夢実現研究所

信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。

恋するように働いた30年と言えるように

2007-08-31 14:52:46 | 独立運動



恋するように働いた30年:テンプスタッフ社長 篠原欣子
氏が初めて人材ビジネスを知ったのが豪州。日本にない便利な仕事と感銘を受ける。
帰国後、経営のイロハも知らずに、73年にマンションの1室にテンプスタッフを設立。
殆ど金もなく、千枚だけ印刷したA4の資料を持ち、1人で営業に走り回った。
まったく、相手にされなかった。
しかし、派遣を知る外資系の会社を梃子に徐々に成長し、現在に至る。
氏が得た教訓。
まずは、今置かれた環境において、報酬など関係なく一生懸命やれば必ず明日は見えてくるということ。
苦しくても逃げずに無我夢中で打ち込めば、壁は必ず乗り越えられる。
そして何より、やり続けること。
仕事も恋と同じように、ひたむきに続けることが大切。

「自分のこと」
 計画実施まで、1年半。今の状況を考えると、なかなか大変だとは思う。
 しかし、篠原社長のように、一歩一歩着実に粘り強くやれば必ず成功すると思う。
 とにかく、今やれることを十分やっておこう。そのとき必要になる事柄、すべてに対して今、十分習得する努力をしよう。

ロハスという生き方

2007-08-31 14:32:10 | 団塊世代の定年後



LOHAS(ロハス)とはLifestyles Of Health And Sustainability (健康と持続可能性の(若しくはこれを重視する)ライフスタイル)の略。健康や環境問題に関心の高い人々のライフスタイルとされる。
ロハスを楽しむ中高年が目立ち始めた。
有機農作物などを中心とした食事や、自然素材を使った住宅リフォームなど、身の回りでできることから取り組み、第二の人生を充実させる。
人生経験が醸し出す味わいある暮らしぶりは、若い世代からも魅力的に映る。

例:建売住宅を改築
 居間とキッチンを無垢の木の床と、珪藻土を使った壁にリフォーム
 ビニールクロスなど一切使わなかったため、通常のリフォームより費用がかかったが、「自然で本物。室内の湿気が減って快適だし、徐々に味わいが出てくる」と満足。
趣味の木工で椅子やテーブルなどの家具も自分で製作。

例:有機野菜つくり
 約220㎡の裏庭を使い、年間30種類の野菜を栽培。
「きのこやもやしを除けば野菜は買ったことがない」
 裏庭に設けた囲炉裏には近所の仲間が自然に集まり、2週間に1度はパーティを開く。

傾向:有機農産物や無添加食品を食べたり、環境に配慮した住宅、生活用品を選んだり、太陽光発電など自然エネルギーの活用や省エネに積極的な人。

例:「元気なオヤジクラブ」大阪市団塊世代6人
 「元気なロハス」を合言葉に、都会から地方に足を運び、豊かな自然や資源を利用して、生甲斐探しをする。地域の活性化にも貢献したい。
例:和歌山県の森でエコツアー、海でヨットセーリング、川ではカヌーの川下り。
「将来」
 余暇ナビゲーター育成、新しい食材の開発など、ビジネスを立ち上げる。

例:ロハスを日本に広める活動をしているイデ トシカズ
 まず、早起き。夏は午前4時、それ以外は5時に起床。
 ヨガや瞑想に1時間を費やす。
次に1時間半かけて筋トレや読書をして心身を養う。
さらに、30分かけて、その日にやることの優先順位をつける。
 野菜と魚介類しか食べない。玄米に旬の野菜を中心。
例:会員制貸し菜園
 有機野菜と地産地消を実践。毎週畑に通って野菜つくり。農作業をする仲間も増えた。ロハスは中高年にとって新しい出会いの場。

「計画」
 まず、無農薬に近い、米作り。それには土壌改良から。落ち葉拾いを継続。
 野菜を多品種つくりたい。
 果実のなる木の栽培。なるべく日持ちのいい果実が理想。
 葡萄も考慮中。できればワインをつくれれば最高。
 海釣りにも挑戦したい。誰かに習って。
 TVを見る時間を最小限にして、瞑想をする時間に当てたい。
 そのためには、増築を考え中。

