◆昭和36年を皮切りに、次々と運命学書を入手、日夜研究に励んだパール・やまぐちの占術歴!
私が運命占術に関心を持ったキッカケは、昭和36年に神戸にいたときで、三宮か元町の古書店で運命学書と出会ったことによる。それは『姓名の真理』(永杜鷹堂著)と、『天命判定術』(玄明由長著)いう本であるが、新しい世界に踏み入れたようで貪り読んだものである。
『姓名の真理』は、哲学的側面から運命論を説いていたが、私のような素人にも理解できるものであった。内容は、易学・相学・推命術、姓名学の四部から構成されており、中でも四柱推命編では変通星と12運星の出し方と受気干星(月律分野蔵干表)で蔵干星を出す命式の作成手順がとても分かり易く書かれてあり、日干毎に便利な早繰り表などが載っていたので夢中になったが、残念なことに、肝心の干支暦が載っていないことと、変通星や12運、吉凶神殺、五行の相剋等については省略されており、これらを知るためには、著者の主宰する運命塾の「連山塾」に入門するしかないのであった。地方に於いては入門はムリなので、命式を作成するための暦だけでも欲しいと思い、古書店に足を運んでようやく干支暦を入手できた。ところが命式を作成できても変通星や12運などをがどんな意味を持ち、どういう運命なのかを解読するする必要がある。そのために、休日の度に古書店巡りをしていた。
昭和37年頃のことであるが、高木乗氏の命理学「四柱推命術」を入手。別に入手した干支暦と照らし合わせてみると、沢山載せている命式例の多くに誤字誤植が散見され、間違いも何カ所も見つかった。おまけに四柱蔵干は採用しない主義のようで取り上げてなく、大運についても私をはじめ、家族や友人・知人の今までの半生とは適合せず、ついていけなかった。
また、以前より欲しくて仕方のなかった『阿部泰山全集』も、思い切って大枚をはたき購入したが、『天文紫微運命学』も四柱推命術も日夜研究してはみたが、当時の私には難解でマスターするまでにはいかず、途中でやめてしまった。
その後、推理小説作家の高木彬光氏の『占い人生論』を見つけ、面白くて一気に読んだ。その最終章には、高木彬光氏の弟子の東大生が、出雲又太郎氏の四柱推命術の書を数日でマスターしたことと、高木氏の鑑定結果が掲載されていたので興味が湧き、早速、古書店を廻って出雲又太郎著の「四柱推命術」を購入して取り組んだが、小さい活字で詳細にビッシリと説かれていて参考にはなったが、高木乗氏の書と同様に、宿命論的四柱推命術の感を受け、ちょっと抵抗感もあった。いくら東大生と言えども、出雲又太郎氏著のこの推命術を数日でマスター出来たとはちょっと考えにくい。しかも、誤字誤植も散見され、また巻末の干支暦に何箇所も間違いがあった。他にも2,3冊の四柱推命術の本を購入してみたが、どうも四柱推命の著者たちは、わざと難解に書いているように思われてならなかった。
最初に四柱推命に出会ったのが、永杜鷹堂氏の著書で大変に分かり易かっただけに、尚更、他の著書の推命書にはついていけなかった。が、或る日、ふと立ち寄った書店で、加藤大岳著の『奥秘伝書・四柱推命術』に出会って、内容が分かり易く専ら勉学に励んだ。それがキッカケとなり、加藤大岳氏の著した『推命秘解』や、『易学大講座』全八巻をはじめ、易関連の書を次々と買い漁ったものである。
鴨書店や香草社を通じて、熊崎健翁著による、推命書や姓名判断書、易書、佐藤六龍氏の一連の運命学書など、いろいろな著者による書籍を購入していった。
興味を持った占術には、佐藤六龍氏の『四柱推命術活用秘儀』『四柱推命術極秘伝』『秘解・測字占法』『干支秘法』『奇門命理』『四柱推命術』や、佐藤文栞著『紫微斗数推命術』『干支六壬占法』、西村・松下共著『奇門遁甲推命術』、大熊光山著『五行易口訣』、それに、書名は覚えていないが古書の『天源陶宮術』、原田向陽著『数理計算式・音解姓名判断講義(全3巻)』、『張耀文口述・奇門命理』、伊藤美秀著『指紋の神秘』富田著『気学傾斜看法』など片っ端から購入して研究に励んだ。
