話せって仰言(おっしゃ)るんですか。東男に京女って昔から言いますが、江戸の日本橋を振出しに東海道五十三次を三条大橋まで、俱利伽羅紋々(くりからもんもん)の籠屋が走ってた時分には――つまり禁裏様(きんりさま)が京の御所に御座った時分には京都も都だったのでしょうが、今じゃ京都は田舎の町ですね。そりゃね、中央政府が東京にあるからの、禁裏様が東京にお移りになったからっていう、外面的な理由からじゃないんです。
 誰でも京都に少し住んだ人ならすぐ感じることですが、京都という町には地方色(ローカルカラー)はあるが、有機的な都会生活ってものがありませんね。あれで大阪は、大阪らしい文化と生活内容を持っています。この点では、東京と大阪という比較の方がおもしろいでしょう。早い話しが、京都の廓(くるわ)でも大部分は大阪、神戸の金が落ちるんだそうです。東山から南禅寺畔へかけての別荘や妾宅は大抵、大阪、神戸の紳士の持物だそうですからね。祇園一流の美妓(びぎ)が、昔ながらの赤前垂れの茶亭(ちゃてい)へゆくより、たとい小店でも、たんまりご祝儀の出る方を喜ぶって言いますものね。この間も京都で中沢さん(画伯)に逢った時の話ですが、「だん子も好きだったが、旦那が出来てひどく感じが下等になりましたね」と言っていました。あの狭い下河原の浮世小路を自動車で乗廻したり、日傘の代りに埃及(エジプト)模様の洋傘(こうもり)をふりまわしたり、毛のあるショールをかけて、まずい一品料理を食べに歩くようになったんですものね。私は必ずしも懐古的な古い物ばかりが好いって言うのじゃないんです。昔の話に、ある舞姫が台所の釜の火が燃出ていたのを女中に注意したら、舞姫がそんなことに気を付けるようじゃいけない、たとい家が焼けても平気でいるものだと、おっ母さんになる人に叱られたというが、そんな事を今時言う人間もあるまいか、また聞く人もあるまい。
(注)
・「東男に京女」:男は、たくましく、意気な江戸の男がよく、女は、美しく、情のある京都の女がよい。また、この取り合わせは似合いである。(精選版 日本国語大辞典)
・「俱利伽羅紋々(くりからもんもん」:博徒など、やくざが背中に彫った倶利迦羅龍王のいれずみ。また、そのいれずみをした人。転じて、いれずみ。(精選版 日本国語大辞典)
・「禁裏様(きんりさま)」:天皇を敬っていう語。禁中様。禁廷様。きんりんさま。(精選版 日本国語大辞典)
・「祇園(ぎおん)」:京都市東山区の一地区。四条通が東山山麓の東大路に突当るところにある八坂神社の西門前から西は鴨川までの四条通南北一帯をさす。地名は八坂神社がかつて祇園社と呼ばれたことに由来。祇園社は貞観 18 (876) 年の創建と伝えられ,鎌倉時代に鳥居前町が発達したが,応仁の乱後衰退。江戸時代初期から再び祇園社や清水寺などの参詣者を相手に茶屋が並びはじめ,中期には遊里として認められ,以後歓楽街として発展。現在も茶屋,料亭,バーなどが多い。京都では八坂神社を「祇園さん」,茶屋町を「祇園町」と呼び分けることもある。大みそかの夜から元旦にかけて八坂神社に詣でる「おけら詣り」や,7月の祇園祭でにぎわう。(ブリタニカ国際大百科事典)
・「美妓(びぎ)」:美しい芸妓。美しい芸者。(精選版 日本国語大辞典)
・「赤前垂れ(あかまえだれ)」:赤い色の前垂れ。また、それを掛けた女。近世では、宿屋の女、茶屋女、遊女屋の遣手(やりて)などの風俗。(精選版 日本国語大辞典)
・中沢さん:中澤偉吉。日本画家・中澤霊泉のこと。長野県生まれで号を霊泉とした。京都高等工芸学校(現国立京都工芸繊維大学)図案科を卒業。夢二による大正12年(1923)5月の「どんたく図案社」結成の宣言の中に「同人」として中澤偉吉・久本信男・奥地孝四郎の名が見られる。
・「埃及(エジプト)模様」:古代エジプトの工芸品にみられる動植物などの幾何学的な模様。(精選版 日本国語大辞典)

