ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

幸福な人

2019-12-12 17:31:36 | 経典の言葉・聖者の言葉


 幸福が人を優しくするのか、優しいから幸福なのか、
 幸福な人の魂の中には、悪意の痕跡が全く見られない。


 ――プラトン
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クリシュナが衣を盗むリーラーの日

2019-12-12 10:08:28 | 松川先生のお話


今日は、クリシュナを愛するヴリンダーヴァンのゴーピーたちが、「クリシュナが私の夫となりますように」という祈りをドゥルガー女神(カーティヤーヤーニー女神)に一か月間ささげ続けるという誓いの修行に入り、その一か月の誓戒の行が満行し、その果報として、クリシュナが現れて彼女たちの衣を盗むという一連のリーラーが展開された日だとされています。




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 そのような一ヶ月の誓戒の行が終了する満月の日の朝、彼女たちはいつものように河に到着すると、衣を岸辺に脱ぎ捨てて、クリシュナを賛美しながら、楽しくその水の中で遊び戯れたのでした。
 クリシュナはそれを知ると、彼女たちの礼拝に報いるために、仲間とともにその場所に向かいました。
 そして岸辺に到着すると、クリシュナは岸辺に脱ぎ捨ててあった乙女たちの衣をすべて集めて、急いでカダンバの樹の上にのぼり、乙女たちをからかうようにこう言いました。

「さあ、あなたたち、ここまでやってきて、自分の服を取るといいよ。僕は決して冗談を言っているわけじゃないんだ。あなたたちは誓いの行のせいで、疲れ切っているのだから。
 僕は真実しか言わない。だから、細い腰をしたあなたたちよ、一人ずつか、または全員一緒に、自分たちの服をここまで取りに来なさい!」

 このようなクリシュナのいたずらを目にすると、ゴーピーたちは愛の思いに圧倒されてしまい、顔を赤らめて互いに見つめ合うと、思わず笑い出しそうになりました。しかし彼女たちは裸で水から出るのが恥ずかしかったので、河から上がろうとはしませんでした。

 しかししばらく冷たい水に首までつかっていたため、彼女たちの体は冷え切ってしまい、どうか早く服を返して下さるようにと、クリシュナに懇願しました。しかしクリシュナはこう言いました。

「もしあなたたちが僕のしもべであって、僕の命令を何でも聞くのなら、さあ、唇に笑みを浮かべて、ここまで来て、僕から衣を受け取りなさい!」

 そこで乙女たちは、掌で局部を隠して、寒さに震えて身を縮めながら、河から上がってきました。

 乙女たちが寒さと恥ずかしさのあまりに死んだようになりながらもクリシュナの命令を実行したのを見て、クリシュナはその純粋な心を喜んで、微笑みながら、次のように言いました。

「あなたたちは誓いを守ろうとしたのに、服を着ないでヤムナー河に浸かった。これは水の神への冒涜なんだ。だからその罪を償うため、あなたたちは頭の上で両手を合わせて、大地にひれふした後で、僕から衣を受け取るのです。」

 ゴーピーたちは、自分たちが誓いへの冒涜を知らぬうちに犯していたと悟り、その罪を償い誓いを完成させるために、言われたとおりに、真っ裸のまま両手を頭の上で合わせて、クリシュナに向かって地にひれ伏して礼拝したのでした。なぜならクリシュナこそが、自分たちの罪をすべて洗い流せるお方であると、彼女たちは信じていたからです。

 クリシュナは、ゴーピーたちが素直に自分の指示通りに礼拝したのを見て大変喜び、彼女たちに衣を返したのでした。

 このように羞恥心を奪われるようなことをされても、彼女たちはクリシュナのことを悪くは思いませんでした。愛するクリシュナと一緒にいられること自体に、彼女たちは非常な幸福を覚えていたからです。

 自分たちの衣をそれぞれ身につけると、彼女たちは恥ずかしそうにクリシュナを見つめて、最愛の主と会えたことにうっとりしてしまいました。そしてあまりにも強く心をクリシュナに魅了されたために、その場から動くことができなかったのです。  

 クリシュナは彼女たちに言いました。
「ああ、汚れなき乙女たちよ。あなたたちが僕をあがめたいと願っていることを、僕は知っています。そしてそのことは僕も歓迎するゆえ、必ずかなえてあげましょう。
 焼かれた種は二度と芽を出すことがないように、僕に心をささげた人が、その後で輪廻の楽しみを求めようとしたとしても、その人の心はもう二度と輪廻の楽しみには向かわないのです。
 ああ、汚れなき貴女たち、もうヴラジャにお帰りなさい。あなたたちはもはや目的を遂げられたのです。やがて来る秋の夜、僕はあなたたちとともに遊戯を行なうでしょう。ああ、徳高き乙女たちよ。あなたたちはそのために、今まで女神をあがめて、誓いを守ってこられたのですから。」

 自分たちの願いをかなえられたことを知った乙女たちは、主の蓮華の御足を思いながら、幸せそうにヴラジャへと帰って行ったのでした。

 


※注・・・このエピソードの中で、衣とは、主と自分を引き離す偽りの自己を象徴し、局部とは、「自分」という思い、自尊心を象徴している。
 それら「主と自分を引き離す偽りの自己」を捨て、すべてを主の前にさらけ出し、裸の心で主に礼拝すべし、という意味が込められているといわれています。
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パドマサンバヴァの秘密の教え(72)「五つの熟達」

2019-12-11 22:23:25 | 経典の言葉・聖者の言葉



◎五つの熟達


 師パドマはこう仰った。

「ダルマを修習しているとき、あなたは五つを熟達させなくてはならない。」


 ツォギャルは尋ねた。

「それは何でしょうか?」


 師はこうお説きになった。

「一.ダルマが自然に身に付くことにより、「すべてを解放する全智者」にならなくてはならない。

 二.ダルマターの認識を得ることで、あなたの存在の中に不生性を発達させねばならない。

 三.サマヤが自然に身に付くことにより、心の完全性を持たなくてはならない。

 四.努力してプラーナを習熟することにより、苦行を遂行できなくてはならない。

 五.口頭での教えに精通することで、人々の気質にそって彼らを導くことが出来なくてはならない。」
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「修行の基礎・戒について」(5)

2019-12-11 20:57:22 | 勉強会より抜粋



◎他者を害する――地獄への道

 もし人間がもう一歩高いところに踏み出そうと思ったら、五戒を守らないといけない。でも逆の言い方をすると、その五つの悪業を頻繁に行なうならば、我々は神ではなく低い世界に結び付けられますよっていう教えでもある。
 つまり殺生をたくさんするならば、あるいは――殺生ってあれ、アヒンサーっていうんだよね、アヒンサー。アヒンサーって、ヨーガでは非暴力って訳されている。で、仏教では不殺生って言ってて。あれ、Bさんはどう訳します?

(B)まあヒンスが害するですから、やっぱり非暴力とかじゃないですかね。

 そうですね。まあわたしは、「害さない」っていう意味で、ほんとはいいような気がするんです。つまり、あらゆる意味で他者を害さないと。もちろん暴力もダメだし、あるいは殺生もダメだし、それだけじゃなくて例えば悪口も含めて、あるいは何らかのかたちで相手を陥れることも含めて、一切他を害さないってことだと思うね。
 ダライ・ラマがよく、仏教の真髄は愛と非暴力だって言い方をするんです。でもわたしはねえ、ダライ・ラマ法王の真意は分からないけど、勝手にだけどもわたしが思うには、ダライ・ラマはそう言いたいんじゃないんじゃないかと。つまり、愛と、つまり慈愛と、害さないことじゃないかって思うんだね。単純に非暴力って限定されたものじゃなくて。つまり一切他者に対して、あらゆる意味で他者を害さないと。
 それから、もうちょっと積極的に、愛すると。ここでいう愛っていうのは愛着じゃなくて、慈愛、つまり相手の幸福を願うと。これが仏教の真髄だという言い方をダライ・ラマ法王はされていますが、逆に相手を害する、心において憎み、口において悪口を言い、行動においてまあ、陥れたり、暴力を振るったり、殺生をすると。これはまさに地獄のカルマなんです。
 つまり、これをひたすらやっている人っていうのは地獄に結び付けられる。仏典を読んでるとよく、結とか、結び目とか、そういう言葉がよく出てくるんだけど、要するに我々がね、何かの世界に生まれ変わるっていうことは、結び目ができてるんです。
 まあ、もっと分かりやすくイメージしやすく言えば、鎖でつながれていると言っていい。つまり生きているうちから――例えば来世地獄に生まれ変わる人は、生きているうちから、もう地獄との縁が完全にセッティングされているっていうか、紐とか鎖で結び付けられているわけです。
 だからその人は、別に死ななくても、生きているうちから地獄の兆候があらわれてくる。例えば地獄っていのは殺伐とした状態だから、普段から意識が殺伐としてくる。あるいは被害妄想とかもそうだね。なんかもう、自分がみんなから苦しめられているような、この世が地獄に見えてくる。こういうのは地獄の兆候ですね。
 ちょっと話が広がっちゃってるけど、輪廻転生っていうのは、結局ねえ、なんていうかな、奇跡的変化ではないんです。わたしが思うにね。
 例えば生きているうちから、体中が痛くて、心が殺伐として、暗くて、人を憎んでばかりいる人が、死んで天に生まれ変わりましたっていうのはありえない(笑)。
 つまり、そのまま移行するんだね。その人の状態がそのまま移行する。
 ――っていうことはたとえば、まるで心が神のように幸せで、あるいは愛に満ちてるとか、あるいは非常に気持ちよくてとか、ってなってない限り、そのような幸福の世界に生まれることはありえない。
 ちょっと話を戻すけども、地獄の場合はそういった、憎しみとか他を害する世界。よってそのような、つまりその、他を害さないという戒律ではなくて、逆に他を害するっていう行為をひたすら行なっていたら、我々は地獄に落ちるしかない。よってこれは逆の意味だけど、神に至るためというよりも、地獄に落ちないために、我々は他を害してはいけない。
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ダッタートレーヤ・ジャヤンティ

