設立から5年半、毎月顧問先3社純増をキープし続けている税理士事務所があります。
その名は、税理士法人アクティブイノベーション。
代表社員の大井敏生氏は、早稲田大学法学部→野村證券という一見絵に描いたようなエリートコースを歩んできたように見えます。
しかし、その生き様には様々な苦難とコンプレックスを乗り越えてきた軌跡がありました。その人物像に切り込んだのが以下のインタビューです。
◆顧客獲得のための“情報発信”と“差別化”。0.1%でも確率を上げるための努力が重要なんです
東京・麹町にオフィスを構える、アクティブイノベーショングループ。
弁護士法人、司法書士法人、税理士法人、社会保険労務士法人、行政書士法人がワンフロアに集まり、質の高いワンストップサービスを提供している。その税理士法人の代表を務めるのが、大井敏生氏である。写真をご覧いただいてもわかる通り、はつらつとした笑顔が似合う、ダンディな43歳だ。
大井氏は早稲田大学法学部を卒業し、証券業界でもトップの営業力を誇る野村證券営業部に入社。
その後税理士として独立し、今や優秀な女性スタッフを率いて170社の顧問先を抱える会計事務所の代表。そんな経歴や現在の状況を見る限り、華やかで順風満帆なエリートコースのようにも思える。しかしその柔和な表情の陰には、何度も挫折し、苦汁をなめた経験の数々が隠されていた。
◆小学生時代、米国での2年間で英語コンプレックスに
大井氏は、大阪府豊中市で生まれた。3歳の時、IBM勤務だった父の仕事の関係で東京へ移り住む。さらに小学5~6年生の2年間は、米国サンフランシスコへ。
「一歳年下の妹は英語がペラペラになったのに、私は英語はできないままでした。父から〞お前は男なんだから、母や妹を守ってやれ〟と言われたことが頭にあって、現地の人たちと打ち解けられなかったせいもあります。結局〞英語が話せない帰国子女〟になってしまったんです」
しかしその英語コンプレックスは、その後の成長の起爆剤になっていく。
高校受験では猛勉強し、都内の有名私立校を総なめ。そして早稲田大学高等学院へ入学。高校時代はボート部に所属し、ひたすら筋力トレーニングに明け暮れる苛酷な日々を送った。
「大学入学後は、その反動がきました。昼は港湾地区で日雇いの肉体労働をやり、日当でもらった一万円を固く握り締めてディスコへ通い詰めましたね(笑)」
◆自分の根性を叩き直すために野村證券に入社
やがて就職活動に突入。まわりの学生が広告代理店やマスコミなどの華やかな業界を目指す中、大井氏はあえて野村證券を志望した。
「〞野村で3年働けば、どこでも通用する〟という言葉を聞いて、決意したんです。大学時代にフラついた自分の根性を叩き直そうと。だから就職活動は、野村一本です」
見事入社を果たした大井氏は、仕事漬けの日々を送った。
「新入社員時代は、会社の寮暮らしでした。顧客にしたい企業の社長に会う約束を取り付けるために、巻き紙に筆ペンで長文の手紙を書いたり、早朝、社長の自宅前で張り込んだり。休日は遊ぶ気になれず、土日も働きました」
そんな中、大井氏の顔つきが変わっていった。
「君の目は株をやる目だ、と言われました。証券業者の目ってあるんです。大学時代の友人からは〞人格が変わった〟と言われました。今でも、たまに〞顔は笑っていても目が笑ってないね〟と言われることがありますが、それは野村のせいなんです(笑)」
入社4年目の時、そんな大井氏のアイデンティティを根底から揺るがす出来事が起こる。それが、野村證券の損失補てん事件だった。
◆裏切られ、騙された日々 そして税理士の道へ
「突然、もう営業はしなくていいよ、と言われました。一生勤めたいとまで思っていた大好きな会社なのに、それまでやってきたイケイケドンドンの営業を、自ら否定したんです。あと5年間は何も変わらないのではと感じ、その時間がもったいなくて、野村證券を辞めようと決心しました。
それは勘違いで、後から考えればその判断は大ハズレだったんですけどね(笑)。今でも野村證券は大好きですし、他の証券会社とは別格の素晴らしい会社だと思っています」
