今回はバスケットボールとは関係のないことを書いていきたいと思う。
日本時間の2月8日に行われたNFLスーパーボウルで、バッカニアーズのクオーターバックであるトム・ブレイディが前人未到の7度目の優勝を成し遂げた。この優勝によりブレイディは、NFL史上最高の選手という地位を盤石のものにした。
この記事は2018年5月10日に"Bleacher Report"のMike Chiari記者が、当時ニューイングランド・ペイトリオッツに在籍していたブレイディと、シアトル・マリナーズに在籍していたイチロー選手について書いたものである。
その記事を和訳した。
ニューイングランド・ペイトリオッツのクオーターバックであるトム・ブレイディは世界で最も有名で認知されているアスリートの1人であるが、未来の殿堂入り外野手であるイチロー・スズキは、5度のスーパーボウルチャンピオンのことを知らなかった。
“The Athletic”によって書かれた記事で、Peter Gammonsが2017年の春季キャンプでイチローがトム・ブレイディから受け取ったメッセージを共有した。
イチローは、自らのストレッチ療法を勉強させてくれと頼んだ男性がNFLの史上最高の選手の1人だとは分からず、「Who the f*** is Tom Brady?(トム・ブレイディって一体誰?)」と言った。
ブレイディは13度のオールスター選出を誇り、引退後には疑いようもなく殿堂入りする3度のNFL最優秀選手である。
イチローは10度のオールスター、10度のゴールドグラブ賞、2度の首位打者、1度のアメリカンリーグMVPに輝いた歴代屈指の選手である。
イチローはMLB通算3,089本のヒットを打ち、日本通算1,278本と合わせると、彼は野球史上最もヒットを打った選手である。
一方ブレイディは、未だに第一線で活躍しMVPシーズンを送っている。イチローは先週、活躍の場をシアトル・マリナーズのフロントオフィスに移したばかりで、44歳のイチローのキャリアは結論に至る可能性がある。
イチロー選手は、自分のパフォーマンスに影響を与えるかもしれないという理由で新聞やニュースのスポーツ欄を見ないという話を聞いたことがある。
このエピソードはイチロー選手やNFLのファンであれば有名であるかもしれないが、最高のパフォーマンスを発揮するためにできることは何でもするイチロー選手の徹底ぶりが垣間見えて面白いと思ったので、共有させてもらった。
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引用元:
今回は記事の和訳です。
ゲイリー・ペイトン
MJについて君達に伝えたい話がある。
確か1年目のプレシーズンでブルズと対戦したときだと思う。だから1990年かな。ブルズと対戦したが、マイケルジョーダンのブルズではなかった、どういう意味か分かるか?ブルズが最初の3連覇を達成する前だったんだ。彼らは88年、89年と立て続けにプレイオフでピストンズにやられていた。
僕はドラフトで2位指名を受け、プレシーズンに臨んだ。マイケルジョーダンが一体誰かなんて少しも気にしなかった。僕にとっては「なるほど、彼は良いね…でもそれほどでもない。」という感じだった。
MJはその試合のほとんどをベンチで過ごした。僕は、ただのプレシーズンでMJがハードにするわけがないということを理解していなかった。だからB.J.アームストロングが僕についた。僕は彼から19得点をあげた。僕はルーキーだったから、B.Jにボロクソに言った。それからブルズのベンチに向かって走り、MJのことをボロクソに言ったんだ。ベンチを見下ろしたよ。良い気分だった。
数週間後、レギュラーシーズンに入って、ホームのシアトルで初めてブルズと対戦することになった。ずっと待ち望んでいた、待っていたんだ。準備はできていた。もちろん、みんなブルズがどんなチームなのか、マイケルがどんな風に街に来るのか話していた。僕は「大丈夫だ。俺はブルズから19得点取ったんだ。MJをやっつけることができると知っている。問題ない。」という感じだった。
それから試合が始まる前に集まり、みんなで握手をした。
MJは僕とは握手をしなかった。
彼はB.J.に振り向き「このくそったれなルーキーは俺に任せろ」と言っていたし、みんな聞いていたよ。
くそ、わかったよ。僕はそう思った。クソが、かかってこいよ。
試合は進んでいった。僕はマイケルをマークしていた、そしてフィル・ジャクソンが5、6回連続でプレーを指示し始めた。マイケルのためのプレーを指示していた。そしてマイケルは5、6回連続で得点した。マイケルは別次元にいて、自分もそこに巻き込まれたと分かった。