2019-12-11 16:45:27 | 松川先生のお話




 今日は、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァの三大神が合一した化身とされるダッタートレーヤのお誕生日です。




ダッタートレーヤの教え


『私は「大地」から、自分は他の生き物に踏まれても、彼らは神の意に沿って動いているのだと考え、決して心を乱さないという誓いを聞き、人はこの事実を悟って、自分のダルマから外れないようにすべきだと学んだのです。
 また敬虔な者ならば、「山」から、自分の行動はすべて利他の思いからなすべきであり、自分がこの世に生まれてきた理由も、ただ他者への奉仕のためだと学び、また、「木」の弟子となることで、他者に役立って生きることを学ぶべきなのです。

 修行者は、生命の維持のためのみに食物などを求める「風(プラーナ」のあり方にならって、必要最小限のもので満足すべきであり、決して感覚を喜ばせるもので自分を甘やかすべきではありません。しかし自分の判断力が飢餓によって損なわれないようには注意すべきであり、また言葉や心が感覚の楽しみへの欲望で乱されないように努めるべきだともいえるでしょう。
 さらに「風」が何にも執着しないように、ヨーギーは種々の性質を持つ対象の間を自由に動きながらも、何の影響も受けず、何にもとらわれるべきではないでしょう。
 また「風」は種々の香りを運びつつもそれらとは別の存在であるように、ヨーギーは物質的な身体に入って様々な属性(細い・太い、美しい・醜い、弱い・強いなど)を与えられても、心を真我に固定して、それらの属性に影響されないようにすべきなのです。

 「空間」は、動不動のすべてを貫いても、何にも制限を受けないように、修行者は肉体という衣をまとっていても、常に遍満するブラフマンと一体であり、自分の本体である真我は何にも影響されないと知るべきなのです。
 空間は、風に動かされる雲とは何の関係も持たないように、グナから生じた火や水、地でできた肉体とは、真我は何の関係も持っていないのです。

 聖者は「水」のように澄み渡り、心は穏やかで、思いやりを持ち、すべてを浄化してくれるでしょう。そして人々はそんな彼の姿を見て、また彼の身体に触れたり、彼を賛美することで、自分たちも浄化されるのです。

 ヨーギーは「火」のように光輝に満ちて、修行の栄光で輝き、力に満ちあふれて、自分の腹以外に器を持たずに、真我と一体となっており、いかなるものを食べても影響されないでしょう。
 そして火のように、あるときは人の目から身を隠して、あるときは人々の前に姿を現し、祝福を求める者たちにあがめられて、供養する者の過去と未来の罪を燃やすのです。
 火は、それが燃える薪の形となって現れるように、すべてに遍満される主も、ご自身のマーヤーが生み出した、高等な、または下等な身体の中に入って、それらの姿となって顕現されるのです。

 時の力で生じる「月」の満ち欠けは、月そのものには生じず、月の相だけに関係するように、認めがたき動きをなす「時」によって生じる、誕生から始まり死に至る六つの段階は、肉体だけに生じるものであり、真我とは関係していないのです。

 火の中に炎があらわれては消えようと、火そのものは少しも変化しないように、奔流のように過ぎる時の流れは、絶えず生と死を人にもたらしても、真我には影響を及ぼさないのです。

 「太陽」は水分を吸い取っても、その水に少しも執着しないように、ヨーギーは感覚の対象を享受しても、少しもそれらに執着せず、時に相応しくそれらを捨てるのです。
 理解の低い者の目には、反射する媒体(水が入った器など)に太陽が映るや、それはその容器の中にあると見えるように、本質的にはただ一者である真我も、様々な衣(肉体)をまとうや、肉体を自分とみなす者には、それは別々にあると見られるのです。

 人は誰にも過度の愛情を抱くべきではありません。もし過度の愛情を抱くなら、彼はいつかは嘆く羽目になるでしょう。
 人間の身体は、解脱を得ることができる、たぐいまれな恩寵といえるのです。せっかくその身体を得たのに、家庭に執着し続ける愚かな者を、賢者は、一度上った高台から再び落ちた者だとみなすのです。



 ああ、王よ、賢者は、感覚器官による苦楽を追い求めるべきではありません。
 聖者は自分からは何も求めず、自然に手に入った食べ物だけを、その多少に関わらず、おいしくともまずくとも、ただそれだけを口にすべきでしょう。
 食べ物が手に入らないときには、無理にそれを求めようとせずに、食べ物を与えてくださるのは神であると信じて、何日も食事を摂らずに、忍耐強く暮らしていくのです。
 また彼は、健全な身体と心、感覚器官を持っていても、利己的活動をなそうとせず、意識はしっかりと目覚めて神を思うべきでしょう。
 深くて静かな澄み切った海のように、賢者は物静かで、威厳をそなえているでしょう。そして底知れぬ深さを持ち、誰にも支配されずに、時間と空間にも影響を受けず、好き嫌いの感情にも心を乱されません。
 川の水が流れ込もうが流れ込むまいが、海はそれによって満ち足り干上がったりはしないように、賢者は望むものを得ようと得まいと、そのことで喜んだり悲しんだりはせず、心はいつも主ナーラーヤナに帰依しているのです。
 
 主のマーヤーに他ならぬ女性を見るや、感覚器官を制御できない愚かな男性は、彼女の仕草や動きに心を惹かれて、炎の中に落ちていく蛾のように、自分から地獄の暗闇へ落ちていくでしょう。
 主のマーヤーで作られた、金の装飾品や着物、そして女性の身体を見るや、愚かな男性はそれらに心を魅了されて、それらを楽しもうと考え、識別の力を失い、蛾と同じように自滅してしまうのです。

 托鉢修行者は、朝食のために托鉢で集めた食べ物を、決して夕食や翌日のために蓄えるべきではありません。彼の手だけが器であり、腹だけが貯蔵庫であるべきなのです。彼は決してミツバチのように食べ物を蓄えるべきではないのです。もし蓄えるならば、彼はその食物と共に滅んでしまうのです。

 サンニャーシー(出家修行者)は、たとえ像であっても、足でさえ女性には触れるべきではありません。もし触れたなら、彼は雌象に誘惑されて人間に捕まる雄象のように、愛欲の思いに束縛されてしまうでしょう。
 賢者ならば、自分にとっての死そのものである女性を、決して求めるべきではありません。

 けちな者が苦心して集めた財産は、彼自身は少しも楽しまずに、布施をすることもなく、蜂蜜職人に蜜を奪われるミツバチのように、他の人がそれを奪っていき、さらにその者から別の者がそれを奪っていくでしょう。
 家長が楽しみのために苦心して集めた財産は、まずはサンニャーシーに最初に供養するべきでしょう。

 森に住むサンニャーシーは、決して低俗な歌を聴くべきではありません。
 鹿から生まれた聖仙リシュヤリンガは、女性たちの下品な踊りや演奏、歌を楽しんだために、女性の手に操られるおもちゃとなってしまったのです。

 何であれ、それを愛しいと思い、所有したいと思うことが、その人にとって悲しみの原因となるのです。この事実をよく悟り、何をも所有しようと思わぬ者は、永遠に続く幸福を味わうことができるのです。

 私は名誉も不名誉も感じずに、妻や家や子供に対する気遣いもありません。私は内なる真我にのみ喜び、真我の祝福を楽しみながら、幼子のように世界を流浪しているのです。
 ああ、王よ、この世ではただ二種類の人だけが、不安や憂いを持たずに、幸福に満たされて生きるのです。その一人は何の企みも持たぬ無邪気な子供であり、もう一人は三グナを超えて主を悟った者なのです。

 人は安定した座法を保ち、プラーナーヤーマをおこなって、離欲とヨーガを実践しながら、心を一つの対象に集中させるべきなのです。
 かの唯一者に心を集中するなら、カルマの汚れは徐々に除かれていき、サットヴァは強まり、ラジャスとタマスは抑制され、燃料がなくなって火が消えるように、ついには深いニルヴァーナの中に吸収されるのです。
 一心不乱に矢を作る職人は、王の行列がそばを通っても気づかないでしょう。同じように、真我に心を集中させてこの境地に至った聖者は、自分の内と外で何が起ころうとも、それらにとらわれなくなるのです。

 聖者は住まいを持たずに、ただ一人で世界をさまよい、決して油断することなく、心の中の洞窟に身を寄せるべきなのです。
 滅ぶべき定めにある肉体を持つ人間にとって、家を建てることは全く無意味であり、多大な苦しみが伴うのです。