この時、大井氏27歳。転職する気はなかった。自分で会社を始めたいと、まず立ち上げたのがコンサルティング会社の日本エフピーサービス株式会社だった。しかしコンサルとは名ばかりで、実際は保険の販売などで収入を得る日々だった。収入も不安定で、何の将来の保証もない。
「こんな仕事を続けていては疲れて死ぬ」。本気でそう思った。
「野村を辞めて一人で社会に出た時に遭遇したのは、それまで付き合っていたのとはまったく人種の異なる人たちばかり。金銭的な裏切りにも遭いましたし、騙す人にもたくさん出会いました。少なくとも野村の社内にはそういう人はいませんでしたから、野村證券という大きな組織の中で守られていたことを痛感しました。
私の今の人格が形成されたのは、間違いなく野村證券を辞めた後のこの4年間です。その間に、否が応でも人間を見る目や経営の判断力が磨かれたんです」
友人からの視線も冷たかった。〞へえ、野村やめたんだ?〟。その言葉の裏には、明らかに〞一体これからどうするの?〟という憐れみがあった。
「悔しかったですね。だからこそ、〞野村にいた時よりも絶対に成功して、幸せな人生にしてやる〟と思った。そのために何をすればいいかを考えて、コツコツとやってきただけです」
そこで大井氏は、自らを守るための鎧を求めた。すなわち「国家資格」である。どんな資格なら自分に適しているか、どこの業界なら食っていけるかを徹底的に考えぬき、その結果たどり着いた答えが税理士業界だったのである。
「当時の税理士業界は規制があって、宣伝・営業活動が一切禁止。ならば税理士業界の人たちは競争力が弱いはず。ここだ!と思いました。ここなら、自分の営業力を活かして戦っていけると」
税理士資格を取得したのは、平成9年。さらに都内の会計事務所と税理士法人で約3年ずつ経験を積んだ。当時の給料はわずか18万円。
「皆さんは今の私を見て〞成功したね〟と言ってくれるかもしれません。結果がこうなったからよいものの、実は紆余曲折と挫折の人生だったんです」
◆他事務所との差別化の積み重ねが顧客を引き寄せる
そんな苦労の末、平成15年についに独立しアセットマネジメントを設立。当時、会計事務所としてカタカナ名をつけたケースはどこにもなく、業界に衝撃を与えた。そして平成17年に税理士法人アクティブイノベーションと改名し、現在に至っている。
アセットマネジメント設立時の顧問先はわずか2件。そこから「開業3年以内に顧問契約100件」という高いハードルを自らに課し、それを見事やり遂げた。
「よく〞野村證券で培った営業力を活かして顧問先を増やしてきたんでしょう〟と言われますが、こちらから営業をかけたことは本当にありません。なぜだかわからないけれど電話が入り、お会いした際に、顧問先を増やしたい旨こちらの姿勢を伝えておくと、後日〞ぜひ大井さんの事務所にお願いしたい〟と連絡が来る。もちろん、考えが合わなかったりして、顧問先を失くすこともあります。でも、私のことをよいと思ってくれる、新しい人を探せばよいと考えています」
それでも現在まで5年半、毎月3社の顧問先純増という順調なペースをキープ。現在の顧問先は約170社。140億円を超える規模の企業もあるが、最も多いのは3~8億円規模。一部の大企業の顧問料に依存するような体制にはなっておらず、バランスが保たれている。
「顧問先を増やすために大切なことは、〞情報発信〟と〞差別化〟です。情報発信とは、WEBサイトやメールマガジンを使って「大井はここにいますよ!」と発信し続けること。差別化とは、どんな些細なことでも、他の事務所がやっていないことを実行することです。
例えば、電話を受けたらまず〞お電話ありがとうございます〟と応える。来客が帰る時は一階まで降りて見送る。別れ際に〞頑張りましょう!〟と肩をたたく。そういったことをうれしく感じてくれるんです。お客様は、自分たちのどこを気に入ってくれるかわかりません。だからこそ、やれることは何でもやってみる必要があるんです。結局は確率論。顧問先になってくれる確率が0.1%あったら、それを0.2%に上げるために何をすればよいかを考えることが重要なんです」
今後も、事務所をさらに大きくしたいと考えている大井氏。そのために最も重要視しているのは、優れた人材の確保だ。