大変興味深い姓名判断の書があった。高橋三郎著『名前のつけ方』という書で、中でも、姓名の画数を四柱推命術に応用した『三元姓名術』で、姓名の天格・地格・人格・総画を四柱推命術の蔵干表に当て、変通星や12運に応用した独特の占法を編み出したものである。
面白くて、よく当たるので夢中で研究したものである。
著者は今は亡く、出版元もとうに消えてしまっているので、生年との関連を加えて、新たに作り直して世に問いたい気持ちで構想を練っている。
尚、私の好きな書の一冊に西川満著『人間の星』があるが、これは算命術の書で興味深く読んだ。巻末に数十ページに亘る星の早繰表があるが、何のことはない、四柱推命術の60干支が元になっており、天冲殺を出すために数十ページもの早繰表をつけなくても、2ページの干支暦と空亡表で十分である。
干支暦は、四柱推命術の書には大抵、数十ページに亘り掲載してあるが、或る推命書では100年分の干支暦を僅か2ページで纏めてあり、月干支や節入り日、それに1日干支も書き添えてあるので、これで事足りるのだ。只、巷間出回っている若手の書いた算命術の入門書よりも、西川満著の書籍の方が数段、風格が高く参考になる。
昭和39年には、西洋占星術にも興味を持ち、門馬寛明氏や十菱星斗氏の著書をキッカケとして、独学。その後、潮島郁幸著による新刊『最新占星術』が発刊されることを知り予約して取り寄せ、氏の主宰する会にも入会して、潮島郁幸氏より直々に3度お手紙もいただいた。
後に、植田氏の『現代占星学』も取り寄せた。
その後、武田玄考氏の『命理学』(四柱推命術)を知るところとなり、理解しにくいところは武田氏に何度も手紙を出し、懇切丁寧な返事を幾度もいただいたり、また、昭和45年頃だったと思うが、朝田啓郷著『推命学の革新』も発刊直後に取り寄せ、これもまた、朝田氏の主宰する「推命」の機関紙の購読もした。
そう言えば、初代の宇佐見斎氏の丁寧なお手紙をいただいたし、数霊の金子彰生氏、破壊数の書で著名な田上晃彩氏ともお手紙で何度もご教示いただいた。夫々お亡くなりになられたが、これらの書信は、私にとっては大事な宝である。
余談であるが、運命占術の独学と共に、昭和40年頃であったか、雑誌で早稲田式速記通信教育の広告を見て興味を持ち入会。当時、ダンプの運転手をしていたが、運転席の横に講座を置き、仕事の合間に手にとっては、速記文字を覚えたり、夜は速記文字の書き取りなどの習得に励んだ。途中で止めてしまったが、基本文字の書き取りはすぐ飽きがきて、専ら、高度な省略法を覚えることに徹した。その甲斐あって、後年、タウン情報誌 「ディスカバー広島」の編集長に迎えられた時、取材で役に立ったし、産経新聞に就職して10有余年に亘る取材活動にも大いに速記が役立ったものだ。
さて、今でも悔やまれるのは、昭和36年に神戸の古書店で買った2冊がセットになっている和装の紫薇斗数術の専門書であるが、ある日、親戚の伯父に見つかり「お前がこんな専門書を読むのは10年早い!」と、伯父に取り上げられてしまったのである。が、此の伯父は熊崎健翁の推命術や姓名判断を研究しておられたので、私から取り上げた紫薇斗数術の専門書がすっかり気に入ったようで、時々、家に遊びに行くと、この書を開いてビッシリと書込みされていたので驚いたものである。
私自身は、阿部泰山氏の天文紫薇学よりもこちらの紫薇斗数術の専門書を気にいっていただけに残念な思いが今でも残っている。
推命に関して云えば、中村文聡氏の『推命判断秘法』が好きだ。唯、同氏の『気学精義』は平易な文章で書かれているが、同会法はほとんど当たっていなかった。また、『葦氏推命学講義』も気に入っている。