 唯一者であられる主ナーラーヤナは、カルパの終わりに、カーラ(時)というご自身の力を用いて、かつてご自分がマーヤーで創造した物質宇宙を破壊されるのです。
 主ご自身の力である三つのグナが、同じく主の力であるカーラ(時)によって平衡状態に戻ると、その後には、原初の真我(アーディプルシャ)だけが存在するのです。
 そのお方は、解放された魂にとっての最高の目的地であり、ケーヴァラ(絶対存在)と呼ばれているのです。そしてそのお方は、何にも制限を受けることのない、広大な祝福の海であられるのです。
 主はまず最初に、誰の手も借りずに、三グナよりなるマーヤーを刺激して、宇宙の活動原理としての「糸」を創造されたのでした。
 この宇宙はこの糸に貫かれて、魂はこの糸によってこの世に束縛され続けるのです。
 蜘蛛が口から網を吐きだし、それと戯れ、最後にはそれを飲み込むように、主は自らの内から宇宙を創造して、それを維持し、最後にはそれを破壊されるのです。

 魂の目的を叶えることができる、人間というこの素晴らしい身体を、何生もの後でやっと手に入れたなら、賢明な者であるならば、その肉体が滅びるまでに、解脱に向けて懸命に努力すべきなのです。感覚の楽しみなどは、どんな生き物の身体でも味わうことができるのですから。
 私はすべての執着と自己中心的な思いを捨てて、離欲の思いを培い、智慧の火によって真我に自分を確立して、世界を自由にさまよっているのです。』


 ――ダッタートレーヤ
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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(119)

2019-12-10 19:41:23 | 聖者の生涯

◎ワンチュク・ドルジェの出家


 ワンチュク・ドルジェは、ツェワン・タクパとしても知られており、偉大なテルトンであるチョギュル・リンパの長男であった。彼は子供の頃にパトゥルと出会った。妹のコンチョク・パルドンと異母弟のツェワン・ノルブと同様に、彼はすぐにパトゥルの敬虔な弟子となった。

 ワンチョク・ドルジェは、若年齢で、心の本性をありのままに悟った。彼の知性は際だって優れており、その洞察力は人々を唖然とさせた。十六歳のときから、彼は素晴らしい悟りの歌と深淵なるダルマの注釈書を書いていた。さらに、ダーキニーの文字まで読むことができた。
 彼は背が高く、逞しく、振る舞いは気品高かった。髪型は非常に独特で、編んだ長い髪を頭に巻き付けていた。それは「人を魅了する冠」と言われていた。彼は一度も髪を切ったことがなく、その髪の毛一本一本にダーキニーが住んでいたのである。その髪は紺青色に輝き、洗っても決して髪がもつれることはなかった。

 ワンチュク・ドルジェは1880年に二十歳になると、パトゥルの野営地に行った。パトゥルの数多くの弟子たちは偉大な師となり、独立していた。パトゥルの野営地は、十方にダルマの獅子吼を轟かせる雪獅子の根城のようだと言われていた。
 ワンチュク・ドルジェは、テルトンである父のような煌びやかで仰々しい格好で、パトゥルの野営地に到着した。馬の背に乗り、四十人の馬乗りたちに付き添われ、所有しているヤクを連れて来たのだった。
 それは、所有物をわずかしかもたず、黒いヤクの毛の遊牧民テントで暮らす簡素なパトゥルと対比すると、ずいぶんと異なっていた。パトゥルは出家の誓いを守っていたので、配偶者もいなかった。
 パトゥルはよく、”山の子のようであり、衣の代わりに霞をまとっていた”、師ズルチュンパの生涯について熱く語った。
 ワンチュク・ドルジェは、パトゥルが、カギュー派の昔の修行者たちのシンプルな生き方を取り入れ、煩わしさや世俗的な先入観を放棄するという善徳を称賛しているということを耳にした。
 パトゥルはこう言った。

「善良なダルマの修行者になりたいと思うのならば、低い座に座り、古い平凡な衣をまといなさい。豪華な金襴を着飾って高い所に座り、そこから他者を見下ろしていることに価値があるなどということは、誰からも聞いたことがない。」

 その言葉に触発され、ワンチュク・ドルジェはこう言った。

「それは、わたしには問題ありません!」

 ワンチュク・ドルジェは何の躊躇もなく、自分のすべての所有物を捨てた。そして、取り巻きを解任し、馬をすべてチョギュル・リンパの僧院に送り返した。女たちを放棄し、装飾品を捨て、良質の絹の金襴の衣を捨て、安いフェルトと羊の皮でできたボロボロのコートを身にまとった。華麗な長い髪を切り、頭を剃り、見習い僧のゲツルの誓いを立てた。

 やがて、ワンチュク・ドルジェが変わってしまったという知らせが、ジャムヤン・キェンツェー・ワンポのもとに届いた。
 心を取り乱しながら、ジャムヤン・キェンツェー・ワンポはこう言った。

「あの気狂いの仕業だな! パトゥルめ!」

 そのときキェンツェー・ワンポは、小さな子供のように泣いたと言われている。


 一八八一年、七十四歳の時、パトゥルは”地獄の奥底を浚い上げる”と呼ばれる浄化の儀式を執り行ない始めた。一年半もの間、師ジグメ・ギャルワイ・ニュグの聖遺物が入っているストゥーパの前で修行し、それから十万回護摩供養を行なった。またこの時期パトゥルは、最も近しい弟子たちに、多くの高度な教えや指示を与えたのであった。



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ただ

2019-12-10 18:40:17 | 松川先生のお話


 何にも執着するな
 何にもとらわれるな
 何にも期待するな

 この無常なる幻の世界の中で
 風のように
 樹のように
 大地のように
 大海のように
 大空のように

 何も求めず
 ただ与えるだけの存在になろう




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解説・ダンマパダ(5)「神聖なるけがれた衣」

2019-12-09 06:51:09 | 勉強会より抜粋



◎神聖なるけがれた衣

【本文】

 けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制が無く真実も無いのであるから、黄褐色の法衣にふさわしくない。
 けがれた汚物を除いていて、戒律を守ることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。



 はい。ここはね、この教えって実は、言葉の遊びっていうか、トリックがあるんだけども、けがれた汚物、ここでいうけがれた汚物っていうのは、S君、何を指していると思いますか?

(S)心のけがれ。
 
 そうだね、心のけがれですね。
 これね、もともとの言葉でいうと、パーリ語でいうとね、このけがれた汚物っていうのを、カサーヴァっていいます。で、その後に出てくる「黄褐色の法衣」っていう言葉、これは、カーサーヴァっていうんだね。まあ、カーが伸びるかどうかの違いなんだけど、つまりこれは詩なので、言葉の引っ掛けみたいなのがあって、つまり、
「カサーヴァを除いていない者はカーサーヴァを着るに相応しくない」
って言っているんだけど、これはねえ、実はちょっと語源的なつながりもあって、このカサーヴァっていうのは、けがれたとか汚いとかいう意味なんだけど、黄褐色の法衣って何かっていうと、もともとね、お釈迦様の時代っていうのは、お釈迦様の弟子たちっていうのは、糞掃衣(ふんぞうえ)っていう物を着てた。糞掃衣っていうのは、インドのゴミ捨て場に行って、布を拾ってくるんだね。もう皆が捨てた汚い布を拾ってきて、まあそれは一つだと小さいから、いっぱい拾ってきて、それを縫って、大きな布にするんです。それを着るんです。
 みんなもね、インドに行ったら分かると思うけど、私もよくインドに行って――まあ、皆さん、インドに行くときはあんまり白いTシャツは持っていかない方がいいです(笑)。色が変わります。汗とほこりと、まあいろんなもので、色がどんどん変わっていくんだね(笑)。で、そうやって汚れきったとき、ちょっと赤っぽい黄色になるんだ(笑)。
 つまり、もともとこの黄褐色の法衣っていうのは別に、黄色い褐色のきれいな服っていう意味じゃなくて、もうゴミ箱に捨ててあるような、もう黄色がかった、しかも赤みがかった、もう汚れの極限になったような布のことを指している。それで作った衣だから、黄褐色の法衣なんだね。
 で、面白いことに、お釈迦様の時代は糞掃衣を着る弟子が多かったんだけど、だんだん仏教教団が整ってきて、お釈迦様も亡くなって、直弟子たちも亡くなって、信者はどんどん増えて、だんだん仏教教団がちょっと金持ちっぽくなってきた。で、今のお坊さんたちみたいに、ちょっとお坊さん達が贅沢をするようになってきた。で、服も、結構きれいなのを着るようになってきたんだ。きれいなのを着るようになってきたんだけど、昔からの伝統があるから、きれいなんだけど、そういう色に染めている(笑)。きれいなんだけど、ちょっとくすんだ黄色に染めるんだ。その伝統が今でも残っているんです。
 だからまあ、南アジアの仏教とか、あとチベットもそうだけど、ああいう黄色をよく使うんだね。あれはもともとの由来はそこにあるんだね。
 だから元はそうなんだけど、ここで書いてあるのは、修行者としての、出家修行者としてのユニフォームっていうか、そういう意味だけども、心のけがれを除いていないのに、出家修行者のフリをして、そのような神聖なるユニフォームを着るのは相応しくないっていう話なんだね。それをちょっと言葉の遊びっていうか、引っ掛けをしているわけだね。
「心のけがれを除いていない者は、けがれた衣を着ちゃいけないよ」
っていう、ちょっと面白い言い方だね。
 つまり、心のけがれを除いていない者は、自制心がなく、その者に真実が存在しないと。よって、けがれた衣と言われる、その神聖なるユニフォームを着ちゃいけないと。そうじゃなくて、心のけがれを除いている者こそ、その者には真実があるわけだから、けがれた衣を着るのに相応しいと。そういうちょっと洒落た詩だね。
 ちなみにこのカーサーヴァっていう言葉から漢字に転用されたのが、袈裟っていう言葉です。お坊さんの着る袈裟ってあるよね。あれは元々ここから来てるんですね。
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「ヴィヴェーカーナンダの生涯」第一回(6)