活性酸素除去→林檎
 ゆえに、林檎の木を植樹しよう。

絶望における訓練

2007-08-15 16:30:24 | 人生の訓練



絶望における訓練
 
 キリスト者の生涯には、苦悩、落胆、暗黒などに直面する時期がある。
 また、失望、苦しみの瞬間がある。
 生と死を天秤にかける瞬間がある。
 そして、私たちには、その天秤を自分の好む方に傾ける力も知恵もない。
 私たちは、努力することも、戦うことも、逃げることもできない。
 ただ、神に向かって叫ぶ他ないのである。

 苦境に陥った瞬間に、即座に誰に助けを求めるべきかを知らない人は、全く無力である。
 しかし、たといどんなに痛ましい経験をしても、主の耳は私たちの祈りを聞き取れないほど鈍くはなく、主の手は私たちを救いえないほど短くはないということを知っている人は、実に幸いである。

 私たちは、都合のよい晴天の日だけよき羊飼いに従う信者で、緑の野、憩いの汀で鋭気を養っている。
 ところが、闇が深まり、危険が身に及ぶにつれ、「どうして主は、こうなる前に助けてくださらないのだろうか、主は私のことなどお構いにならないのだろう」と訝りはじめる。

 詩篇の記者は、絶望における訓練に先立つ疑いにおける訓練を、直接経験によって身につけていた。
「私は、悩みの日に主を訪ね求め、・・・私は神を思うとき、嘆き悲しみ、わが魂は衰える。・・・主は永久にわれらを捨てられるであろうか、その慈しみは永久に絶え、その約束は世々永く廃れるであろうか」と。

 スコットランドのジョウジ・マゼランの言葉
 わが魂よ、あなたのひれ伏す場所を拒んではならない。
 そこは、王衣を纏うための更衣室である。
 古の偉人たちに、その繁栄の糸口はどこにあったか問うてみよ。
 彼らは、それは、かつて私がひれ伏した冷たい地にありました、と言うであろう。
 
 ダビデに問うてみよ、その多くの歌が暗い夜の経験から生まれたことを告げるであろう。

 危険、暗黒、敗北、死が私たちの目の前に迫って来るとき、全能者に向かって絶望の叫びをあげるなら、光と安全、勝利と命への救出の冠がもたらされる。
 この絶望における訓練を受けることにより、私たちは力強い救い主を知るようになる。

量子暗号、全く理解できず。

2007-08-15 15:46:44 | 徒然、ふと思う



量子暗号

2007年8月15日の新聞の記事
 盗聴が不可能になるとして注目されている「量子暗号」の開発を進めているNTT先端技術総合研究所の都倉康弘量子光物性研究部長らのチームが、光ファイバーを使った実験で、世界最遠となる200㌔先に暗号の鍵を送信することに成功した。