「事務所の価値は、そこにいる『人』で決まりますから。人材確保の競争に勝つには、できるだけ多く人を採用する必要がある。開業当初の目黒のオフィスには、募集をかけてもまったく人が集まらなかった。だから、どうしても人が来やすい場所に移転しなければならなかったんです。テナント契約期間の終了を待たず、違約金を払ってまで目黒を出て、麹町に移ったのはそのためです」
◆事務所を無限大に大きく!そのためにNO.2となる人物が欲しい
大井氏の事務所は、08年10月現在、所員14名。なんと、そのすべてが女性だというから驚かされる。まだまだ男性が多い税理士業界、男性がトップの事務所としては極めて珍しい。
「実際、女性所員の処理能力が圧倒的に高いからです。男性も何人か雇ってきたんですが、彼女たちと同等以上の能力を持った人はなかなかいないので、もう男性をとるのは諦めました。結婚して退職していく女性所員もいますが、その後子育てが一段落すると、再び戻ってきて仕事をする人もいるんです。週3日でもいいし、15時や16時に帰っていいよ、と言っています。新人を一から教育するより、そのほうが断然助かりますからね」
能力のある女性が結婚後も継続して働ける、そんな環境が整っているのも他の事務所にはない魅力だろう。
「さらに事務所を大きくしていくためには、私の右腕、左腕になれる人材、つまりNO.2となれる人物が必要。実は探し始めて一年半ほど経つんですが、いまだに良い人が見つかっていません。それが目下の悩みですね。NO.2となれる人物が来てくれれば、もっと所員を増やして、いまの会計事務所を無限大に大きくできると思っています。税理士としての王道を行き、〞あそこはいいね〟と他の事務所からも言われる事務所を作りたいですね」
数々の試練をくぐり抜けてきたからこそ磨かれた、人を見抜く鋭い観察眼と洞察力。その一方で、所員への視線は、まるで家族を見守る父親のように温かい。穏やかな笑顔の下には、確かな自信に裏打ちされた〞人間力〟が感じられた。
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その名は、税理士法人アクティブイノベーション。
代表社員の大井敏生氏は、早稲田大学法学部→野村證券という一見絵に描いたようなエリートコースを歩んできたように見えます。
しかし、その生き様には様々な苦難とコンプレックスを乗り越えてきた軌跡がありました。その人物像に切り込んだのが以下のインタビューです。
◆顧客獲得のための“情報発信”と“差別化”。0.1%でも確率を上げるための努力が重要なんです
東京・麹町にオフィスを構える、アクティブイノベーショングループ。
弁護士法人、司法書士法人、税理士法人、社会保険労務士法人、行政書士法人がワンフロアに集まり、質の高いワンストップサービスを提供している。その税理士法人の代表を務めるのが、大井敏生氏である。写真をご覧いただいてもわかる通り、はつらつとした笑顔が似合う、ダンディな43歳だ。
大井氏は早稲田大学法学部を卒業し、証券業界でもトップの営業力を誇る野村證券営業部に入社。
その後税理士として独立し、今や優秀な女性スタッフを率いて170社の顧問先を抱える会計事務所の代表。そんな経歴や現在の状況を見る限り、華やかで順風満帆なエリートコースのようにも思える。しかしその柔和な表情の陰には、何度も挫折し、苦汁をなめた経験の数々が隠されていた。
◆小学生時代、米国での2年間で英語コンプレックスに
大井氏は、大阪府豊中市で生まれた。3歳の時、IBM勤務だった父の仕事の関係で東京へ移り住む。さらに小学5~6年生の2年間は、米国サンフランシスコへ。
「一歳年下の妹は英語がペラペラになったのに、私は英語はできないままでした。父から〞お前は男なんだから、母や妹を守ってやれ〟と言われたことが頭にあって、現地の人たちと打ち解けられなかったせいもあります。結局〞英語が話せない帰国子女〟になってしまったんです」
しかしその英語コンプレックスは、その後の成長の起爆剤になっていく。