2019-12-08 11:31:46 | 勉強会より抜粋


【本文】

◎師との出会い

 青年になったナレーンドラは、神を求める思いに燃え、新進の宗教組織であるブラーフモー・サマージに入りました。しばらくの間はそこでの祈りや歌がナレーンドラの心を掻き立てましたが、科学的な眼を持つナレーンドラは、これらが真の宗教体験を与えてくれるものではないときづき、実際に神を見た人にこそ、ぜひ教えを求めなければならないと感じました。
 その切望は抑えがたくなり、ある日、ブラーフモー・サマージの高徳な指導者であったデベーンドラナートのもとに行き、無遠慮にこう尋ねました。
「師よ。あなたは神を見たことがありますか?」

 デベーンドラナートは当惑しながら、
「ねえ君、君はヨーガ行者の眼を持っているね。瞑想しなさい。」
と言って、話をそらしました。

 ナレーンドラは失望し、この師は自分の精神的苦悩を取り除いてくれる人ではないと思いました。
 引き続きナレーンドラは、他の宗教的指導者たちを訪ねて同様の問いかけをしましたが、皆、ナレーンドラを失望させる答えしかできませんでした。

 そのころナレーンドラは、カルカッタから北に少し離れたドッキネッショルのカーリー寺院に住む、ラーマクリシュナという聖者のことを耳にするようになりました。

 まずハスティ教授という人が、講義の中で宗教的恍惚について語ったときのことでした。教授はこう言ったのでした。
「宗教的エクスタシーとは、清浄さと精神統一の結果である。この種の恍惚体験は、特に現代においてはまれな現象である。私はその祝福された状態を体得している唯一の人を知っております。それはドッキネッショルにいるラーマクリシュナという方です。」

 また、ナレーンドラの親戚であり、ラーマクリシュナの信者であったラーマチャンドラも、ナレーンドラにラーマクリシュナのすばらしさを語りました。
「君が本当に精神的なものを深めたいなら、ドッキネッショルのラーマクリシュナを訪ねなさい。」




 はい。ナレーンドラが青年になったときに、神を求める思いに燃えて、当時新しい――よく出てくるね、あのケシャブ・チャンドラ・センとかが関わってた、ブラーフモー・サマージという、一種の新興宗教組織がそのころカルカッタで流行ってたと。で、それにナレーンドラは入ったと。これにはブラフマーナンダとかほかの何人かの、のちのラーマクリシュナの弟子たちも入ったわけだけど。だからおそらく、このころのカルカッタの一つの、神を求める人たちの中の流行りだったんでしょうね。
 で、そこでしばらくは、みんなで歌を歌ったり教えを学んだりしてたんだけど、まあおそらくナレーンドラは当然、前生からの素養や、あるいはもともとのラーマクリシュナとの強い縁――縁というよりも使命によって、「これはちょっとなんか違うぞ」っていうのは感じてたんだと思うね。ただみんなで集まって学んだり教えを聞いたり歌を歌ったりしてるだけじゃ駄目だと。じゃなくて本当に神を見た人、神を知った人、あるいは自分を導いてくれる師を探さなきゃいけないと。で、そこで、もともと、なんていうかな、ストレートな物怖じしない人だったので、その指導者的な立場の人たちに、「あなたは神を見たことがありますか?」と直接的に聞いたと。しかしみんな話をそらしたり、あるいは実際見てなかったり、全然失望する答えばっかりだったわけですね。つまりこれは、ナレーンドラのグル探しの時期だね。「わたしを本当に導いてくれる真の聖者はどこにいるんだ」と。で、運命的についにラーマクリシュナというワードが少しずつナレーンドラの人生に入ってきたと。
 この教授もすごいけどね。学校の教義の中で、「宗教的エクスタシーとは、清浄さと精神統一の結果であり、それは現代ではまれである」と。「しかしそのような人を一人だけ知っている」と。「それはラーマクリシュナだ」と。まさになんていうか、神の手下として言わされたとしか思えない感じ(笑)。ヴィヴェーカーナンダに気付かせるために。そう考えると面白いね。「さあ、そろそろヴィヴェーカーナンダ、気付け」と。「ラーマクリシュナがいるよ」と。「でもどうやって気付かせようかな?」って思って、神々が、「わたしたちが手伝いましょう」って言って、その教授に言わせたのかもしれない。「ラーマクリシュナしかいないんだよ」と。あるいは親戚だったラーマチャンドラという人も、ラーマクリシュナの信者だったので、ナレーンドラに対して、「君が本当に精神的なものを求めたいなら、ドッキネッショルのラーマクリシュナを訪ねなさい」と。
 はい。もちろんこのころは――このころはっていうか、ラーマクリシュナ自体は、本当に有名になったのはこのまさにナレーンドラ――ヴィヴェーカーナンダが世に広めてからなので、このころはまだナレーンドラを始めとする、高弟といわれる――のちに高弟といわれる人たちもそんなに集まっていない時期だから、まさに知る人ぞ知るっていう感じだったんだね。ドッキネッショルの田舎で、本当にわずかな、恵まれた人だけが集まってその教えを聞いていたっていう状態だったんだね。しかし、ドッキネッショルから少し離れたカルカッタに住むヴィヴェーカーナンダ、ナレーンドラの耳にも、おそらく縁によってそのワードがね、「ラーマクリシュナ」というワードが少しずつ入るようになってきた、というところだね。
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「解説・マルパの生涯」(6)

2019-12-07 20:44:35 | 勉強会より抜粋



【本文】
 マルパには四人の中心的弟子がいましたが、その中でも最も有名な一番弟子がミラレーパでした。あるときマルパが夢で見た内容とミラレーパが夢で見た内容が一致し、再度ナーローのもとに行かなければいけないというメッセージを受け取ったマルパは、高齢を理由としたみなの反対を押し切って、一人で三度目のインドへの旅に出ました。
 しかしそのころ、ナーローは非常に特殊な状態になっていました。普通の人では会うこともできないような状態で修行をしていたのです。
 マルパは、師に会いたいという強烈な一心で、みなの助けを借りながら、八ヶ月間、ナーローを探し続けました。
 そうしてついにナーローに相見えることができたマルパは、チベットで集めてきた黄金を、惜しげもなくすべてナーローに布施しました。しかしナーローは、
「私には黄金は必要ない」
と言って、受け取ろうとしませんでした。マルパは、
「あなたには黄金は必要ないかもしれませんが、私自身の、そしてこの供物を集めるために助けてくれた人々の、そしてすべての衆生の功徳の完成のために、どうかお受け取りください」
と懇願しました。するとナーローは、
「では、これがグルと三宝への布施となるように」
と言ってその黄金を受け取ったのですが、そのまますぐにぽいと森の中に捨ててしまったのでした。
 黄金を集めたときの苦労を思い出し、マルパが悲しい気持ちになっていると、ナーローは、
「私にもし黄金が必要なら、この大地すべてが黄金なのだ」
と言って大地を足で踏むと、大地が黄金になったのでした。



