・中央日報 [噴水台] 韓日合邦の魚
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=18651
「網を張る前に魚が飛び込んできた」--。
1910年8月、韓日合邦の前夜の秘史についてこのように語ったのは、当時の統監府外事局長、小松緑だった。心痛い証言だ。
それは決して文学的修辞ではなく、惨めな無能の末、合邦を決めた91年前の我々の姿だったことの確認であるからだ。明日、韓国は庚戌(キョンスル)国恥日(韓日合邦)を迎える。
この経路を振り返るに当たって、まずは「合邦の魚」の主役から見てみよう。本音を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。総理大臣の李完用(イ・ワンヨン)の側近である、新小説『血の涙』で知られる李人稙(イ・インジック) が密使として動いたのだ。
これを理由に、李完用は、いつまでたっても韓国の逆賊と言われ続けるのか。
1979年にひ孫の手で墓を廃棄されたことも、当然とされるべき人物なのか。しかし、真実は小学校の教科書のように簡単でない。その中にある「複雑な真実」を明らかにしてくれたのが、尹?漢(ユン・ドクハン)著『李完用評伝』(中心、1999)だ。同書は次のように問いかける。
「我々は、余りにもたやすく売国奴像を作り上げ、批判してきた。反面教師としての李完用研究も、全部で論文が4本出たに過ぎなかった。そのような中で我々は、李完用という人物に隠された自分らの姿から、わざと顔を背けてきた。」
まず、李完用は「生まれつきの親日派」と見なすことはできない。彼は、1882年文科に及第し、士大夫官僚として出発した。
開化期の初のランゲージ・スクールである育英(ユクヨン)公院で英語を学び、駐米代理公使(1888年)として2年間勤務した。また、尹致昊(ユン・チホ)・兪吉濬(ユ・キルジュン)と共に、英語に長けた3、4人のうちの一人だった彼は、当初親米派として知られていた。その後、駐日公使の発令(1894年)に対し、彼は母親の喪を理由に強く辞すこともあった。
「盲目的な親日派」だった宋秉?(ソン・ビョンジュン) とは違い、彼は死ぬまで日本語を話せなかった。彼に関する知られざる話はまだある。初代委員長(1896)として独立協会を主導した2つの顔の人物が彼だ。学界は沈黙しているが、独立門に掲げられた扁額も彼の手によるものだという説が有力だ。
実際、徐載弼(ソ・ジェピル)の「独立新聞」には、李完用への批判が1行たりともない。
我々がこれまで顔を背けてきた李完用の姿は、その他にも多い。だとすれば、乙巳(ウルサ)条約以後、広い視野の外交通から売国の親日派へと大転落した李完用をどのように解釈すればいいのだろう。
あたふたとして正当な判断をせぬまま、うやむやにされてしまった近代史の総体的象徴といえるのではないだろうか。このことを忘れてしまうから、最近の政界でも、あまりにもたやすく親日派のレッテルを貼られることになる。
そうした後、何とも簡単に忘れてしまう。それは醜態以外のなにものでもない。親日派とは、人に対する悪口でなく「我々」を映す恐ろしい鏡なのだ。
さらに「歴史の網」は、その姿を変え、我々の前に幾重にも張られているのではないか。複雑な心境だ。
趙佑石(チョ・ウャbク)文化部出版チーム長 <wowow@joongang.co.jp>
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本音を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった
合邦を打診したのは朝鮮側だった
合邦を打診したのは朝鮮
打診したのは朝鮮
打診したのは朝鮮
李完用の決断の成果
■Before <丶´д`>
■After<*`∀´*>
▼朝鮮総督府政策一覧 併合時(1910) 終戦時(1945)
・教育の普及 無いに等しい → 小学校5,213校、生徒数2,389,135人、就学率61%(1944)、京城帝国大学創設(1924)
・耕地面積 246万町歩 →449万町歩
・水田面積 84万町歩 →162万町歩(1928)
・石高(米の生産量) 約1千万石 →2千万石(1930)
・鉄道 無かった→ 3,827km
・人口 1,313万人 → 2,512万人(1944)
・植林 禿山 → 30年間で5億9千万本
・反当たり収量 0.49石 → 1.49(3倍)
・平均寿命 24歳→56歳
・朝鮮半島の強盗件数
昭和2年 1771件
昭和7年 1261件
昭和12年 727件
昭和17年 394件
強盗件数: 朝鮮総督府『統計年報』
日韓併合(1910)~終戦(1945)までの間に、教育など無きに等しかったのに、小学校を5,213校作り、就学率を61%(1944)までにし、お人よしにもハングルまで広めてやり、一つもなかった鉄道を 3,847kmも敷き、禿山だった山に、実に5億9千万本の植林をし、人口が1,313万人→2,512万人へと2倍近く増え、一人当たりの国内総支出が1910年の58円から1938年には119円と倍増した。
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