昭和42年に佐藤六竜著の『開運の占い方』という占いの入門書が出たが、中をみて驚いた。なんと、昭和36年に神戸の古書店で買った『天命判定術』を佐藤氏流にアレンジしたのが載っていたのである。これは、生年月日を元に星を出し、その三つの星の組み合わせで個人の特質を知り活用する占術であるが、『天命判定術』のような専門的なものでなく、あくまでも平易に書かれた入門程度のものである。
そう言えば、私の気に入っている運命書に、河村真光著の『密教占星法実践』と同じく『密教占星法応用』がある。これは、今、流行の宿曜27宿占星術のことであるが、宿曜占星術をマスターするのであれば、この2冊は是非とも目を通すことである。
以上、沢山ある蔵書の内から、幾つかの運命占術書を採り上げたが、過去、出版された運命占術の専門書や最近のものまで含めて、ほとんどは購入した。此の40有余年の間に運命占術の書籍代に費やした金額は半端なものではなく、相当な額になる。高級外車が一台買えるぐらいで、運命占術関連の書籍は、広島では私のところが蔵書数では一番であろうと自負している。
ところで、町工場の砥石製造工員から始まって、鉄工所の旋盤工見習い、あられ製造の菓子工場、印刷工場、建材会社ではダンプの運転手、カラオケ(ジュークボックス)の営業社員、事務機器の一発販売のセールスマン、舶来時計の営業マン、学研の百科事典の職域営業マン、ブリタニカ百科事典のセールスマン、経営者向けの雑誌販売員等、事務機器の営業所長、また、共同出資の事務機器の役員等々、数々の転職(20以上!)を経て、昭和49年には広告関連の会社に就職。
それも、編集の経験が皆無の私に、初出社早々に新設された『ディスカバー広島』の編集長を拝命し、驚天動地したものだったが、スタッフ6名を与えられ、暗中模索の末に創刊号の月刊誌が出来上がった。フリーペーパーのタウン紙『ディスカバー広島ステーション』をはじめ、7紙も発行することになり、カメラマンを伴っての観光地の取材や、レコード会社の支店や営業所、映画の封切り館との交渉と、広島に来る歌手やタレント、映画スターなどの取材などで飛び回る毎日。充実していた日々であった。
初っ端から編集長権限で、本誌をはじめ、姉妹紙全部に占いのページを設け、通信鑑定にも応じていたが、毎夜遅くまで編集長室に閉じ籠もり、原稿の作成や依頼された通信鑑定の作成に取り組んだが、あまりの激務に体を壊し、治療のため退職せざるを得なかった。
が、当時は、タウン誌の草創期で、姉妹紙などは活字よりも手書きのほうが味があるということで、人気も出て、広島テレビからも出演依頼がきたが、体調を崩していたので、断った。結局、私が退職したため、原稿を書ける者がいなくなり、コピーライターを雇うこともなく廃刊したのだった。
尚、ペンネームのパール・やまぐちのパールは、ドイツの指揮者のパウル・マイゼン氏を取材したことからパウルをもらい、パールとしたものである。一般的には“パール・やまぐち”を使っているが、現在、中国新聞社のタウン紙であるフリーペーパーの週刊『Cue』の占いコーナーでは、“パウルやまぐち”としている。
その後、回復して職探しが始まるのであるが、昭和49年のこと。幸いにも産経新聞が9楷建のサンケイビルが完成したのを期に、中途採用募集があり、ダメ元で応募したのであるが、タウン誌の編集長であったことや、速記が出来ること、それにあまりにも多くの転職でいろいろな経験をしていることなどが幸いし、多くの応募者を押しのけて採用されたのでる。
10有余年在籍し、中四国・九州と幅広く取材や営業に飛び回り、最後は支局員七名を抱える支局長にまでなれた。在籍中に取材した人物は一万人を超え、中には親交を結んだ人物も何人もいる。
在籍中には、陶芸家や書家、画家、華道・茶道家の企画や特集を立案。また、省庁の局長や地方の公安調査庁、警察署長、各大学の理事長や学長、中国地方に散在する酒造会社や農協、特定郵便局長、大手企業の支店長や営業所長、国会・県会議員、政治結社・右翼団体、宗教教団のトップ等々、沢山の特集を組み飛び回ったが、その特集の一つに占い師や霊能・霊媒師も企画。