ものの数分で、僕はファウルトラブルに陥った。K.C.は僕をベンチに下げた。それから僕はほとんどその試合に戻ることはなかった。僕は0得点に終わり、7、8分しかプレーしなかったことを覚えている。MJは結局33得点あげた。
でもそれで終わりではなかった。試合が終わりに近づいていたとき、僕はベンチに座っていて、MJが僕たちのベンチにやってきた。試合はまだ進んでいるにも関わらず僕のそばにやってきたんだ。コーチがそばに立っていた。ベンチのみんなが彼を見つめていた。
「あれがプレシーズンで話したことなのか?」
狂気じみていたんだが、彼は全く怒っていなかった。ガムをずっと噛んでいたね。
「これが現実だよ。NBAにようこそ、お坊ちゃん。」
その年ブルズは優勝した、そしてそれから5回さらに優勝することになった。
ドミニク・ウィルキンス
マイケル・ジョーダンがスーツとネクタイをつけ、私たちのロッカールームに入ってきたのを覚えている。僕たちのロッカールームで一体何をするつもりなんだ?と思った。
「しっかり靴紐を結べよ。長い夜を送ることになるぜ。」
ただロッカールームに来ただけなのか?と疑問に思った。なんといえばいいのか分からなかった。衝撃だった。
彼はその夜60得点をあげた。
フランク・ニリキナ
僕が16歳の時にMJから言われたことを伝える。
僕は「こんにちは、マイケル。質問してもいいですか、あなたの成功に必要なものはなんだったんですか?」と言った。
彼は考えて、それから「君はバスケットボールを愛する必要がある。試合を愛さない限り君は偉大にはなれない。世界中の誰よりもバスケットボールを愛していれば、君は喜んで犠牲を払うようになる。喜んで朝早く起きるようになる。最高の選手になるために必要なことをなんでもするようになる。でもまず初めに、バスケットボールを愛する必要がある。」
とてもシンプルに聞こえるが、考えれば考えるほど、僕の人生でより重要なものになっていった。多くの人は「君はどこまでよくなれるの?君の限界はどこ?」と訪ねてくる。僕にはその答えは分からない。NBAで何が起こるのか僕には分からない。でも僕は自分がどんなことよりもバスケットボールの試合を愛しているということは分かっている。
だから、彼はレジェンドなんだ。僕はこの3年間ずっと彼が言ったことを考えてきた。
助言してくれてありがとうございます、Mr. ジョーダン
Merci, GOAT.
ケンバ・ウォーカー
ジョーダンは僕に電話してきた…そしてもちろんすぐに彼の声だと気付いた(その瞬間でさえ、僕は「まじかよ、マイクだ」と考えていたのを覚えている)。本当に落ち着いていて、本当にクールだった。彼はただ「ケンバ、私たちは君を信じている。それを知っていてほしい。私たちは君を信じているし、素晴らしいことを期待しているんだ。」
なあ、僕は誇張なんかしない。MJの言葉は僕の人生を変えたんだ。
コディ・ゼラー
マイケルになんと言おうか想像していた。僕は彼に、あなたが史上最高だと伝えるだろう。僕は彼に、人生を通してずっとあなたを見てきたと伝えるだろう。14歳のコディー・ゼラーにとって、全ては夢だった。
それから彼は、「分かった。電話をリッチに渡すとするよ…」
僕は固まった。それはマイケルジョーダンを意味していた。僕は慌てて「ありがとう、Mr. ジョーダン」、あるいはもしかしたら「分かった」とだけ言ったかもしれない。覚えていないんだ。少しの間、史上最高のバスケットボール選手を相手にずっと慌てていたし、それがマイケル・ジョーダンだと分からなかったんだ。
マイケル・キッド=ギルクリスト
僕は18歳の少年で、ハイスクールバスケのユニフォームを一年ほど取り上げられていたとき、僕は地球上で史上最高のバスケットボール選手と電話で繋がっていた。
電話で繋がっていただけじゃない…彼が僕に電話してきたんだ!
マイケルジョーダン。MJ。GOATが電話…僕に?
「僕はただ君を歓迎したいんだ。」彼は言った。「そしてこの街は早く君をサポートしたくてたまらないよ。チャーロットは君を暖かく迎えるよ」
マイケル・ジョーダンは1963年2月17日に生まれ、今日58歳の誕生日を迎えました。
・6度の優勝
・ファイナルで6勝0敗
・6度のファイナルMVP(最多)
・5度のMVP
・14度のオールスター選出
・新人王
・最優秀守備選手賞
・10度の得点王
・通算得点歴代5位
・1000億円を稼いだ初のNBA選手(現役&引退後を合わせて)
...