 なんと、現代は科学が進歩していることだろう。
 量子暗号をウィキぺディア辞典で検索してみると下記のとおり。
 数学的にも理解できない。
 数学的素養が大学院程度は少なくともないと理解できない。
 ルベック積分で躓いた私では、全く理解できない。
 現代科学に疎外感を強く感じる。
量子暗号とは、通常は量子状態の特性によって、通信路上の盗聴者を検出できることを利用した新しい鍵配送システムである、量子鍵配送のことを指す。 盗聴された情報量を双方向通信で見積もり、その結果に応じて鍵を圧縮することにより、安全性な秘密鍵を共有できる。 しかるのちに情報理論的に安全なワンタイムパッドを用いて暗号通信をする。
このシステムは情報理論的に安全であることが厳密に、かつ現実のシステムのさまざまな不完全性を 考慮した上で証明されている。したがって、計算量的安全性しかもたないシステムより強固であるといえよう。 量子鍵配送の安全性は、直感的には不確定性原理と複製不可能原理に基づいて説明されることが多いが、 実際の安全性の証明はそれらを用いるわけではない。
具体的なプロトコルとしては、量子鍵配送としては初めて提案された、BB84プロトコルが有名である。 これはWiesnerの先駆的な研究により1970年代に発見されていたが、後にC. BennettとG. Brassard によって 再発見されたものである。現在にいたるまで、実装されている量子鍵配送のほとんどはBB84であり、安全性の 理論的研究もBB84に集中している。
提案された当初は現実性がないとしてあまり大きな注目をあつめることがなかったが、現在は 最大で200キロメートル超の光ファイバーで伝送実験に成功している。さらに劇的に通信距離を伸ばすには、 衛星を用いたシステムか、または量子もつれを用いた量子中継などといった手法を 導入する必要があると思われる。 ともかくも、現在のところ量子情報の技術の中で実用化の可能性があるものは、 この量子鍵配送だけである。
なお、量子コンピュータが実現された場合に、RSA暗号などの計算量的安全性に基づく公開鍵暗号は安全では無くなってしまうため、量子コンピュータでも解読不能な公開鍵暗号方式の研究・提案がなされている。その中で、量子コンピュータを用いて実現できる暗号方式を「量子公開鍵暗号」ということがある。 例えばOTU暗号 (岡本・田中・内山暗号) はナップサック問題といわれるNP完全問題に基づいており、鍵を生成する際離散対数問題を解くために量子コンピュータを用いる.
量子状態
量子状態とは、量子論で記述される系(量子系)がとる状態のことである。
量子系の物理量は、全く同じように系を準備しても測定をする度に値が異なる。 このことは物理量が定まっている古典系とは明らかに異なる。 量子系において定まっているのは物理量ではなく、物理量の分布を表す確率分布である。 系の準備の仕方が同じであれば、どのような物理量であっても、測定値の確率分布は一定である。 すべての物理量の測定値が一定の確率分布をもつような仕方で系が準備されているとき、その系はある量子状態にあるという。
純粋状態
系が自然界で許される最大限の範囲にわたって指定されている量子状態を、純粋状態という。 純粋状態は、あるヒルベルト空間 の元 のうち、

を満たすもので記述される。ただし、 と は同じ純粋状態を表す。 このような を状態ベクトルという。

混合状態
純粋状態でない量子状態が混合状態である。混合状態は、あるヒルベルト空間 上の演算子ρのうち
• ρはエルミート演算子
• 任意の に対し、
• tr(ρ) = 1
を満たすもので表される。このようなρを密度行列または密度演算子という。

ヒルベルト空間とは、完備な内積空間、すなわち、内積の定義されたベクトル空間であって、その内積から導かれるノルム によって距離を入れるとき、距離空間として完備となるような位相ベクトル空間のことである。一般に、ノルムに関して完備なベクトル空間のことをバナッハ空間といい、内積から導かれるノルムを持つバナッハ空間のことをヒルベルト空間という。ヒルベルト空間について、シュワルツの不等式、三角不等式、中線定理という三つの不等式が成り立つ。
ヒルベルト空間は、関数解析学において中心的な役割を果たしており、また、物理学、特に量子力学の数学的基礎づけに深く関連している。量子力学における状態あるいは固有関数はヒルベルト空間上の正規化されたベクトルであるといえる。

数学において距離空間 M が完備であるとは、距離空間 M におけるいかなるコーシー列も M 内の点に収束することである。またこの空間のことを完備距離空間(complete metric space)と呼ぶ。

解析学におけるコーシー列は、数列などの列で、十分先のほうで殆ど値が変化しなくなるものをいう。基本列、正則列、自己漸近列などとも呼ばれる。実数論において最も基本となる重要な概念の一つである。

バナッハ空間はノルム空間であって、そのノルムが定める距離が完備であるようなもののことである。1922年に、バナッハとウィーナーの二人がそれぞれ独立に論じた。ルベーグ積分、微分多様体と共に、20世紀解析学の基礎となる理論で、偏微分方程式や変分法の研究に不可欠のものとなっている。
ヒルベルト空間は内積から導かれるノルムに関してバナッハ空間となっている