中・四国・九州と広範囲に取材したが、ほとんどの占い師や霊能者には失望したものである。取材の過程で多くの占い師に鑑定してもらったが、あまり当たることはなく、占術のレベルも低かった。しかも、見料は高く呆れることもしばしばであった。
福岡では、内画法を発案して著書も出しているK氏にも会ったが、あまり感心しない言動に失望したが、大半の占い師のレベルが低いことには驚いた。
ところが昭和56年、大學の特集を企画し、理事長や学長、名誉教授たちを取材。その中に、広島大學歯学部の松島竜太郎名誉教授を取材して驚いた。何と、運命占術や秘術・秘伝・秘儀を長年に亘り研究されており、しかも、生まれ変わりや霊界・死後の世界、宇宙の真理などに造詣が深く、興味深いお話を承ったのである。
教授の波長に合ったようで、すっかり気に入られ、以後、取材の合間をみては教授の部屋やご自宅にお邪魔することになり、改めて運命占術の教えを受けたり、秘術・秘伝・秘儀を教導していただくことができた。
これらの秘術や秘伝・秘儀を会得するためには、物欲・金銭欲・色欲があってはダメで、一大決心をし、自分の死後、遺体を広島大学白菊会に献体の手続きを済ました後、物欲、金銭欲を断ちきり、幾度もの断食や滝行などの厳しい修行の末に遂に会得することが出来、また、10年程前には色欲も捨て去った。
現在、自営業の傍ら、全国各地から寄せられる運命鑑定や前世探査に応じているが、昭和36年に神戸にいなかったら、運命学に興味を持つことはなかったであろうし、松島竜太郎名誉教授とお会いすることもなかったであろう。
今日までの私の人生の歩みは、松島竜太郎名誉教授からいただいた運命鑑定書に書かれている運命の通りに歩んでいるし、私自身が作成した鑑定書でもほぼ同様で、何時、人生の幕を閉じるかも判っている。
私が運命占術に関心を持ったキッカケは、昭和36年に神戸にいたときで、三宮か元町の古書店で運命学書と出会ったことによる。それは『姓名の真理』(永杜鷹堂著)と、『天命判定術』(玄明由長著)いう本であるが、新しい世界に踏み入れたようで貪り読んだものである。
『姓名の真理』は、哲学的側面から運命論を説いていたが、私のような素人にも理解できるものであった。内容は、易学・相学・推命術、姓名学の四部から構成されており、中でも四柱推命編では変通星と12運星の出し方と受気干星(月律分野蔵干表)で蔵干星を出す命式の作成手順がとても分かり易く書かれてあり、日干毎に便利な早繰り表などが載っていたので夢中になったが、残念なことに、肝心の干支暦が載っていないことと、変通星や12運、吉凶神殺、五行の相剋等については省略されており、これらを知るためには、著者の主宰する運命塾の「連山塾」に入門するしかないのであった。地方に於いては入門はムリなので、命式を作成するための暦だけでも欲しいと思い、古書店に足を運んでようやく干支暦を入手できた。ところが命式を作成できても変通星や12運などをがどんな意味を持ち、どういう運命なのかを解読するする必要がある。そのために、休日の度に古書店巡りをしていた。
昭和37年頃のことであるが、高木乗氏の命理学「四柱推命術」を入手。別に入手した干支暦と照らし合わせてみると、沢山載せている命式例の多くに誤字誤植が散見され、間違いも何カ所も見つかった。おまけに四柱蔵干は採用しない主義のようで取り上げてなく、大運についても私をはじめ、家族や友人・知人の今までの半生とは適合せず、ついていけなかった。
また、以前より欲しくて仕方のなかった『阿部泰山全集』も、思い切って大枚をはたき購入したが、『天文紫微運命学』も四柱推命術も日夜研究してはみたが、当時の私には難解でマスターするまでにはいかず、途中でやめてしまった。