 今の京都には、随分新し好みの人間が多くなった事なんです。そしてその新しさに、自分のうちの生活から自覚したんじゃなくて、東京の方から影響された珍らし好みなんですね。早い話しが京都の若い画工が、東京で出版される新しい雑誌や訳本やから、つまり活字に影響せられて、長い歴史のある伝統的な日本絵具の顔料の科学的な性質も考えずに、無暗と新しがってるとこなんぞは――そしていうことが好いじゃありませんか、「林檎は赤いね、若い生が踊っているね」ですとさ。こんな風潮はジャナリズムとでも言いますか一体に上方の字の読める新しい人間は、東京の者といえばなんでも飛付くんですね。それでいて、また恐ろしく土地自慢で、味方びいきです。

 私の知ったある夫人が(夫人というのは勿体ないが、この夫人のことは、ある機会に纏(まとま)った物語を書くつもりですが)恐ろしく新しやなんです。無論、教養のある人じゃないし、京都の貴婦人社会に交友を持った代表的な人じゃないんです。ただその新しがりな点を除けば、まあ、中京あたりの御内儀の好典型といってもよいでしょう。何とかいう劇団の女優や男優を自分の家へ泊めたり、知名の芸術家に近づきになったり、自動車の運転手に見知られていたりすることが好きなんですね。『三越タイムス』かなんかを愛読して、流行品といえば何でも買込んで、めったやたらに引被(ひっかぶ)るんですよ。一体京都の女は、着物を着るんじゃないんです。ただ身体に巻きつけるんです。帯の結び方も知らないんです。祇園あたりの女でも、あったら上等の帯を、くるりと巻きつけて、もさりと結んでいるんです。だから、着付がすぐにくずれて、腰から下はまるで都腰巻をはいたような恰好になるんです。元来、人間の体の最も効果的(エフエクテーブ)な美しさは、立姿にあるんです。人間が他の動物より進化論的に区別できるからだそうです。どんな動物でも脚を一直線に延長して、足の甲と直角をなす位置で直立することはできないそうです。動物は必ず膝を曲げて立っています。「布団着て臥(ね)たる姿や東山」全くそうです、山が眠っているように京都の女は坐っている方がよほど美しいようです。それで自然に、立姿の審美的考察が後(おく)れたのかもしれません。だから着物や帯は、素晴しく金の高い代物をつけていても下駄(げた)だの足袋(たび)だのは何でも平気なんですね。足袋なんぞは一文位い足より大きいのを穿いてますね、早く切れるからだそうです。
 夏になると白っぽい着物の下へ黒い襟をかけます。私ははじめ、これは審美的な、コントラストの美しさを知っているのかと思って、きいて見たら夏は襟が汚れるからだそうです。
 夏と言えば、京都では浴衣を外出する時、決して着ませんね。浴衣がけで歩く女は、よくよく着物のない貧しい女に見られるからだそうです。ドストエフスキイの本の中に「人間は貧乏なことは恥じないが、ただ物を持っていないことを恥じる」とあったのを覚えていますが、京都では、そうじゃないんです。貧乏なことも人間の恥辱であり、持っていないことは死ぬよりも辛いことなんです。だから人間が物を持つためには、どんな手段を尽くしてさえも平気なんです。昔から「粥っ腹」だの「京のお茶漬」って言いますが、食物は食わないでも、晴れの日に着るものの一通りは持っていないと付合が出来ないんです。だから自分に快適な着物とか、好尚(こうしょう)から作った物というのではなくただ「あてかて持ってまっせ」という示威運動の一つに過ぎない。

 ある中京(ちゅうきょう)の娘さんの話に、毎年誓文払(せいもんばらい)(これは東京でいう大売出しで、今日にはいろんな見切物が出るんです)の日に呉服屋でいろんな着物を買ってくるが、母親が惜しい惜しいと言って古いのから古いのから手を通すし、それにめったに着せてくれないから、流行物なんかきられませんといったのを聞いた。なんでも勿体ながって、最近にも、お仏壇へ上げたあんも(これはあんの入った餅)を日が経ってから、お下げして子供に食わせたので、兄弟三人の子供が入院してとうとうそのために死んだと聞いています。一家族の内にさえこの新しさと、この因縁とがすこしも調和されずにこんがらがっているんです。京都の町全体としても、大阪の方から来る物質的圧迫と東京の――わけてもジャァナリズムからくる思想的文化が渦をまいて、調和しないで、消化されないでいるようです。ある人が京都を評して、中枢神経のない思想生活のない田舎町だと言ったことは一面の観察だと思います。しかし、京都人には恐るべきアナボリックな所がある。本当に人間が、人間の一人として愛に満ちた正しい純な生活を生活しようという誠実は、少しもないように見える。ほんとのことを決して言わない、こちらがほんとのことを言うのを不思議がるばかりでなく、裏をかいて、まるで反対な意味に取っていることが多い。