高校受験では猛勉強し、都内の有名私立校を総なめ。そして早稲田大学高等学院へ入学。高校時代はボート部に所属し、ひたすら筋力トレーニングに明け暮れる苛酷な日々を送った。
「大学入学後は、その反動がきました。昼は港湾地区で日雇いの肉体労働をやり、日当でもらった一万円を固く握り締めてディスコへ通い詰めましたね(笑)」
◆自分の根性を叩き直すために野村證券に入社
やがて就職活動に突入。まわりの学生が広告代理店やマスコミなどの華やかな業界を目指す中、大井氏はあえて野村證券を志望した。
「〞野村で3年働けば、どこでも通用する〟という言葉を聞いて、決意したんです。大学時代にフラついた自分の根性を叩き直そうと。だから就職活動は、野村一本です」
見事入社を果たした大井氏は、仕事漬けの日々を送った。
「新入社員時代は、会社の寮暮らしでした。顧客にしたい企業の社長に会う約束を取り付けるために、巻き紙に筆ペンで長文の手紙を書いたり、早朝、社長の自宅前で張り込んだり。休日は遊ぶ気になれず、土日も働きました」
そんな中、大井氏の顔つきが変わっていった。
「君の目は株をやる目だ、と言われました。証券業者の目ってあるんです。大学時代の友人からは〞人格が変わった〟と言われました。今でも、たまに〞顔は笑っていても目が笑ってないね〟と言われることがありますが、それは野村のせいなんです(笑)」
入社4年目の時、そんな大井氏のアイデンティティを根底から揺るがす出来事が起こる。それが、野村證券の損失補てん事件だった。
◆裏切られ、騙された日々 そして税理士の道へ
「突然、もう営業はしなくていいよ、と言われました。一生勤めたいとまで思っていた大好きな会社なのに、それまでやってきたイケイケドンドンの営業を、自ら否定したんです。あと5年間は何も変わらないのではと感じ、その時間がもったいなくて、野村證券を辞めようと決心しました。
それは勘違いで、後から考えればその判断は大ハズレだったんですけどね(笑)。今でも野村證券は大好きですし、他の証券会社とは別格の素晴らしい会社だと思っています」
この時、大井氏27歳。転職する気はなかった。自分で会社を始めたいと、まず立ち上げたのがコンサルティング会社の日本エフピーサービス株式会社だった。しかしコンサルとは名ばかりで、実際は保険の販売などで収入を得る日々だった。収入も不安定で、何の将来の保証もない。
「こんな仕事を続けていては疲れて死ぬ」。本気でそう思った。
「野村を辞めて一人で社会に出た時に遭遇したのは、それまで付き合っていたのとはまったく人種の異なる人たちばかり。金銭的な裏切りにも遭いましたし、騙す人にもたくさん出会いました。少なくとも野村の社内にはそういう人はいませんでしたから、野村證券という大きな組織の中で守られていたことを痛感しました。
私の今の人格が形成されたのは、間違いなく野村證券を辞めた後のこの4年間です。その間に、否が応でも人間を見る目や経営の判断力が磨かれたんです」
友人からの視線も冷たかった。〞へえ、野村やめたんだ?〟。その言葉の裏には、明らかに〞一体これからどうするの?〟という憐れみがあった。
「悔しかったですね。だからこそ、〞野村にいた時よりも絶対に成功して、幸せな人生にしてやる〟と思った。そのために何をすればいいかを考えて、コツコツとやってきただけです」
そこで大井氏は、自らを守るための鎧を求めた。すなわち「国家資格」である。どんな資格なら自分に適しているか、どこの業界なら食っていけるかを徹底的に考えぬき、その結果たどり着いた答えが税理士業界だったのである。
「当時の税理士業界は規制があって、宣伝・営業活動が一切禁止。ならば税理士業界の人たちは競争力が弱いはず。ここだ!と思いました。ここなら、自分の営業力を活かして戦っていけると」
税理士資格を取得したのは、平成9年。さらに都内の会計事務所と税理士法人で約3年ずつ経験を積んだ。当時の給料はわずか18万円。
「皆さんは今の私を見て〞成功したね〟と言ってくれるかもしれません。結果がこうなったからよいものの、実は紆余曲折と挫折の人生だったんです」
◆他事務所との差別化の積み重ねが顧客を引き寄せる