その後、推理小説作家の高木彬光氏の『占い人生論』を見つけ、面白くて一気に読んだ。その最終章には、高木彬光氏の弟子の東大生が、出雲又太郎氏の四柱推命術の書を数日でマスターしたことと、高木氏の鑑定結果が掲載されていたので興味が湧き、早速、古書店を廻って出雲又太郎著の「四柱推命術」を購入して取り組んだが、小さい活字で詳細にビッシリと説かれていて参考にはなったが、高木乗氏の書と同様に、宿命論的四柱推命術の感を受け、ちょっと抵抗感もあった。いくら東大生と言えども、出雲又太郎氏著のこの推命術を数日でマスター出来たとはちょっと考えにくい。しかも、誤字誤植も散見され、また巻末の干支暦に何箇所も間違いがあった。他にも2,3冊の四柱推命術の本を購入してみたが、どうも四柱推命の著者たちは、わざと難解に書いているように思われてならなかった。
最初に四柱推命に出会ったのが、永杜鷹堂氏の著書で大変に分かり易かっただけに、尚更、他の著書の推命書にはついていけなかった。が、或る日、ふと立ち寄った書店で、加藤大岳著の『奥秘伝書・四柱推命術』に出会って、内容が分かり易く専ら勉学に励んだ。それがキッカケとなり、加藤大岳氏の著した『推命秘解』や、『易学大講座』全八巻をはじめ、易関連の書を次々と買い漁ったものである。
鴨書店や香草社を通じて、熊崎健翁著による、推命書や姓名判断書、易書、佐藤六龍氏の一連の運命学書など、いろいろな著者による書籍を購入していった。
興味を持った占術には、佐藤六龍氏の『四柱推命術活用秘儀』『四柱推命術極秘伝』『秘解・測字占法』『干支秘法』『奇門命理』『四柱推命術』や、佐藤文栞著『紫微斗数推命術』『干支六壬占法』、西村・松下共著『奇門遁甲推命術』、大熊光山著『五行易口訣』、それに、書名は覚えていないが古書の『天源陶宮術』、原田向陽著『数理計算式・音解姓名判断講義(全3巻)』、『張耀文口述・奇門命理』、伊藤美秀著『指紋の神秘』富田著『気学傾斜看法』など片っ端から購入して研究に励んだ。
大変興味深い姓名判断の書があった。高橋三郎著『名前のつけ方』という書で、中でも、姓名の画数を四柱推命術に応用した『三元姓名術』で、姓名の天格・地格・人格・総画を四柱推命術の蔵干表に当て、変通星や12運に応用した独特の占法を編み出したものである。
面白くて、よく当たるので夢中で研究したものである。
著者は今は亡く、出版元もとうに消えてしまっているので、生年との関連を加えて、新たに作り直して世に問いたい気持ちで構想を練っている。
尚、私の好きな書の一冊に西川満著『人間の星』があるが、これは算命術の書で興味深く読んだ。巻末に数十ページに亘る星の早繰表があるが、何のことはない、四柱推命術の60干支が元になっており、天冲殺を出すために数十ページもの早繰表をつけなくても、2ページの干支暦と空亡表で十分である。
干支暦は、四柱推命術の書には大抵、数十ページに亘り掲載してあるが、或る推命書では100年分の干支暦を僅か2ページで纏めてあり、月干支や節入り日、それに1日干支も書き添えてあるので、これで事足りるのだ。只、巷間出回っている若手の書いた算命術の入門書よりも、西川満著の書籍の方が数段、風格が高く参考になる。
昭和39年には、西洋占星術にも興味を持ち、門馬寛明氏や十菱星斗氏の著書をキッカケとして、独学。その後、潮島郁幸著による新刊『最新占星術』が発刊されることを知り予約して取り寄せ、氏の主宰する会にも入会して、潮島郁幸氏より直々に3度お手紙もいただいた。
後に、植田氏の『現代占星学』も取り寄せた。
その後、武田玄考氏の『命理学』(四柱推命術)を知るところとなり、理解しにくいところは武田氏に何度も手紙を出し、懇切丁寧な返事を幾度もいただいたり、また、昭和45年頃だったと思うが、朝田啓郷著『推命学の革新』も発刊直後に取り寄せ、これもまた、朝田氏の主宰する「推命」の機関紙の購読もした。