ワンタイムパッド (one time pad, OTP) とは、乱数鍵を1回だけ使う暗号の運用法である。1回限り暗号、めくり暗号とも呼ばれ、情報理論の考案者であるクロード・シャノンが解読不可能であることを数学的に証明した

情報理論は、情報・通信を数学的に論じる学問である。応用数学の中でもデータの定量化に関する分野であり、可能な限り多くのデータを媒体に格納したり通信路で送ったりすることを目的としている。情報エントロピーとして知られるデータの尺度は、データの格納や通信に必要とされる平均ビット数で表現される。例えば、日々の天気が3ビットのエントロピーで表されるなら、十分な日数の観測を経て、日々の天気を表現するには「平均で」約3ビット/日(各ビットの値は 0 か 1)と言うことができる。
情報理論の基本的な応用としては、ZIP形式(可逆圧縮)、MP3(非可逆圧縮)、DSL(伝送路符号化)などがある。この分野は、数学、統計学、計算機科学、物理学、神経生物学、電子工学などの交差する学際領域でもある。その影響は、ボイジャー計画の深宇宙探査の成功、CDの発明、携帯電話の実現、インターネットの開発、言語学や人間の知覚の研究、ブラックホールの理解など様々な事象に及んでいる。

量子もつれとは、複合系がそれを構成する個々の部分系の量子状態の積として表せないような状態にあるときに、非局所的な相関が現れる現象のことをいう。このときの複合系の状態をエンタングル状態という。量子もつれは、量子絡み合い(りょうしからみあい)、量子エンタングルメントまたは単にエンタングルメントとも呼ばれる。

量子コンピュータ は、量子力学的な重ねあわせを用いて並列性を実現する次世代のコンピュータ。2007年現在実用化には至っていない。量子計算機とも言う。
RSA暗号とは、桁数が大きい合成数の素因数分解問題が困難であることを安全性の根拠とした公開鍵暗号の一つである。 暗号(Cipher)とデジタル署名(Digital signature)を実現できる方式として最初に公開されたものである。

NP完全問題は、クラスNP (Non-deterministic Polynomial) に属する問題でかつ、クラスNPのすべての問題から多項式時間帰着可能な問題である。すなわち、NPに属する問題のうちでNP困難なものである。クラスNPに含まれる問題で、あるNP完全問題から多項式時間還元可能なものも、またNP完全である。現在発見されているNP完全問題の多くがこの定理によって充足可能性問題より導かれたものである。充足可能性問題がNP完全であることは1971年、スティーブン・クックによって証明された。

困難における訓練

2007-08-14 14:48:39 | 人生の訓練






困難における訓練
生涯をかけた事業を達成するためには、どうしても乗り越えてゆかねばならない大きな困難がある。
人はこのような困難を見て、言葉もなく佇んでしまう。

モーセは、生涯の仕事に取り掛かる前に、既に年齢的にハンディキャップを持っていた。
これからが働き盛りという40歳のときに、流浪の身となり、荒野の卑しい羊飼いとして日を送ることになった。
パロの王宮からミデヤンの羊の囲いに移されて、そのために必要になった調整、そのための孤独、沈黙、外見上の無益を耐え忍んだ。
ところが80歳のとき、燃える芝のところで、自国民を救い出すための指導者として召された。
理性をもっては、彼は「私は一体、何者でしょう。私がパロのところへ行って、イスラエルの人々を導き出すのでしょうか」と言って、この召しに反対することができた。
この御しにくい無教育な人々を国民に組織し、約束の地に至るまで指導する人物として、誰が無名の老人の登場を望むだろうか。
ところが、モーセの人間的なハンディキャップにかかわらず、神は望まれた。
 
 ここに、困難における訓練がある。
 勝利を得るのは、不屈な心を持つ者だけだ。
 恐れを知らない者だけが、頭が痛み、視力が衰えているにも関わらず、「他の人こそ私よりも大きな困難に直面している」と言うことができる。
 その水準に達していない人は、自分を取り巻く病気、悲哀、沈黙などに呑み込まれてしまう。「失楽園」のジョン・ミルトン、「ペルーの征服」のウィリアム・プレスコットがそうだ。