 はい、マルパには四人の中心的弟子がいて、その中でも一番有名なのがミラレーパね。はい。で、そのミラレーパとマルパが見た夢の内容が一致して、で、それはまあ、いわゆるダーキニーね、女神が出てきて、マルパがまだ受けていない教えがあると。それをね、ナーローの下で受けなければいけないということを示唆するような夢だったんだね。
 で、みんなは――まあマルパはこの当時、何歳だったかは分からないけど、かなりもう高齢になってたんで、ちょっとね、インドへの旅は危険であると。――みんな反対したわけだけどそれを押し切ってね、インドに旅立ったと。
 しかしそのころナーローは、非常に特殊な状態になっていたと。まあこれはナーローの生涯でも最後の方に出てきたかもしれないけど、死んでるとも生きているとも言えないような、ちょっとこうなんていうかな、まあ聖者のある特殊な状態になっていて、普通の人では会うこともできない――まああの、『あるヨギの自叙伝』に出てくるババジみたいな感じなのかもしれないね(笑)。一体、存在するのかしないのか分からないような(笑)。しかしカルマがあったものだけがまあ会えるっていうかな。そういう状態だったのかもしれない。
 で、まあマルパは一生懸命、みんなの助けを借りながら探すわけだね。で、ついにナーローに会いましたと。で、喜んで、マルパはね、チベットで、まあつまりもう長い年数かけて集めた――まあ自分もね、ビジネスとかやったり、あるいは弟子が布施してくれたりして、本当にもう苦労して集めた大量の黄金をナーローにお布施しようとしたと。しかしナーローはそんなものいらんと。ね。で、まあこれは有名な話だね。何回かみんなにも話してますけども、「あなたはいらないかもしれませんが」――ね。「わたしと、それからこれに関わったすべての人、そしてすべての衆生の功徳のために、どうかお受け取りください」と。そこでナーローは、「あ、それなら分かった」と。「じゃあ受け取ろう」って言って受け取るんだけど、ポイッて森に捨ててしまうと。ね(笑)。で、そこでマルパは、ちょっと悲しくなってしまうわけだね。でもそこでナーローが、ちょんと――「わたしにとってはすべてが黄金である」と言って、ちょんと指で、足の指でね、大地に触れると、大地が黄金になりましたっていう物語ね。
 まあこれはあの、よく、布施の、なんていうかな、お布施というものの意味合いっていうかな――を説明するときによく、たとえとして使われる。つまりお布施っていうのはもちろん、例えば聖者にお布施をするとして、聖者がそのお布施を欲しがっているからする、というんじゃないんだと。じゃなくてそのお布施する側が、お布施させていただきたいと。心から、わたしはお布施をしたいっていうその清らかな気持ちによってするんだという話だね。聖者側というか、その受け取り側は、全くそれを欲しているわけではないと。この辺がだから、よく言われる、例えば一般的な献金とかとの違いですね。献金っていうのは、つまり実際に受け手側も欲しがっていて。まあ欲しがっているというか必要としていて。そのために、じゃあこれをそのために使ってくださいっていうその、なんていうかな、やり取りがなされるわけですね。これはこれでもちろん、目的が正しければそれはもちろん、それはそれで素晴らしいわけだけど。でも、仏教とかヨーガでいうところの、まあお布施ね、ダーナと言われるものの本質はそこにはない。そうじゃなくて純粋に清らかな――この辺はちょっとね、伝えるのがちょっと難しいんですね。
 伝えるのが難しいっていうのは――ちょっと、じゃあ浅いことをまず言いますよ。浅いことを言うならば――それは、お布施する者の功徳のためであると。これは浅い話です。つまりその、相手のためではなくて。ね。「わたしが功徳を積みたいんで」――まあここでマルパが言っているように、「わたしが功徳を積みたいので、どうかお受け取りください」と。ね。つまり、「さあ、このお金で、先生、お寺でも立ててください」――そういうものではなくて(笑)、「わたしの功徳のためにこのお布施をお受け取りください」と。これはまあ基本的なお布施の概念です。でもこれもね、実はまだ浅い話なんです。
 もうちょっと本質的なことを言うと、あの、これは分かる人は分かるでしょうけども、お布施というのは、それそのものが純粋な喜びなんだね。お布施自体がね。これはその――まあわれわれはね、この日本に生まれて、小さいころからちょっとこう、なんていうかな、餓鬼的な――つまり金銭的なね、ちょっとこう、餓鬼的な発想を教え込まれているから、ちょっとけがれちゃっているんだけど(笑)、前生から仏教とか、あるいはバクティヨーガとかの教えを学んできている人は、心の中に必ずこれを理解できる気持ちがあるはずです。徳とかももう関係ないんだね。徳になるとかそんなのも関係なくて。もちろん、これを何に使ってもらうとかそんなのも関係なくて。純粋に、お布施させてくださいと。なんていうかな、清らかな気持ちがあるんだね。これがまあ、本来的なものなんだね。まあだから、これはまあ、なんていうかな、ここでマルパはちょっと悪い例として、よくたとえに出されるわけだけど。ここでマルパがシュンとしちゃったのが本当は間違いなわけです。ね(笑)。つまり、お布施はもう、「もうこれを受け取って欲しいんです」と。これで、受け取ってくださったらもうそれだけでもう歓喜なはずなんだね。歓喜で、それがどう使われようが関係ないんです。それをナーローが森に捨てたって、別に関係ないんです。もうそれはナーローの勝手だから。でもここでちょっと、まだマルパには、そのビジネスマン的なけがれがあったのかもしれない。つまり受け取ってもらって、それで例えばナーローがね、ナーローが自分で例えば、なんかおいしいもの食べたとか、あるいはお寺を立てたとか、そしたら喜ぶかもしれないけど。じゃなくて、受け取ったそばからポイって捨てられたら、「ああ、マジかよ」と(笑)。ね。「おれの苦労はなんだったんだ」ってその(笑)、合理的なこう、なんていうか頭が働いてしまったんだろうね。でも、そうじゃないんだと。そうじゃなくて、なんていうかな、布施そのものが純粋な喜びっていうかな。
 これの逆に、いい例として挙げられるのが、これも、ここで前に話したことがあると思うけど、これは原始仏典にある話なんだけど、原始仏典の中で――まあちょっと簡単に、端折って言いますけどね。これまあ何回か話したね。昔、お釈迦様の前の仏陀――つまりお釈迦様が地上に現われる前にカッサパっていう仏陀がこの地上に現われたんだけど、そのときお釈迦様はカッサパの弟子で――なんだっけな、名前?――ジョーティパーラか。ジョーティパーラっていう名前のカッサパの弟子だったんだね。まあそういう時代があったんだけど。そのころにカッサパの在家の第一の信者がいたんだね。この在家の第一の信者っていうのは、ガティーカーラっていう名前の信者だったんだけど。
 このガティーカーラとカッサパのエピソードとして、まあガティーカーラっていうのは、本当はね、もう偉大な魂だったんだけど、でも出家はしなかった。なんで出家しなかったかっていうと、盲目の両親を養っていたんだね。つまり目の見えない両親を自分で養っていたから、まあ自分が出家してしまうとその盲目の両親が生きていけなくなるっていうんで、まあ出家はしなかった。で、在家で、カッサパの、仏陀カッサパの第一の信者として頑張ってたわけだけど。
 で、いかにカッサパがガティーカーラを信頼してたかっていうエピソードがいろいろあるんだね。それは例えば、カッサパが食事時間になって、「さあ、そろそろ食事をしたい」と。で、弟子たちに言うわけですね、「ガティーカーラのところに行って、食事を持ってこい」と。で、弟子たちは「分かりました」って言って、ガティーカーラの家に行くんだね。そうすると、ガティーカーラは留守であった。留守で、盲目のお父さんお母さんだけがポツンとこう座っているだけだった。そしたらそのカッサパの弟子たちが何も言わずに、窯からご飯を取り(笑)、鍋からスープを取り、持って行こうとしたんだね。そうするとその音を聞いて、盲目のお父さんお母さんは「誰ですか?」と。「誰かなんか勝手にご飯とスープを持って行こうとしているみたいですけど、あなたたちは誰ですか? 何やってるんですか?」って言ったら、「いやあ、実は、仏陀カッサパがね、食事時間なので、食事を欲しがっているので、ここから持っていくんです」って言ったら、その盲目のお父さんお母さんは、「ああ! どうぞどうぞ」と(笑)。「ありがとうございます、どうぞ持っていってください」と。ね。で、ガティーカーラが仕事から帰ってきたら、ご飯とスープがないと。ね(笑)。「一体何があったんだ?」と。で、お父さんお母さんに聞いたら、「カッサパ様の弟子がやってきて、持っていったんだよ」と。それを聞いてガティーカーラは、「わたしはなんと信頼されているんだ!」と。ね(笑)。それと、自分が――つまり自分がなんの行動もしていないのに、布施をさせていただいた。しかも、それはあっちから布施を受け取りにやってきてくださったということに、大いなる歓喜が生じ――お父さんお母さんは数週間、ガティーカーラは数か月間、歓喜が消えなかったっていうんだね(笑)。その、「ああ! ご飯を持って行ってくださった!」「しかも無断で持って行ってくれた」と。「こんな幸せなことがあるだろうか!」っていう歓喜が、数か月続いたっていうんだね(笑)。で、お父さんお母さんでさえも数週間続いたんだね(笑)。この純粋な気持ちっていうかな。
 で、別のときには今度は、まあインドって雨期があるわけだけど。雨期っていうのは出家修行者も――出家修行者っていうのは普段は森とか放浪するんだけど、雨期だけは、まあある家っていうか寺みたいな所に住むんだね。で、あの、カッサパ、仏陀カッサパが住んでいたその住まいが、雨漏りし出した。そしたらカッサパが、あの、弟子達にまた命令するんだね。「おまえたち、ガティーカーラー家に行って、屋根をはぎ取ってこい」と。ね(笑)。で、弟子たちは「分かりました」って言って(笑)、ガティーカーラの家に行って、あの、屋根をミシミシってやり始めるわけだね(笑)。で、またそのときは、ガティーカーラがいなくてお父さんお母さんしかいないだけど、「我が家の屋根を取るのは誰ですか?」(笑)


(一同笑)


 ――聞くんだね。そしたらそのカッサパの弟子たちが、「いやあ、カッサパ様の家が雨漏りしているんで、屋根を持って行きます」と(笑)。で、またお父さんお母さんは歓喜になるんだね。で、ガティーカーラが帰ってきたら、屋根がないと(笑)。「一体どうしたんですか?」と。そしたらまたお父さんお母さんが言うには、「いやあ、カッサパ様の弟子たちがね、カッサパ様の家が雨漏りしているんで、屋根を持って行ったんだよ」と。そこでまた同じように、「なんとわたしは幸せなんだ」と(笑)。「なんとわたしは信頼されているんだ」と。ね。「わたしが何もしないでも、このように布施ができる。それをさせてもらえるっていうのは、なんと素晴らしいんだ!」と言って、また数か月間歓喜が消えなかったと(笑)。しかも、雨期なんだけど、ガティーカーラーの家はね、全く雨がさし込まなかったって言われている。まあこれは仏典で、原始仏典で有名な、布施の話なんだけど。まあこういう気持ちが、本来的な布施の本質なんだね。
 つまり、なんていうかな、まあここではもちろんカッサパの役に立ってるんだけど、役に立とうが立たまいが関係ないっていうか、布施させていただく――その気持ちっていうかな。自分の、なんていうかな、まあ本当にくだらない――はっきり言ってくだらないもんです。くだらないっていうのは、例えばお金にしろ、あるいは例えば食べ物にしろ、あるいは自分の体を布施するにしてもね、わたしのカルマによって今生じている、もしそれを布施以外に使ったならば全くくだらないものにしか使えないようなものを、布施という清らかなものに使わせていただける喜びっていうかな。それがもう理屈ない喜びとしてあるんだね。これはバクティヨーガの、神への帰依が理屈ないっていうのと同じようにね。だから本質的には布施というのは全く理屈がないと。
 で、まあもうちょっとレベルを落としてっていうか浅い意味で言うならば、それは、なんていうかな、現実的な目的のためではなくて、功徳のためであると。まあこれは、それぞれの理解においてどっちの理解でもいいわけだけど。
 その観点から言うならば、マルパとナーローのこの場面のね、物語っていうのはすごく、いい、まあ例えば話になるんだね。つまり布施させていただくこと自体が喜びなんであって。そのあとそのお金を、例えばどこかに捨てられようと、全くそれは関係がないっていうかな。
 例えばさ、もうちょっと現実的な話で言うと、例えば皆さんがね、例えばわたしだったらわたしに、なんかすごく、こう清らかな信を生じて、わたしに「どうかお布施を受け取ってください」ってお布施をしたとするよ。で、それをわたしが受け取ってですよ――そのお金で明日、キャバクラに行ったとするよ。 