(注)
・粥っ腹:粥腹。粥を食べただけの腹。力が十分に入らない状態をいう。「―では力仕事ができない」(goo国語辞書)
・京のお茶漬:「ぶぶ漬け」とは、お茶漬けのこと。「ぶぶ漬け、どうどす?」と、訪問先で勧められたら、そろそろお帰りくださいというあいさつで、本気にとれば笑い物になるというのが京都のぶぶ漬け伝説です。京都人のイケズを象徴する話として、落語「京の茶漬」のように、まことしやかに語られますが、実際に経験したという話は聞いたことがありません。本来は、「何にもないけど、ぶぶ漬けでも食べてゆっくりしていってくださいね」という京都流の控えめなやさしさの表現のようです。こんな話が生まれたこと自体、きっと昔から京都の人々の暮らしの中でお茶漬けが身近な食べ物だった証しなのでしょう。試しに歴史をひもとくと、江戸時代の商家などでは、朝や晩にしょっちゅうお茶漬けを食べていた記録が見られます。それも、なぜ朝晩かというと、当時の京都では昼にご飯を炊く習慣があったからです。お茶漬けは、冷めたごはんをおいしく食べる知恵でもあったに違いありません。京都には、ちりめん山椒、漬物、塩昆布など、お茶漬けの友がたくさんあります。好みの「ぶぶ漬け」を味わってみるのも楽しいですね。(京都観光Navi)
・好尚(こうしょう):このみ。嗜好 (しこう) 。また、はやり。流行。(goo国語辞書)
・アナボリック:anabolic「《生物》同化作用の」の意。(英辞郎)カタボリックとアナボリックとは専門用語で、もしかするとトレーニング愛好家の方ならご存知かもしれません。カタボリックは「異化作用」のことを指しており、体内にあるものを分解・消費してエネルギーを作り出している状況のことで、人体では体に蓄えてある糖質や脂質、タンパク質を分解しエネルギーを作ることを指しています。ダイエットの際に脂肪が減少したり、筋肉量が減少するというのをイメージしてください。一方、アナボリックは「同化作用」を意味しており、カタボリックとは反対に食事などによって体内に入った栄養を素に脂肪や筋肉といったものに作り変えて貯蔵する働きのことで、トレーニングによって筋肉が大きく太くなることがまさしくそれです。(COMP(初心者専門パーソナルトレーニングジム)のHPより)

 河上博士の「貧乏物語」という論文が大阪朝日に出ていた頃、私は何という皮肉だろうと思っていました。   
 京都の女は皆それぞれに市価を持っていることは、恐るべき進化かあるいは羨(うらや)むべき退化です。古代ブリトン人の婚姻制度よりも徹底的に優秀な習慣を持っている。祇園の女で千や二千の貯金のない舞妓はないと聞いています普通の家庭の女でも、自分の所有に属する着物を男に作らせるとか、良人(おっと)に内密で金を貯えておくことは、ごく普通のことになっているらしい。(編者注:2文ありますが原著のまま記載しています。)私が使っていた京都生まれの女が「私も身売りをしようかしら」とある時都踊りを見せての帰り路で、真面目に言ったのを聞いて驚いたことがあります。
 食うに困るからというのではない、どうかしてより多くの着物を、より美しい帯をしたい。またより多くのお金を貯金したい欲望が唯一の目的なんです。
 京都の舞妓はマインドを持っていない。
 祇園小説で有名なM君のものに「京都の舞妓は客をつかず離れず実に快く遊ばせる方法を知っている、例えば、舟遊びをしても、月夜の風流を解し、決して客の歓楽を妨げるような騒ぎをしない」とあった。「それに引換えて、東京の女はすぐに客の歓楽の中へ飛び込んで来てうるさい」というような意味が書いてあった。それが京都の女はマインドを持っていないように見えたり、意志生活のない女たる証拠だといえる。またその本に「京の女は無知」だともあった。これもやはりマインドを持たない一つのあらわれだと言えると思う。
 実際、京都の女は、功利的な実際生活を徹底的に体現しているようです。恐らく京都の女は人間に惚れたら、男を愛することを知らないように見える。彼らの同棲や婚姻はまさしく一種の商取引なんです。