 すなわち、自分の限界やハンディキャップを自覚し、しかも、なお立ち上がって不可能を乗り越えていくことだ。
 落胆や困難に自分を任せることは敗北を意味する。
 どのような困難にも打ち負かされることのない魂こそ、神が用いて下さるのである。

遅延における訓練

2007-08-14 14:47:29 | 人生の訓練






遅延における訓練
 
 神が失望をもたらされるとき、それには理由があり、神が物事を遅らせなさるときも、神が拒絶されることを意味するのではない。
 遅延は人の希望を無残にも破壊してしまうものであるが、主イエスに仕えようとする者にとっては、またとない良い訓練となる。
 
 現代は実にめまぐるしく、落ち着きがなく、人々は短気になっている。
 何をするにも、そのための準備の時間は少なく、御言葉を黙想し、神を礼拝する時間はさらに少ない。

 遅延における訓練は、神の民の生涯にはっきりと認められる。
 アブラハムは約束の子が与えられるまで長く待ち、ヨセフはエジプトで何年も酷い仕打ちを受けた。
 ダビデにとっても、神の約束の成就の遅延は、あまりにも長すぎ、これ以上耐えられないのではないかとさえ思われた。
 しかし、長年の間、民を治めうる立派な王として立つためには、これは欠くことのできない訓練だったのである。これは、神が用いようとされる器を磨き上げるためのものである。

 遅延は、人を教え、準備するためのものであるなら、時間の節約であって浪費ではない。
 人はこういう訓練を経てこそ、心を燃やしつつ、確かな足取りで進むことができる。

 あなたも遅延における訓練を受けているだろうか。
 活躍するために静まり、強められるために弱くなり、語るために黙し、健やかになるために病み、よい機会に恵まれるためになかなか方向が示されない、というような訓練を受けているだろうか。
 遅延という暗闇の試練を通じて、聖徒の忍耐を学びなさい。

 神のよしとされる時に、神のよしとされる方法で、あなたもダビデが得たような地位を得、パウロのような奉仕の場を与えられるであろう。
 遅延はあなたの真の奉仕に力を添え、その足取りを速めてくれるのである。

喜びについての訓練

2007-08-14 14:46:10 | 人生の訓練




喜びについての訓練
 
 ある人々は人生における、ありとあらゆる良いものに恵まれているのに、私たちはその反対であるように思われる。
 彼らには豊かな資産があり、金銭、衣料、自動車、友人、安楽、教育など全て望みどおりにすることができるのに、私たちはどうかと言えば、全く何の蓄えもなく、汗水垂らしてこつこつ働いて、その日その日を送っている。

 本当の喜びについての訓練を受けることにより、高ぶりは低くされ、霊は喜びに満たされ、溢れる心はさらに豊かな美しいものとされ、物惜しみする心は矯正される。
 自惚れや詭弁を好む心は美しい心に変えられて、「私たちのこうした力は、神からきている」と言うことができる。

 モーセの生涯は、この喜びについての訓練の優れた実例である。
 彼は人々が望むようなものを全て得ていたにもかかわらず、神から与えられた価値ある仕事のために、全てを捨てた。
 推さない時から美しい容貌を備えていたモーセは、当然そのことについて誇ることもできた。

 「見かけの価値」と「真の価値」とはしばしば対照される。
 そのことは、商品について、あるいは人間の性質についてよく論じられる。
 ある人は美しい容姿を鼻にかけるため、魂に皺を寄せ、ついには醜い心の持ち主になってしまう。
 本当に美しい顔は、美しい心のあるところにある。
 ところが、心は顔と似ても似つかぬ醜悪なものであるのに、それにふさわしくない権力を振り回す人がよくある。
 
 しかし、モーセは他の「美しい人」とは異なり、卑しめられることに甘んじ、最も心の低い者と称されるほど謙遜な人物となった。

 学問についても同じことが言える。
 多くの人々は、僅かな業績にも大変得意になり、威張り散らすという愚を重ねる。
 そういう人々は、自分を実力以上に高く評価する。
 平易な言葉を用いず、学識のあるところを見せようとして、覚えたての難しい言葉を使う。
 その態度は、自分より無学な人々に対する優越感を意識した謙遜という形で特徴づけられている。
 しかし、パウロは、神の深い奥義を知る者であったが、優れた言葉を用いず、巧みな知恵の言葉にもよらなかった。