など、彼の功績は数えきれないほどあります。
しかし、僕が思う一番の功績は「次の世代へ多大な影響を与えたこと」だと思います。
みんなジョーダンのようになりたがった。
コービー・ブライアントは、ジョーダンのすべてをコピーするという鋼の意志を持ち合わせており素晴らしいNBAキャリアを送りました。レブロン・ジェームズも、貧困を経験した幼少期にジョーダンにずっと憧れNBAを目指しました。
そんな彼らが、現在進行形でさらに次の世代へインスピレーションを与えています。
ジョーダンがいなければ、コービーやレブロンはいなかったかもしれないと考えると、彼の功績が自ずと分かってくると思います。
ブログを読んでいただきありがとうございます。
それでは失礼します。
引用元:
今回は記事の和訳です。
8年で6回のタイトルを獲得したことで、マイケル・ジョーダンとシカゴブルズはバスケットボールの歴史上、最も偉大な王朝の1つであるという地位を固めた。
しかし、ブルズのフロントオフィスがチームの一新を図る動きを何度も行ったことで、この王朝が突然終わっていたかもしれないと考えるのは興味深いことだ。1993年にマイケルジョーダンが1度目の引退をしたのは、控えめに言っても衝撃的であり、ブルズを大混乱させた。結局のところ、もしチームの代表的な選手が全盛期の最中、辞めることを決心したら一体何ができるのだろうか?実際、ブルズは王朝をほぼ確実に終わらせていたトレードを数多く実現させようとしていた。下記はそのトレードの内の5つである。
ピッペンがブルズ→サンズに移籍
ピッペンのブルズ在籍後半期では数個以上のトレードのシナリオが浮かび上がっていた。最も有名だったものは、1995年にフェニックスサンズへトレードされ、チャールズ・バークレーとコンビを組むというものだった。そのトレードでシカゴは、ゼネラルマネージャーのジェリー・クラウスが賞賛していたダン・マーリーを手にするはずだった。
この年はマイケル・ジョーダン引退から2年目の年でブルズは苦戦しており、ピッペンは公にトレードを要求していた。フェニックスはピッペンが行きたがっていた場所であり、ピッペン自身もトレード交渉を広げていた。最終的に、シカゴはピッペンをチームに残すことにした。しかし、ジョーダンがこの出来事から数ヶ月後に復帰した時に、ピッペン-バークレーのコンビに対してどのように向かっていったのか気にしないのは難しいことだ。
ジェイソン・ウィリアムズがブルズに移籍(デニス・ロッドマンの代わりに)
変人デニス・ロッドマンはブルズの2度目の3連覇を達成する上で最も重要なピースの一つであった。しかし、シカゴはピストンズのバッドボーイであった彼とはサインしないつもりであったことが分かった。
報道によると、ジェイソン・ウィリアムズはブルズの最初の選択肢であった。1995年の夏、6フィート9インチ(206cm)のビッグマンがFAに入った。しかし、ウィリアムズはジョーダンとピッペンとブルズで手を組むのではなく、ニュージャージーネッツと再契約することを選んだ。ブルズはウィル・パデューをサンアントニオスパーズに送りロッドマンを獲得した。
クライド・ドレクスラーがスーパーソニックスに移籍
これはブルズとは何の関係もないことだが、もし実現していたらチャンピオンシップレースに大きく影響していただろう。
シアトルスーパーソニックスのHCであったジョージ・カールは、1995年にクライド・ドレクスラーを獲得しかけていたことを後に明かしたのだ。シアトルにドレクスラー、ゲイリー・ペイトン、ショーン・ケンプのビッグ3が結成されていたかもしれないのだ。しかし、どういうわけかポートランドは結局ドレクスラーをヒューストンロケッツに送り、ハキーム・オラジュワンとともに1995年のNBA優勝を成し遂げたのだ。
ソニックスは翌年、ファイナルでブルズと対戦することになった。知るよしもないが、おそらくシアトルはドレクスラーを獲得したことでシカゴをぐらつかせることはできただろう。
ピッペンがスーパーソニックスに移籍
ピッペンが絡んでいた最も大きな(そして実現間近だった?)トレードは、1994年のオフシーズンでのソニックスへの移籍だろう。
ブルズはMJなしで驚くほど競争的なシーズンを送ったが、フロントオフィスはピッペンを一番重要なスーパースターであると完全には自信をもっていなかった。ブルズはショーン・ケンプ、リッキー・ピアース、そしてシアトルの94年のドラフト指名権と引き換えにピッペンをウィル・パデューとともにシアトルに送ると報道された。