 ある祇園の名妓が、自分の世話になっている男の仕事が本願寺の坊であったということを三年間知らずに過したというような事は、いかに、彼らが人間の心の問題に無関心で、単純に肉体の上の域は物質の上の取引だけに満足して生きてきたかとうことを、明らかに語っているかがわかるのである。

(注)
M君:おそらく長田幹彦のこと。長田幹彦(ながたみきひこ、1887―1964)
小説家。東京・麹町(こうじまち)生まれ。兄秀雄(ひでお)の影響で新詩社に入るが、脱退して『スバル』に参加して文筆活動を開始。早稲田(わせだ)大学在学中、北海道を放浪、そのときの旅役者生活に取材した『澪(みお)』(1911~12)、『零落(れいらく)』(1912)で一躍新進作家として文壇の花形となった。そのころ1年ほど谷崎潤一郎とともに京阪に滞在、のちに、『祇園(ぎおん)夜話』(1915)など祇園物とよばれる作品群を執筆、潤一郎と並称される耽美(たんび)派の代表的作家となる。(約300の長編と約600の短編に亘る多量の作品を書いたという。)しかし赤木桁平(こうへい)の『遊蕩(ゆうとう)文学の撲滅』(1916)論で打撃を受け、情話物の流行にのって読者をひきつけはしたが、作品は通俗化していった。昭和初期からいわゆる歌謡曲の作詞家として『祇園小唄(こうた)』『島の娘』など多数の作品を残し、第二次世界大戦後は『青春時代』(1952)などの回想記や通俗小説を執筆するかたわら心霊学の著作なども残した。(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)
夢二が数多くの作品の装幀をしている。また、「祇園小唄」の作詞者でもある。
★「祇園小唄」(作詞:長田幹彦、作曲:佐々紅華)
1 月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に 夢もいざよう紅桜 しのぶ思いを振袖に 祇園恋しや だらりの帯よ
2 夏は河原の夕涼み 白い襟あしぼんぼりに かくす涙の口紅も 燃えて身をやく大文字 祇園恋しや だらりの帯よ
3 鴨の河原の水やせて 咽(むせ)ぶ瀬音に鐘の声 枯れた柳に秋風が 泣くよ今宵も夜もすがら 祇園恋しや だらりの帯よ
4 雪はしとしとまる窓に つもる逢うせの差向(さしむか)い 灯影(ほかげ)つめたく小夜(さよ)ふけて もやい枕に川千鳥 祇園恋しや だらりの帯よ
『祇園小唄』の歌詞で締めに繰り返される「だらりの帯」とは、京都の舞妓が着る振袖のだらり結びにした帯を指す。見習い期間に姐さん芸妓と茶屋で修業する際は、半分の長さの「半だらり」の帯となる。舞妓の初期における髪型は「割れしのぶ」。店出しから間もない年少の舞妓が結う髷(まげ)で、「ありまち鹿の子」や「鹿の子留め」など特徴的な髪飾りが目を引く華やかで愛らしい髪型。『祇園小唄』の歌詞で「しのぶ思いを振袖に」とあるが、この舞妓の髪型の名称と無関係ではないだろう。(以上、サイト「世界の民謡/童謡」より https://www.worldfolksong.com/index.html

 私は随分長く京都の女の抽象的な観察ばかりお話ししたようですからもはや東京の女のことを言う時間がなくなりました。今少し具体的な風俗についてお話しして、このつまらない話をやめましょう。
 三年振りに東京へ帰って、一番目についたのは、若い女の人の髪の形です。束髪の前髪に毛たぼを入れないでずっと引つめて、後ろの方へ突き出した(と口で言っては、感じがわるいが)束髪を多く見たことです。これはミッション、スタイルでしょうが私が四年ほどまえにある少女雑誌へ、私の好きな髪として、出したことのある、ギリシャ巻という束髪です。私の好きな束髪が流行りだしたのを見て、私は実に嬉しい気がしたんです。実にあれが好きです。あの髪を結うと、すぐに私はギリシアン鼻(ノーズ)を持った、首の長い、眼窩(めくぼ)の低い美人を眼に描くことができます。そして、横顔がわけても一番センシアルな耳朶(みみたば)と襟足を露に惜しげもなく見せる点で、まことに美しい髪だと思います。
 芝居で見たってそうでしょう。あのでこでこの毛たぼのあんころを入れた束髪で愛人の胸へ頬をよせる場面(シーン)を想像して御覧なさい。男の胸のとこで盛綱の首実検よりもかさばっちゃ次の白(せりふ)が出ようがないじゃありませんか。