(一同笑)


 例えばの話だけどね(笑)。そしたら、「先生、何やっているんですか?」と。「あの布施でそんなキャバクラなんか行ってるんですか?」――そんなこと思ってもいけないっていうことだね(笑)。つまり、なんていうかな、このお布施でどうしてほしいっていうのは全く関係がないっていうか。それはもう、ガティーカーラが受け取ってもらっただけで何か月も喜びが続いたようなものでなければいけないと。
はい。これはあの、何度かね、この話はしてましたけども。

 ここまでで何か質問その他ありますか? 特にないかな? 

 まあ今布施の話が出たので――わたしは本当にね、布施はとても勧めます。もう徹底的に布施してください。もちろんこのカイラスとかわたしに布施してもいいけども、もしわたしとかカイラスに布施するのが嫌だったら(笑)、もちろん他の所でもかまわないよ。例えばチベットの組織でもいいし、ヒンドゥー教系のね、聖者でもかまわない。とにかくまあ、自分の好きなところでかまわないので、布施は本当にやった方がいいです。これはわたしがいろんな人を見てきた経験でもあるし、わたし自身の経験でもあるけども、布施をしっかりしている人っていうのは、確実に修行が進みます。それから、修行からドロップアウトしません。布施をしっかりしている人はね。
 もちろん布施は、なんていうかな、それぞれの条件があるだろうから、例えばお金があまりない人は、まあもちろんその自分の条件内で、できるだけの布施をすればいい。その布施の気持ちが大事ですね。自分のできる限界内での布施を、心を込めてし続けると。これは本当に大切です。これはなんていうか、理屈を超えている(笑)――超えているっていうか、もうなんていうかな、あの、「大切だ」としかもう言いようがないんだけども。
 もちろん、戒律を守ったりとか、教えを学んだりとか、そういうのはまあ全部必要なんだけども、布施の功徳ね、これは戒律とか教学とかに比べると、ちょっとこう、論理的に説明が非常に難しいんだけど。でも、すごく重要です。ですから、まあなんていうかな……限界までっていうとあれだけども(笑)、自分のできる範囲で――まあそうですね、自分が今思っている――今、皆さんそれぞれ、お布施とかっていうのは大事だっていう気持ちあるでしょう。その気持ちを、もうちょっと上げてください。今思っているよりももうちょっと、大事だって強く思ってください。で、なんていうかな、力を込めてね、布施行にも、修行のね、ポイントを置いてったらいいと思いますね。 
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(14)

2019-12-07 17:09:15 | 勉強会より抜粋


◎慈悲による怒りについて


 はい、ほか何かありますか? 

(N)いつもお世話になります。慈悲っていうところで今日はちょっと、慈悲っていうか四無量心って出たんですけども、まあよくいる仏教を会っている人のタイプで、「慈愛っていうのは人に対する厳しさだ」と言って、「慈悲の悲は人に対する優しさだ」っていう人達がいて、まあそれはそれでいいと思うんですけど、よくなんかふと思うと見かけるのは、頭ごなしに人を怒りながら教えていこうという、そういうパターンの人をよく見かけるんですけど、これってなんか言っていることは正しいんだけども、自分で見ててちょっとおかしいなって気付き始めてっていうか、そういう人が結構多いなっていうのを見たときに、「これってでも悪業にならないのかな?」っていうのがちょっとした素朴な疑問というか。自分が怒りを持って人を教えるというのは、ケースバイケースとしてあると思うんですけども、「どうなのかな?」っていう……。



 あの、まず今なんか仰った、「慈愛は厳しさで、慈悲が優しさ」っていうのは、それは誰が言ってるのか知らないけど(笑)、正統的な教えの逆です、それは。逆に、もしそういうふうに定義づけるんだったら、慈愛は「優しさ」だね。で、慈悲が「厳しさ」です。なぜかと言うと、さっきから言っているように――慈愛っていうのはベーシックな話だから。みんなに対する愛の気持ちなわけですね。で、慈悲は実際に救わなきゃいけないから。だから厳しい方法もとらなきゃいけないときがあると。
 で、ここからその質問の主旨に入るわけだけど、確かに、まあ怒りというよりは厳しいスタイルをとらなきゃいけないときもある。とった方がいい場合もある。でもこれはね、前に、ずーっと前に何かの勉強会でもあったけどさ、例えば子供を怒るときとかの話も同じでね。まあちょっと同じことを言うけど、子供を怒るときにね、よくあるパターンとしてはさ、「おまえ! こいつ!」――バーッて言ったあとに、「おまえのこと思って言ったんだよ」とか言うけど(笑)、子供は分かっているよね。「今怒ってたでしょ、本当に」と(笑)。ただカッときてただけでしょうと。つまりそれじゃ駄目なんです。
 つまり、逆に言うとこの慈悲っていうのは大変なんです。大変っていうのはどういうことかっていうと、まず慈愛の場面で、本当にみんなが愛しくてたまらない。でも、愛しくてたまらないこの子を――この子っていうかこの相手を成長させるためには、相手に嫌われることも前提の上で厳しい態度をとらなきゃいけないときがあると。本当はとりたくない。本当はとりたくないけども、頑張って自分を鼓舞してとるんだね。だからここには一切怒りなんてないでしょ。怒りのフォームはあるけどね。頑張って頑張って頑張って、ちょっと大魔神みたいにこう「ウウウ」ってこうフォームを作って、「おまえ!」ってやるんだね。ここには何の怒りもない。だから逆に言うと、ちょっと演技しているっていうか。で、そうだったらいいんですけども。そうじゃなくて、感情が入っている場合、当然これは大きな悪業になるね。で、相手のためにもなりません。
 じゃあ、どれだけ感情が入ってたら駄目なのか。目安としては百ゼロです。だからこれは一つのアドバイスとして言うけどね。例えば皆さんが、子供がいる人は子供を叱るときも、あるいは周りに対する愛の鞭みたいなことをやろうってときも、もし一パーセントでもエゴからくる感情、怒りや嫌悪が入っていたら、やらない方がいいです。それはただの言い訳になってしまう。だってそれは一パーセントと言いつつ実は五十パーセントぐらいのときが多いからね。だからちょっとでも入っていると思ったら、それはエゴの欺瞞だと。わたしはただのエゴの言い訳のために相手を怒ろうとしているだけだと。そんな資格はわたしにはないんだと。そのような気持ちにグッと戻ったらいい。
 だから、この怒りで相手を救う、もしくはちょっと厳しいやり方で相手を救うっていうのは高度な方法になるんですけども、それができる人っていうのは、自分の感情を克服した人だって思ってください。感情が克服されてないのにやった場合は、当然それは大悪業になる。
 じゃあ、「感情を克服した段階でやったら悪業にならないのか?」――あの、簡単に言いますけど、なります。でも菩薩は、それでいいって考えるんです。これがさっき言ったマンジュシュリーの話にも関わるけども。
 だからちょっと話をまとめるとね、まずわたしは相手に対して怒りが全くないと。しかしここで相手に、怒りのフォームをとった方が相手が進むと。この場合はとるしかないと。で、そこで出てくる表面的なデメリットは、相手に嫌われるかもしれない。それからわたしは――少なくとも例えばですよ、厳しいことを言ったことによって、自分は口のカルマを積まなきゃ――実際これはあるからね。実際に、例えば相手への愛があったとしても喉は詰まります。厳しいことを言ったらね。
 あるいは例えば、そうだな――ちょっと話がずれるけどさ、相手を引き上げるために嘘を言うことがあるかもしれない。この場合も喉が詰まります。
 あるいは、まあ、こういう場合はあるかどうか分かんないけど、ミラレーパとマルパみたいにね、相手に対して実際に殴ったりとか――相手の修行を進めるためにね――殴ったりとか、あるいは相手の身体にダメージを負わせる場合がある。これも当然やった方はカルマを背負います。で、それでオッケーって考えてるんだね、菩薩っていうのは。で、これも、もう一回言うけども、言い訳になっちゃいけない。自分に本当は何か暴力のカルマがあって、相手を殴りたくて殴っちゃった、これはもちろん駄目だよね。ただの大悪業。相手もこっちも、ただ悪業と苦しみだけで終わってしまう。じゃなくて本当に智慧があって、智慧によって見て、相手に今厳しい態度をとった方がいいと考えると。本当は自分はそれは嫌だと。嫌っていうか心は向かっていないんだけど、でも智慧によってそのようなモードを取ると。で、それによって相手は進むけども、自分はカルマを背負うと。これは全くかまいませんと。わたしの思想として、理想としてはオッケーですと。ここまでいってるんだったらかまわない。
 だからちょっとね、話をまとめるけども、一般的にいう愛の鞭、あるいは相手の成長のために厳しくする、っていうのは正しいんだけど、正しいんだけど、ここまでの極めたことを考えているんだったらいいってことだね。でもそうじゃない場合がほとんどだと思う。まあただ、それは人のことは分かんないからね。人のことは別に批判しなくてもいいんですけども、自分に関してはそのような感じでいたらいいと思う。
 だからそうなると多分、ほとんどの場合は怒れなくなると思うよね。ほとんどの場合はたぶんエゴが混じったカッとくる怒りの場合が多いだろうから。
 で、もう一回言うけどね、智慧によって状況を見なくちゃいけないんだけど、この智慧もまずわれわれ、ないよね。だから話が戻るけども、修行を進めなくちゃいけない。でも修行を進めていって、自分の感情もコントロールできるようになってくると、まあ変な話、そのある段階においては、そういうときは確かに来ます。そういうときっていうのは、今言ったちょっとミニマムな意味でね――まあマルパみたいにとかまでいかなくても、ミニマムな意味で、「ああ、ここはわたしは今、全然感情がないけども、ちょっとこの人、厳しく言ってあげた方がいいな」ってときは当然あるわけだね。本当は言いたくないと。言いたくないけど言わなきゃいけないな。――こういうのは、ミニマムな意味では皆さんもあるかもしれない。これは全く問題ない。これは涙を飲んで厳しくしてあげてください。そこで生じる自分の悪業っていうのは考えなくてかまわない。考えなくてかまわないっていうのは、カルマにはなるけども、それは菩薩としては喜びであるっていうかな。
 『入菩提行論』にあるように、「菩薩は衆生のために働いて、喜びを持って紅蓮華地獄に沈む」って書いてあるね。これ変な話で、つまり普通でいったら、仏教、修行って幸せになるためにやっているんじゃないんですか?――でもシャーンティデーヴァが言っているのは、なんか帰結するところがさ、「これとこれこれ、これやって――喜びを持って紅蓮華地獄に沈む」とか言ってる(笑)。「紅蓮華」ってかっこいいこと言ったって地獄ですよ(笑)。つまり紅蓮華っていうのは赤い蓮華のように血が滴り舞い落ちる地獄っていうことだからね。そこに喜びを持って沈むと。つまり何を言っている分かります?――つまりすべては心です。みんなの修行が進むんだったらわたしは地獄に落ちてもいい、ぐらいの気持ちができた人にとっては、地獄さえも天に変わるんだね。その境地を目指しているから。だからそれを考えたら、ちょっと話を戻すけど、全部その理想どおり自分にエゴが入ってないと思えるんだったら、それでかまわない。でもなかなかそうじゃない場合が多いと思うんで、自分のことに関してはかなり念正智してやったらいいと思うね、厳しくしようと思うときはね。いいですか?