そう言えば、初代の宇佐見斎氏の丁寧なお手紙をいただいたし、数霊の金子彰生氏、破壊数の書で著名な田上晃彩氏ともお手紙で何度もご教示いただいた。夫々お亡くなりになられたが、これらの書信は、私にとっては大事な宝である。
余談であるが、運命占術の独学と共に、昭和40年頃であったか、雑誌で早稲田式速記通信教育の広告を見て興味を持ち入会。当時、ダンプの運転手をしていたが、運転席の横に講座を置き、仕事の合間に手にとっては、速記文字を覚えたり、夜は速記文字の書き取りなどの習得に励んだ。途中で止めてしまったが、基本文字の書き取りはすぐ飽きがきて、専ら、高度な省略法を覚えることに徹した。その甲斐あって、後年、タウン情報誌 「ディスカバー広島」の編集長に迎えられた時、取材で役に立ったし、産経新聞に就職して10有余年に亘る取材活動にも大いに速記が役立ったものだ。
さて、今でも悔やまれるのは、昭和36年に神戸の古書店で買った2冊がセットになっている和装の紫薇斗数術の専門書であるが、ある日、親戚の伯父に見つかり「お前がこんな専門書を読むのは10年早い!」と、伯父に取り上げられてしまったのである。が、此の伯父は熊崎健翁の推命術や姓名判断を研究しておられたので、私から取り上げた紫薇斗数術の専門書がすっかり気に入ったようで、時々、家に遊びに行くと、この書を開いてビッシリと書込みされていたので驚いたものである。
私自身は、阿部泰山氏の天文紫薇学よりもこちらの紫薇斗数術の専門書を気にいっていただけに残念な思いが今でも残っている。
推命に関して云えば、中村文聡氏の『推命判断秘法』が好きだ。唯、同氏の『気学精義』は平易な文章で書かれているが、同会法はほとんど当たっていなかった。また、『葦氏推命学講義』も気に入っている。
昭和42年に佐藤六竜著の『開運の占い方』という占いの入門書が出たが、中をみて驚いた。なんと、昭和36年に神戸の古書店で買った『天命判定術』を佐藤氏流にアレンジしたのが載っていたのである。これは、生年月日を元に星を出し、その三つの星の組み合わせで個人の特質を知り活用する占術であるが、『天命判定術』のような専門的なものでなく、あくまでも平易に書かれた入門程度のものである。
そう言えば、私の気に入っている運命書に、河村真光著の『密教占星法実践』と同じく『密教占星法応用』がある。これは、今、流行の宿曜27宿占星術のことであるが、宿曜占星術をマスターするのであれば、この2冊は是非とも目を通すことである。
以上、沢山ある蔵書の内から、幾つかの運命占術書を採り上げたが、過去、出版された運命占術の専門書や最近のものまで含めて、ほとんどは購入した。此の40有余年の間に運命占術の書籍代に費やした金額は半端なものではなく、相当な額になる。高級外車が一台買えるぐらいで、運命占術関連の書籍は、広島では私のところが蔵書数では一番であろうと自負している。
ところで、町工場の砥石製造工員から始まって、鉄工所の旋盤工見習い、あられ製造の菓子工場、印刷工場、建材会社ではダンプの運転手、カラオケ(ジュークボックス)の営業社員、事務機器の一発販売のセールスマン、舶来時計の営業マン、学研の百科事典の職域営業マン、ブリタニカ百科事典のセールスマン、経営者向けの雑誌販売員等、事務機器の営業所長、また、共同出資の事務機器の役員等々、数々の転職(20以上!)を経て、昭和49年には広告関連の会社に就職。
それも、編集の経験が皆無の私に、初出社早々に新設された『ディスカバー広島』の編集長を拝命し、驚天動地したものだったが、スタッフ6名を与えられ、暗中模索の末に創刊号の月刊誌が出来上がった。フリーペーパーのタウン紙『ディスカバー広島ステーション』をはじめ、7紙も発行することになり、カメラマンを伴っての観光地の取材や、レコード会社の支店や営業所、映画の封切り館との交渉と、広島に来る歌手やタレント、映画スターなどの取材などで飛び回る毎日。充実していた日々であった。