そんな苦労の末、平成15年についに独立しアセットマネジメントを設立。当時、会計事務所としてカタカナ名をつけたケースはどこにもなく、業界に衝撃を与えた。そして平成17年に税理士法人アクティブイノベーションと改名し、現在に至っている。
アセットマネジメント設立時の顧問先はわずか2件。そこから「開業3年以内に顧問契約100件」という高いハードルを自らに課し、それを見事やり遂げた。
「よく〞野村證券で培った営業力を活かして顧問先を増やしてきたんでしょう〟と言われますが、こちらから営業をかけたことは本当にありません。なぜだかわからないけれど電話が入り、お会いした際に、顧問先を増やしたい旨こちらの姿勢を伝えておくと、後日〞ぜひ大井さんの事務所にお願いしたい〟と連絡が来る。もちろん、考えが合わなかったりして、顧問先を失くすこともあります。でも、私のことをよいと思ってくれる、新しい人を探せばよいと考えています」
それでも現在まで5年半、毎月3社の顧問先純増という順調なペースをキープ。現在の顧問先は約170社。140億円を超える規模の企業もあるが、最も多いのは3~8億円規模。一部の大企業の顧問料に依存するような体制にはなっておらず、バランスが保たれている。
「顧問先を増やすために大切なことは、〞情報発信〟と〞差別化〟です。情報発信とは、WEBサイトやメールマガジンを使って「大井はここにいますよ!」と発信し続けること。差別化とは、どんな些細なことでも、他の事務所がやっていないことを実行することです。
例えば、電話を受けたらまず〞お電話ありがとうございます〟と応える。来客が帰る時は一階まで降りて見送る。別れ際に〞頑張りましょう!〟と肩をたたく。そういったことをうれしく感じてくれるんです。お客様は、自分たちのどこを気に入ってくれるかわかりません。だからこそ、やれることは何でもやってみる必要があるんです。結局は確率論。顧問先になってくれる確率が0.1%あったら、それを0.2%に上げるために何をすればよいかを考えることが重要なんです」
今後も、事務所をさらに大きくしたいと考えている大井氏。そのために最も重要視しているのは、優れた人材の確保だ。
「事務所の価値は、そこにいる『人』で決まりますから。人材確保の競争に勝つには、できるだけ多く人を採用する必要がある。開業当初の目黒のオフィスには、募集をかけてもまったく人が集まらなかった。だから、どうしても人が来やすい場所に移転しなければならなかったんです。テナント契約期間の終了を待たず、違約金を払ってまで目黒を出て、麹町に移ったのはそのためです」
◆事務所を無限大に大きく!そのためにNO.2となる人物が欲しい
大井氏の事務所は、08年10月現在、所員14名。なんと、そのすべてが女性だというから驚かされる。まだまだ男性が多い税理士業界、男性がトップの事務所としては極めて珍しい。
「実際、女性所員の処理能力が圧倒的に高いからです。男性も何人か雇ってきたんですが、彼女たちと同等以上の能力を持った人はなかなかいないので、もう男性をとるのは諦めました。結婚して退職していく女性所員もいますが、その後子育てが一段落すると、再び戻ってきて仕事をする人もいるんです。週3日でもいいし、15時や16時に帰っていいよ、と言っています。新人を一から教育するより、そのほうが断然助かりますからね」
能力のある女性が結婚後も継続して働ける、そんな環境が整っているのも他の事務所にはない魅力だろう。
「さらに事務所を大きくしていくためには、私の右腕、左腕になれる人材、つまりNO.2となれる人物が必要。実は探し始めて一年半ほど経つんですが、いまだに良い人が見つかっていません。それが目下の悩みですね。NO.2となれる人物が来てくれれば、もっと所員を増やして、いまの会計事務所を無限大に大きくできると思っています。税理士としての王道を行き、〞あそこはいいね〟と他の事務所からも言われる事務所を作りたいですね」
数々の試練をくぐり抜けてきたからこそ磨かれた、人を見抜く鋭い観察眼と洞察力。その一方で、所員への視線は、まるで家族を見守る父親のように温かい。穏やかな笑顔の下には、確かな自信に裏打ちされた〞人間力〟が感じられた。
◇あなたにぴったりの税理士を無料で御紹介致します