ジョーダン自身がESPNのドキュメンタリー”The Last Dance”でピッペンがトレードされていたら1995年に復帰することはなかったと明かしたため、この交渉が失敗に終わったことは良いことだった。
ジョーダンがニックスへ移籍
ジョーダンをニックスに連れて行く可能性に関して、ニックスがどこまで関わっていたのか、ブルズが実際にこれを実現させるつもりだったのかどうかは完全には分からない。それにもかかわらず、この話にはいくつかの根拠がある。
4度目のチャンピオンシップを獲得した後、ジョーダンは1996年の夏にFAに入った。MJは2,500万ドルの1年契約を望んでいたのだが、ブルズはどういうわけか躊躇していたのだ。噂として、ジョーダン陣営はフロントオフィスにジョーダンはニューヨークからのオファーを熟考しており、ブルズには契約にマッチするかより良いオファーを用意するのに数時間あると伝えた。時間のプレッシャーについて話すと、ジョーダンがニックスのスーパースター、パトリック・ユーイングの良き友人であったことを考えると、ジョーダン陣営にもある程度の影響力があったのだ。
ブルズは降参し、ジョーダンと1年3,000万ドルの契約を結んだのだ(1996年に!)。もう一度、ニックスがどれだけジョーダンを引きつけていたのかは分からないままだが、もしMJがニューヨークへ移籍していたらブルズの王朝は間違いなく終わっていたことは疑いの余地がない。
ブルズ王朝が崩壊していたかもしれないトレードの噂の数々は結局実現することはなく、ブルズは8年で6度のチャンピオンシップを獲得しました。
しかし、「もしピッペンがトレードされていたら・ジョーダンがトレードされていたら・周りのライバルチームがスーパーチームを結成していたら、一体何が起きていたんだろう」と考えることは非常に面白いです。
うろ覚えですが、ジョーダンは1994年の夏にウォリアーズのトレーニング場を訪れてウォリアーズの選手たちと一緒にスクリメージをしたという話もあります。つまり、ブルズではなくウォリアーズの選手として復帰する可能性も考えられたのです。
もちろんこれらは実現することはなかったということは強調したいです。
ただ、たらればの話をすることもNBAの醍醐味の一つだと僕は思います。
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引用元:
今回は記事の和訳です。
NBAのトロント・ラプターズに所属するフレッド・ヴァンブリートは、イリノイ州ロックフォード出身でウィチタ州立大学でプレーした無名のスター選手だった。2016年のNBAドラフトで指名されなかった後、NBAの下部リーグであるDリーグ(現在はGリーグ)のラプターズ905の優勝を手助けした。それから2年後、ベンチからアウトサイドシュートを決める存在としてトロント・ラプターズの初のNBAチャンピオンシップ獲得に大きく貢献した。
2020年、ヴァンブリートはドラフト外の選手としては最高金額である4年85,000,000ドル(約9,000,000,000円)の契約をラプターズと結んだ。2021年1月6日の試合では、チーム記録となる39試合連続でスリーポイントシュートを決めた。2021年2月2日の対オーランド・マジック戦では、球団史上最高得点となる54得点を記録した。この記録は、モーゼス・マローンの53得点を上回り、ドラフト外の選手としては個人最多記録となった。
ラプターズに所属する渡邊雄太選手は、ヴァンブリートを「ドラフト外選手の希望の星。こんな選手が身近にいることに感謝です」と絶賛している。
ヴァンブリートのような選手は、多くのドラフト外選手に「自分もNBAでプレーできるかもしれない」という希望を与えている。
現在、ドラフト外からNBA本契約を狙い奮闘している渡邊選手だが、最近になってラプターズが彼と本契約を結ぶ可能性が高いと報道されている。
渡邊選手が本契約をゲットすることで、「日本人であっても、ドラフトで指名されなくても、諦めずに努力すればNBAでプレーできる」という希望を日本の若いバスケ世代に与えてくれるだろう。
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引用元:
https://fadeawayworld.net/2021/02/16/top-10-best-undrafted-nba-players-today/