初っ端から編集長権限で、本誌をはじめ、姉妹紙全部に占いのページを設け、通信鑑定にも応じていたが、毎夜遅くまで編集長室に閉じ籠もり、原稿の作成や依頼された通信鑑定の作成に取り組んだが、あまりの激務に体を壊し、治療のため退職せざるを得なかった。
が、当時は、タウン誌の草創期で、姉妹紙などは活字よりも手書きのほうが味があるということで、人気も出て、広島テレビからも出演依頼がきたが、体調を崩していたので、断った。結局、私が退職したため、原稿を書ける者がいなくなり、コピーライターを雇うこともなく廃刊したのだった。
尚、ペンネームのパール・やまぐちのパールは、ドイツの指揮者のパウル・マイゼン氏を取材したことからパウルをもらい、パールとしたものである。一般的には“パール・やまぐち”を使っているが、現在、中国新聞社のタウン紙であるフリーペーパーの週刊『Cue』の占いコーナーでは、“パウルやまぐち”としている。
その後、回復して職探しが始まるのであるが、昭和49年のこと。幸いにも産経新聞が9楷建のサンケイビルが完成したのを期に、中途採用募集があり、ダメ元で応募したのであるが、タウン誌の編集長であったことや、速記が出来ること、それにあまりにも多くの転職でいろいろな経験をしていることなどが幸いし、多くの応募者を押しのけて採用されたのでる。
10有余年在籍し、中四国・九州と幅広く取材や営業に飛び回り、最後は支局員七名を抱える支局長にまでなれた。在籍中に取材した人物は一万人を超え、中には親交を結んだ人物も何人もいる。
在籍中には、陶芸家や書家、画家、華道・茶道家の企画や特集を立案。また、省庁の局長や地方の公安調査庁、警察署長、各大学の理事長や学長、中国地方に散在する酒造会社や農協、特定郵便局長、大手企業の支店長や営業所長、国会・県会議員、政治結社・右翼団体、宗教教団のトップ等々、沢山の特集を組み飛び回ったが、その特集の一つに占い師や霊能・霊媒師も企画。
中・四国・九州と広範囲に取材したが、ほとんどの占い師や霊能者には失望したものである。取材の過程で多くの占い師に鑑定してもらったが、あまり当たることはなく、占術のレベルも低かった。しかも、見料は高く呆れることもしばしばであった。
福岡では、内画法を発案して著書も出しているK氏にも会ったが、あまり感心しない言動に失望したが、大半の占い師のレベルが低いことには驚いた。
ところが昭和56年、大學の特集を企画し、理事長や学長、名誉教授たちを取材。その中に、広島大學歯学部の松島竜太郎名誉教授を取材して驚いた。何と、運命占術や秘術・秘伝・秘儀を長年に亘り研究されており、しかも、生まれ変わりや霊界・死後の世界、宇宙の真理などに造詣が深く、興味深いお話を承ったのである。
教授の波長に合ったようで、すっかり気に入られ、以後、取材の合間をみては教授の部屋やご自宅にお邪魔することになり、改めて運命占術の教えを受けたり、秘術・秘伝・秘儀を教導していただくことができた。
これらの秘術や秘伝・秘儀を会得するためには、物欲・金銭欲・色欲があってはダメで、一大決心をし、自分の死後、遺体を広島大学白菊会に献体の手続きを済ました後、物欲、金銭欲を断ちきり、幾度もの断食や滝行などの厳しい修行の末に遂に会得することが出来、また、10年程前には色欲も捨て去った。
現在、自営業の傍ら、全国各地から寄せられる運命鑑定や前世探査に応じているが、昭和36年に神戸にいなかったら、運命学に興味を持つことはなかったであろうし、松島竜太郎名誉教授とお会いすることもなかったであろう。
今日までの私の人生の歩みは、松島竜太郎名誉教授からいただいた運命鑑定書に書かれている運命の通りに歩んでいるし、私自身が作成した鑑定書でもほぼ同様で、何時、人生の幕を閉じるかも判っている。