 モーセはまた、その業績のゆえに高ぶることもなかった。
 ところが、大きな業績を見て自ら満足し、あたかもそれが労役者たちの汗なしになされたものであるかのような錯覚を起こし、ついには正気を失う人がいる。
 彼らは気短になり、何事においても忍耐がなくなってしまう。
 ところが、モーセはそうではなかった。
 彼は、何に満足し、何を喜び、誇るかについて訓練を受けていたので、「その人となり柔和なこと、地上のすべての人に勝っていた」

 容姿や学問、階層や職業、その他の様々なものが、私たちの持ち物の誇りになる危険性を持っている。
 こうした中にあって、私たちはただ、徹底的な訓練を受けることによって、神のため、また隣人のために、大いに役立つ人間になることができる。
 
 他人を幸福にしようと心を砕くとき、私たちは、自分の生来の才能や特技などを誇らなくなる。
 私たちは他人に手を貸そうとして、自分を忘れる。
 そして他の人々は、私たちの人柄や地位ではなく、私たちの心に住まわれるキリストを認めるのである。

 こうして私たちは、他人のために苦しみを受けることを、自分の本当の喜びとすることになる。
 人間的には人気がなくても、神に喜ばれる仕事に没頭する。
 神の民とともに立つために、自分の権利を捨てることになる。
 モーセが「パロの娘の子」という肩書きを捨てたように、この世における肩書きを、取るに足らないものと見做し、ただひたすら、「神の子」として知られるように努力する。

 神の子たちに与えられている務めは、罪の儚い歓楽よりもはるかに大切なものであり、自分の知識や能力に頼らず、「見えない方を見ているようにして、忍びとおす」ようになる。

不平不満を制する訓練

2007-08-07 11:41:53 | 人生の訓練



不平不満を制する訓練

 イスラエルの民には、毎日毎日、すべての人に十分にゆきわたる様に、マナが与えられた。
 感謝の心を持つ空腹の人々にとって、その味は蜜を入れた煎餅のようであった。
 ところが、不満を抱くようになると、彼らは軽蔑して「今、我々は精魂尽きた。我々の目の前には、このマナのほか何もない」と言うのである。

 神の御言葉は、それを私たちが喜ぶなら蜜となり、そうでないなら油菓子となる。
 御言葉がなければ、どんなに弱く惨めに感じるであろう。
 御言葉があれば、私たちはどんなに逞しく、また強いだろうか。
「主は乾いた魂を満ちたら足らせ、飢えた魂を良きもので満たされるからである」詩篇107.9

 不満というものは、私たちの生まれながらの性向であるかもしれないが、満足は私たちキリスト者生活における主要な特徴となりうる。
 パウロはこう証することができた。
「私は乏しいから、こう言うのではない。私はどんな境遇にあっても、足ることを学んだ。私は貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。私は飽く事にも飢える事にも、富む事にも乏しい事にも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。私を強くしてくださる、キリストによって、何事でもすることができる。」ピリピ4.11-13
パウロは、いよいよ地上の生活に別れを告げようとするとき、
 「ただ衣食があれば、それで足れリとすべきである」第一テモテ6.8と言うことができた。

 不平不満を制する訓練とは、つぶやく心、心を蝕む批判、神の怒りを引き起こす不満に背を向けて、感謝し、薬のように良いことをする楽しい心を持ち、全能者の御心を喜ばせまつる信仰と賛美を捧げることである。それは自分の持っているもので満足することである。
 主は、「私は、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。
 だから、私たちは、「主は私の助け主である。私には恐れはない」と言おう。