(N)ありがとございました。
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「修行の基礎・戒について」(4)

2019-12-06 21:42:02 | 勉強会より抜粋


◎抜け出すための苦痛

 例えばね、こういう話があります。これも前にも言ったけども、ライオンがいて、ライオンの世界で、ある一匹のライオンが、前生からの記憶により、真理に目覚めた(笑)。俺は正しく生きようと思った。まずは不殺生だと。……え? ちょっと待てと。不殺生? 獲物を捕っちゃいけないのか(笑)。でもそのライオンは、「よし、俺は真理を実践する」と言って、その日から獲物を捕るのをやめた。で、どんどんやせ細っていった。
 で、周りのライオンたちは、そのライオンを非難した。馬鹿にしたっていうか、もうお前馬鹿かと。ライオンが獲物を捕らないでどうすると(笑)。死ぬぞと(笑)。で、そのライオンは、わたしは死んでもいいから真理を実践すると言って、餌を捕らなかった。で、死んだと。死んだらそのライオンは高い世界に生まれ変わった、っていう話があります。
 で、これは何かっていうと、獲物を捕る、つまり草食動物を殺して食べるというその行為は、ライオンに認められているんです。しかし認められているっていうことは、それをやる限りはライオンなんです(笑)。つまり抜け出そうと思ったら、それをやめなきゃいけない。
 だからヤクザみたいなもんだね(笑)。抜け出そうと思ったら、やっぱり相当こう、苦痛が伴うわけだね。ヤクザを抜けようと思ったら、まあ、リンチに遭わなきゃいけないとか、いろいろなんかあるのと同じように、なんていうかな――つまりね、その世界に、その魂というか、その意識がはまっているわけです。その世界っていうかな、システムっていうか、そのシステム、あるいは意識の中に、意識がはまっているから、そこから抜け出すっていうのは並大抵のことではないんだね。
 これは人間である我々もそうだけれども、我々が例えば人間界から抜け出して、神の領域に一歩でも足を踏み入れようとしたら、それは並大抵のことではない。ライオンが殺生をやめて人間になるようなもので。
 だから例えばこの五戒もそうだけど、五戒って、さっきから言っているけども、これは完璧にこの現代で働きながら守ろうとしたら、結構苦行になると思う。
 まず、殺生をするな。これはねえ、まあ、みんなはできるかもしれないけど、例えば条件によっては、まあ例えば家に虫が発生した場合にね、やっぱりちょっと殺さないと、やっぱりお客様にどうのとか、そういう世間体とか絡んでくるような状況の場合、殺してしまう場合があるかもしれない。
 あるいは盗むなっていうのは、現代の日本人はあんまりないかもしれないけど、盗みっていう範囲をちょっとこう大きく広げたらね、結構厳しくなるけども、商売はほとんど盗みともいえる。だって、なんていうかな、利益を上乗せしているわけでしょ。ちょっと変な言い方だけども。ほんとに対価とかだったらいいけども、ほんとのその物の価値に自分の利益を乗せて売ったりしているわけだから、厳しく考えるなら、商売はほとんど盗みだって考えることもできるわけだね(笑)。
 それから邪淫。不邪淫は二つあります。一つは完全捨断。つまり一切性的なことをしない。もっと言えば、心にも思ってはいけない。二番目は、まあ浮気をするなってやつですね。
 一切性的なことをしない。これはなかなか現代では辛いね。昔はねえ、もっと辛くなかったと思う。そんなに情報が無かったから。今はもうそういう性的情報が氾濫しているから、それはちょっと辛いと。で、心にも思うなとかっていったら、相当辛いだろうと(笑)。
 それから二番目、そうじゃなくて、いや、私は在家だから、柔らかい邪淫でいいですと。つまり浮気をするなとか、それでいいと。これもまあ普通に生きていたら大丈夫だと思うけど、でも現代ではそういう誘惑も多いから、例えば肉体的浮気、または精神的浮気に走る人も多いかもしれない。だから現代ではちょっと辛くなっている。
 嘘をつくな、になってしまうと、なかなかもう辛い。嘘といっても、本当に人を騙すような嘘じゃなくて、ちょっとこう、自分をよく見せるために大げさに言ってしまったとか、いろいろとそういう小さな嘘っていっぱいあるだろうと。あるいはさっきも言ったように、商売とかになると、かなり嘘が絡んでくると思うね。ちょっとこう、売らなきゃならないから大げさに言うとか。細かい嘘になるときりがなくなってくる。
 あるいは嘘じゃなくて言葉のカルマ全体を考えた場合、当然悪口とか、綺語とか、それから陰口とかっていうのはもう日常茶飯事化しているから、相当気をつけてないとなかなか守るのが難しい。
 で、酒に至っては、現代ではやはり、普通に商売や事業とかしていた場合、付き合いで、つまり酒の場に出ないと出世できないとか、酒の席に出ないとなかなかその、相手との商談もまとまらないとか、そういう会社とかも多いだろうと。あるいはそういう状況に置かれることも多いだろうと。だから現代ではなかなか、もちろん守ろうと思えば守れるけども、なかなか守りにくい状況にある。
 特に人間界において一番守りにくいのが邪淫だね。人間界っていうのは元々、そういう性的な興奮によって生まれてきてる世界っていわれているから、異性に対して目を向けるなとか、あるいは一切そういうことをやるなと言われてしまうと、なかなか難しくなってくる。しかし人間を超えたかったら、やめようと。
 まあ、ライオンが殺生をやめるよりは簡単だと思うけどね(笑)。人間が性的なことをやめるというのは。どうなのかなあ、その辺は(笑)。

(U)死にゃあしない。

 そう、死にゃあしないよね、別に(笑)。うん。
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「解説・マルパの生涯」(5)

2019-12-06 20:52:51 | 勉強会より抜粋




【本文】
 マルパはいったんチベットに戻った数年後、再びインドに旅立ち、ナーローを初めとする師たちに再会し、以前受けた教えを復習すると共に、新しい教えを受けました。マルパはナーローにまた必ず戻ってくることを約束し、チベットへと帰りました。

