
60年安保、私はいくつだったんだろう。昭和35年-11年=24歳。
1960年(昭和35)5月、日米安保条約の継続決定。以後、国会は連日「安保阻止」を叫ぶデモ隊に囲まれるが、岸首相は
「一部の国民が騒いでいるが、今日も後楽園球場は満員だ。私は国民の声なき声を信じる」 と発言。そして6月15日、全学連デモ隊が国会に突入、警官隊と衝突した。この闘争で東大生・樺美智子が圧死、未明までに 182人の逮捕者と 1000人以上の負傷者を出した。ラジオはこの模様を中継し 「すごい暴力です。法律も秩序も、何もありません。ただ憎しみのみ。これが日本の現状です」 と伝えました。
私は郷里の彦根電報電話局庶務課で資材係に席をおき新聞でよそ事のように見聞、野球の好きなことでもあり閑な時は草野球に夢中だったと思います。職場も都会から地元に帰らしていただきのんびりしていた頃で、双方そこまでやらなくてもと、よそ事の出来事位にのんびりしていたんでよう。
翌年くらいから、職場では同僚が中央(近畿)へ出て行くのを聞き、私も遅れないよう、彦根→大津→大阪 と、電車で国鉄東海道を二時間余かかり通勤しました。この時の職場の経験が将来の自分を醸成してくれたんではないかと感じます。よく大阪福島のガード下でコップ酒を飲みながらボヤイテおりました。目が覚めたら北陸敦賀まで乗り越した事も何度か、今は懐かしいです。
安保闘争以後、職場もスト・スト・スト。三十代半ばまではスト対策に仕事をしているといっても過言ではないくらい、国鉄のストによる通勤確保対策からはじまり、我が職場の人員確保・後処理と、この時代は本来の仕事はあまりしてなかったように思います。もう少し若い時から本職の仕事をしていればと・・・、後悔はダメですよ。
私には良き二十世紀であったことに今は感謝しております。
● お菓子の日(毎月)、暑中見舞いの日
日米安保阻止第二次実力行動。国会に全学連デモが突入し、警官隊との衝突で東大生・樺美智子さん圧死(1960)