病気による訓練

2007-08-07 11:40:45 | 人生の訓練




病気による訓練


 土の塵から造られた、か弱い私たち人間は、ありとあらゆる恐れや肉の弱気に晒され易い。
 その中でも無視できないのは病気である。
 私たちははちきれそうな健康体を与えられてはいても、それを素晴らしいこととも思わず、それを与えてくださった方に感謝しようともしない。
 いざ、病床に臥すようになって、落胆し、歌は溜息になり、昼は寂しく夜は長くなり、力が衰え、涙が溢れてくるとき、私たちは病気による訓練を経験する。
 この訓練の難関は恐らく、執拗な肉体的苦痛や、衰弱のための疲労にあるのではなく、むしろ、絶えず私たちを悩ます次のような疑問にあると思われる。
「なぜ、私はこんな病気に罹ったのか、私に何か落度があったのか、それでこんな苦しみに遭うのか、この苦しみは私の罪の結果なのか、私は神の寵愛を失ってしまったのだろうか」
 
 私たちの病気は、自分自身の罪の結果であるかも知れない。
 しかし、必ずしも私たちの罪の結果であるとは限らない。
 病気の原因についての不公正な非キリスト者的な判断は、親と子に対してなされる場合、特に残酷である。
 たとえば、子どもが肉体的にあるいは知能的に何かの障害を持っていると、近所の人たちは、顔を見合わせて目配せし、陰で密かに推測する。
 「あの子があんなふうなのは、何か理由があるからだ。きっと何か外聞を憚るような家庭の秘密があるに違いない」と。

 それにしても、病気になったために他人から心無い批判を受ける。
 この病気による訓練は、何と深刻なものであろうか。
 そうではなくて、ある病気は「ただ神の御業が、彼の上に現れるためである」と言う主イエスの御言葉を信じるのは、何と幸いなことであろうか。
 主は、その盲人を憐れみ、その両親に関して厳しい質問をするようなことはせず、盲人を癒された。
 私たちが主イエスのような態度をとることを学ぶとき、何という心の癒しがもたらされることだろう。

 病気が私たち自身の罪や不注意によることもあるが、必ずしもそうであるとは限らない。
 それは神の御業が現れるためばかりでなく、神の栄光のためでさえあるかもしれない。

 主はご自身のすべての民を愛しておられる。
 主は愛する者たちを懲らしめ、ご自分の息子や娘たちを鞭打つことさえされる。
 しかし、その鞭は、私たちに対する神の最後通牒ではない。
 なぜなら、「すべての訓練は、当座は喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし、後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばれるようになる」からである。

 もし、病気が自分自身の罪の結果であるなら、その罪を心から悔い改め、自分の道、自分の日々を、神に委ねなければならない。
 病気の原因が何であっても、私たちは、その苦しみも弱さも、生きるにも死ぬにも、神の栄光が現されるためになりうるということを信じなければならない。

 病気は確かに厳しい訓練である。
 その苦しみの下にある者だけが、その訓練の深さを知ることができる。
 病気による弱さと空しさ、倦怠と苦痛、涙と試みは、私たちを深い憂鬱の中に投げ込むこともできれば、
 「私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全に現れる」第二コリンと12.9 という主イエスの御言葉に励まされることもある。
 私たちは、パウロと同じように、喜んで自分の弱さを誇ることを学ぶことができる。

行動指針

2007-08-07 10:01:40 | 独立運動



 070807
 行動方針
 陰徳を積む+現在を最善で生きる。
 ◎人生で一番大切なこと
  死の床の汀に思うことが、人生で一番大切なことではないか。
  自分の人生に意味があったか、
  幸福であったか、
  その根底にあるものは、結局、心が満足していることではないか。
  心が本当に満足することは、人を愛すること。
  愛がなければ、たとい、財産があっても、権力があっても空しい人生であるはずだ。
  したがって、いかに人に対して、自分なりに捧げることだと思う。
  人に知られることなく、他人のためにすることは素晴らしいと思う。
  ゆえに、今日からできる範囲で人のためになることをしよう。

  また、未来も過去も、結局、現在に収斂する。
  今、この時を、最善で生きよう。
  丁寧に、100点満点になるように生きよう。
  それしか、しようがないし、それができれば充足感を感じることができるはず。