 マルパはチベットで偉大な仏教の師として有名になりました。彼はダクメーマという本妻と、他の八人の妻と多くの子供を持ち、ビジネスを行ない、大きな家に住み、多くの弟子や信者を持ちました。無一物で洞窟から洞窟へと放浪して修行した彼の一番弟子のミラレーパとは全く逆のスタイルだったわけですが、これが良いとか悪いとかではなく、これが彼のスタイルだったのです。
 ちなみに、マルパの妻ダクメーマとは、彼のイダム(守護尊)であったへーヴァジュラの妃の名であり、彼女も含めた彼の九人の妻たちは、『へーヴァジュラ・タントラ』に出てくる九人の女神たちを表わし、マルパの家はへーヴァジュラのマンダラを表わしていたといわれています。




 はい、マルパは、まあいったんチベットに帰ったんだけど、また数年後にインドに旅立って、前の教えを復習し、で、新しい教えも受け、またチベットに戻ってきたと。で、それからまあ本格的に、チベットで教えを広め始めるわけですね。
 で、マルパのスタイルは、ここにも書いているように、九人の奥さんを持ち、で、大きな家に住み、で、まあ、仏教を教えるだけではなくて、ビジネス的なことを行ない――まあつまりさっきから言っているように、すごい現実的な、合理的な人だったんだね、マルパっていうのはね。例えばその教えを与える、教えを広めるには金がいると。ね(笑)。だからその金を稼ぐためのビジネスもしっかりやると。で、しっかり家族を育て、で、多くの弟子や信者を持ち、あの、なんていうかな、まあ言ってみれば世俗的な成功者みたいな感じで、修行してたんだね。で、これが彼のスタイルであると。
 つまり、さっきから言っているように、ナーロー、マルパ、ミラレーパ、そしてガンポパと、この連なる人達ってみんなちょっとスタイルが違う。ナーローは完全にまあ密教行者で、放浪行者なわけだね。で、マルパは今言ったように、大きな家に住んで家族もいて、ビジネスマンであると。ね。で、ミラレーパは、まあミラレーパもナーロー以上に、まあ裸で雪山を放浪するような、無一物の放浪行者であると。で、ガンポパっていうのは、まあなんていうかな、聖僧っていうかな。つまり聖なるお坊さん的な人だったんだね。だからちょっと、ミラレーパとかナーローパーともちょっと違う。その放浪、ちょっと狂ったような放浪者ではなくて、まあ非常にまともな――まあ、最もだからこの中で一番多くの人から尊敬されるような、聖なる――つまり戒律をしっかり守って、教えをバシッと理解してて、誰からも慕われるような、まあ聖なるお坊さんだったんだね。
 で、このガンポパが――まああとでガンポパも出てきますけど、ガンポパもそのカギュー派の礎ね、体系、組織としての体系の礎を作った人なんだね。まあだからその使命がガンポパにあったから、そういうスタイルだったんだろうね。
 で、もう一回戻すけども、マルパは全然違うタイプで、多くの奥さんと、多くの家族と、多くの仕事に囲まれたビジネスマンだったと。しかし大聖者だったんだね。
 マルパに関しては、あんまり――そんなに普通にね、日本で教えとか学んでたら、マルパについてはそんなに聞かないかもしれないけど。チベットではマルパはすごく尊敬されています。つまりもうこれも大聖者として尊敬されているんだね。で、マルパのスタイルっていうのは何度も言うように現世的なスタイルだったわけだけど、密教っていうのはもともと――まあ密教だけじゃないな。ちょっとこれは誤解を恐れずに言うけども、密教に限らず、菩薩道というかな、まあ修行そのものもそうなんだけど、特に菩薩道とか密教の道っていうのは、ある段階以上になると、あまりかたちは関係なくなります。つまりスタイルとか、表面的な生き方のかたちっていうのは関係なくなる。まあ、それは皆さんも、「八十四人の成就者」とかでよく分かっているかもしれないけどね(笑)。あまり表面的な生き方のスタイルとかは、どうでもよくなるんだね。
 ただ普通は、例えば周りとかね、あるいはのちの者たちに模範を示すために、まあ聖者っていうのは、みんながね、それを真似して利益のあるようなスタイルをとるわけですね。つまり、いかにも聖者らしい生き方をするわけだけど。本来はある段階以上に行くと、どうでもいいんです。
 これはちょっと、なかなかあの、まあ上手く伝えるのは難しい話なんだけど、まあちょっと大ざっぱに言うけどね、大ざっぱに言うと、つまり、この現実と言われる、本当は幻影でしかないこの現実の世界から、ちょっと足を離し始めた人だから。ちょっと、どっぷり浸かってたところからちょっと抜け始めた人なので、まあある意味ちょっとこう、現実世界を超越したかたちになっているんだね。で、その人にとっては、この現実世界ってのはもう夢みたいなもんなんで、まあどうでもいいっていうかな、どんなスタイルでも全くかまわないと。で、その人が持っている、もともと持っている、なんていうか、カルマの特徴であるとか、あるいは使命であるとか、それに応じて、まあいろんなかたちをとるわけですね。
 で、マルパの場合は、もう一回言うけども、ちょっとこう、聖者とか密教の聖者の中でもちょっと変わった、独特のスタイルを取ってたんですね。
 はい。で、ここにも書いてあるように、マルパの……だいたい密教の行者っていうのは、まあ何か一つの神を、自分のね、まあチベットではイダムって言いますけど、インドではイシュタと言いますけども、その一人、一つの神をね、例えばクリシュナだったらクリシュナ、まあ仏教の場合、例えばカーラチャクラとかグヒャサマージャとか、ヘーヴァジュラとか、一つの神を自分のイダム、自分と縁のあるメインの神と定めて、で、それに関する修行を中心的にやるわけだけども。このマルパのイダムが、このヘーヴァジュラっていう神だったんだね。このヘーヴァジュラの修行法っていうのがあって、それは自分がヘーヴァジュラに変身して、で、まさにね、このヘーヴァジュラの奥さん、ヘーヴァジュラの妃がダクメーマっていうんです。ダクメーマって呼ばれるその妃を抱いてね、そしてそのほかに、まあ八人の女神が登場するっていうその瞑想法があるんだね。で、そういうマンダラがあって。で、マルパはそれを中心的にやってたんで、それをその現実世界でも、自分の家をマンダラと見立てて、九人の奥さんを持って、まあ家もそういうマンダラ風に作ってたって言われている。はい。これがマルパのスタイルだったっていうことですね。
 はい。じゃ次いきましょう。

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執着

2019-12-06 16:49:12 | 経典の言葉・聖者の言葉




 人を二元論的状態に条件づけるのは、カルマによって曇らされた現象として生じてくる「状況」ではない。
 そうやって生じてくるものが人を条件づけることを可能にするのは、本人自身の「執着」なのである。



 ――パダンパ・サンギェー
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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(118)

2019-12-04 18:41:02 | 聖者の生涯


◎パトゥルの野営地


 一番最初は、パトゥルは小さな黒いヤクの毛のテントを一つだけもっていた。
 時と共に、人々がやって来て、自分たちのテントを張った。徐々に、数張しかなかった野営地のテントは増えていき、物凄い数になった。一番多いときには、数百の黒いヤクの毛のテントと白い綿のテントが遊牧民のように集まって、パトゥルの教えを聞きに来た数千人のダルマの修行者たちの宿となっていた。この修行者たちの野営地は、パトゥル・ガルとして知られた。
 パトゥルは、動機を純化する修行である「三つの機会」と称したものを、そこに滞在している皆に説いた。
 一つ目は、目が覚めたとき――囲いの中の牛や羊のように、大急ぎで起き上がってはいけない。少し時間をとり、ベッドの中でじっとして、心をリラックスさせなさい。内側を見つめ、自分の動機をチェックしなさい。
 二つ目は、教えを聞きに行く途中――人々は説法用のテントに向かう際、その途中にあるストゥーパの横を通り抜けるために狭い道を通らなければならなかった。そこを通り抜ける瞬間は、菩提心を培うことを思い起こし、悪行を避け、善行を実践することで他者を利したいと願うことに使われるべきである。
 三つ目は、説法中――それは自分の目的を知り、動機を定めるさらなるチャンスである。

 一瞬一瞬、全力であれ。
 瞬間瞬間、自覚しなさい。
 一秒一秒、自分自身をチェックしなさい。
 昼夜、決意をし続けなさい。
 朝、誓いを立て続けなさい。
 瞑想のセッションごとに、心を微細に観察しなさい。
 ダルマから決して離れてはならない。”うっかり”というのもだめだ。
 一瞬たりとも、忘れてはならない。


 パトゥル・ガルで暮らしている人々の中にそのポイントを理解していない者がいると、パトゥルは実際にその者たちを追放した。

「おまえたちはわたしを欺いていたのか、それともわたしがおまえたちを欺いていたのか。無意味なことだ!」

 パトゥルはこう言った。

「出て行け。どこかへ行って、何か人生に役立つことでもしなさい! 出て行って、結婚するなり、ビジネスをするなり、子供を作るなりしなさい! 修行者でもなく世俗の人間でもない者など、何の価値があろうか? 世俗の人間になりなさい。善き心を持つことだけは忘れるなよ!」


 七十一歳のとき、パトゥルは、一週間分の食糧を貯蓄するようになった。以前は一日分の食糧しか持たなかったのに。
 それ以上の施物は、マニ壁の資金に使ったり、受け取るのを拒んだり、布施された場所にそのまま置いておいたりした。
 これらの放棄された施物のせいで、乞食たちの一団がパトゥルに寄り付いてきた。彼らは、パトゥルが通ったあとをついて行って、パトゥルが置いていった食糧や施物を拾ったのだった。

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