 京都の女の髪は一体に鬢(びん)を張って、その上帯をば、極めて、シンメトリーに大きくもっさりと結んで広げてありますから、釣合いは好いか知りませんが、気の利いたものじゃありませんね。その上、京都の女は脚に人体の重心の中心を置かないで、尻で歩いているように見えます。これは今少し科学的に研究して見たら面白いでしょうが、今はやめます。
 要するに京都は趣味の町です。骨董的な町です。総ての行楽も芸能も、ある伝統的な趣味が出ないようです。舞妓が時雨(しぐれ)をきく風流も、時の鐘を数える風雅も、彼等には実感のない日常茶飯事にすぎないのです。
 四条通の飾窓をみてあるくと、どこの飾窓にも半切画の一枚、色紙の一枚、盆石の一つはきっと出してあります。ある貴金属を商う家では、五千円のダイヤの指輪にならべて二円五十銭のほどのガラス入の金の指輪が出してある。つまり持っていないものは、切(せめ)てそれらしいものでも持っていないと恥しいという、需要者の心持が、ちゃんと表象してあるんです。
 旅人が京都の町を歩く時、あなたは、青や黄や茶色のおそろしく原色の羽織をきた女やまた、たいへん質のいいものでありながら帯も着物も履物も、調和も統一も対照もないない上等な風俗を見るでしょう。また電車の停留場でのろい電車の来るのを、実に、何十分でも我慢して乗換切符を無駄にすまいと心掛けて、立ちつくしている御内儀を見出すでしょう。
 また、夕方円山や清水坂の方を歩いていると、軒下から走り出て、「異人さん銭おくれ、銭がなければおまん(饅頭)おくれ」と呼(さけ)んで路をふさぐ、男の子でも縞の前垂れをした、いたいけな子供を見るでしょう。
 山紫水明の京都へ遊ぶ旅人は、朝(あした)に清水の欄干に立ち、夕(ゆうべ)に黒谷の晩鐘をきいて、時雨に逢っても決して傘をお買になるな。(了)
(注)
・毛たぼ、毛たぼのあんころ:地毛の中に入れて、まとめ髪やヘアアレンジのボリュームアップを図るものです。そのためつけ毛ともいいます。また詰め物の意味でしょうか、「あんこ」ともいいます。盛り髪のためのかさ上げアイテムと言えますね。最近ではシニヨンの中に入れて髪の量を増やして見せるためなどに使われています。本来、「たぼ」とは日本髪の後ろに張り出した部分のことです。(サイト「頭美人」より)
・(注)眼窩(めくぼ):目のくぼみ
・センシアル:“センシュアル”のこと。官能的である、官能的なさまという意味を持つ言葉です。それ以外にも、肉感的という意味もあります。主に色気や外見的な特徴、ファッション、人間の内面性を表す言葉でもあります。セクシーとは似ているようで違います。(サイト「BELCY」)*現代の意味合いです。
・盛綱の首実検:浄瑠璃「近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)」八段目で、主人時政から弟高綱の首実検を命じられた盛綱は、高綱の子小四郎の命をかけたけなげさに感じ入り、にせ首と知りながら高綱の首だと答える場面。(『精選版 日本国語大辞典』より)鬢(びん)を張る:江戸時代、婦人が鬢に張りを持たせるために、その内側に鬢張(びんはり)を入れた。鬢張は、鯨のひげ、針金などで作った。上方での称で、江戸では鬢差(びんさし)と呼んだ。(『精選版 日本国語大辞典』より)
・シンメトリー:上下・左右の対称(相称)
・盆石:盆上に雅致のある自然石を立て小石等を配して山水その他の風物を描写するもの。室町時代から置物として観賞されてきた。石州流,細川流,遠州流等の流派があり,それを作る(打つ)場合の態度,手順などの作法が定められている。(『百科事典マイペディア』より)
・御内儀(ごないぎ):貴人または相手の妻を敬っていう語。おないぎ。御内室。御内証。御内方ごないほう。(『デジタル大辞泉』)
・前垂れ(まえだれ):「前垂れ」は、おもに商人が和服の上にしめるもので、特に腰から下の前面部分に垂れ下げる布をいう。(『goo辞書』)
・山紫水明(さんしすいめい):日に映じて、山は紫に、澄んだ水は清くはっきりと見えること。山水の景色の清らかで美しいこと。(『精選版 日本国語大辞典』より)