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唯識学で教える『根本煩悩』と『随煩悩』について、簡単に解説させて頂きます。

2020-05-17 11:36:44 | 日記
唯識学で教える『根本煩悩』と『随煩悩』について、簡単に解説させて頂きます。

人生の苦しみは煩悩によって生じる、と仏教では教えられます。

ですから、煩悩を克服することが、苦しみからの解脱を目ざす仏道修行の目的とするところです。

たとえ煩悩が少なくなったとしても、老いや病いや死を避けることは出来ませんが、

外的には何ら変わることはなくても、心が変われば、すべてが変わるのです。

煩悩という、厄介な心のお荷物を下ろして、軽やかに安らかに生きるためには、煩悩のことをよく知らねばなりません。

「敵を知り、己れを知れば、百戦して危うからず」と言われますように、

煩悩の正体を知っていれば、煩悩を撃退しやすくなります。

根本煩悩と随煩悩については、玄奘三蔵が漢訳した唯識三十頌の解説書である『成唯識論(じょうゆいしきろん)』の煩悩の解説が分かりやすいと思います。

成唯識論では、煩悩を以下の三十四に分類しています。

【三毒と六根本煩悩】

毒薬のように、人を苦しめる三つの代表的な煩悩を三毒と言われ、これにあと三つ加えたものが、六根本煩悩(ろくこんぽんぼんのう)です。

一、貪(とん)。貪(むさぼ)りの心。

よろずのものを貪る心を言います。自分の好きなものに執着して苦を生ずる心です。

二、瞋(しん)。怒りの心。

我に背くことあれば、必ず怒る心を言います。
自分の嫌いなことに腹を立てて、不安と悪行を招く心です。

三、痴(ち)。愚痴の心。

よろずの物事のことわりに暗い心を言います。
四諦や因果律などの道理を弁えない自己中心的な我執の心です。
無明とも、呼ばれるこの煩悩が、すべての煩悩の根元とされますから、無明は迷いと苦しみの根元であるとも言えます。
「貪愛を名づけて母となし、無明を名づけて父となす」と楞伽経にあります。

以上が「貪瞋痴(とんじんち)の三毒」で、これに以下の三つを加えると、六根本煩悩になります。

四、慢(まん)。高慢な心。

我が身をたのみて人をあなどる心。おごり高ぶって苦を生ずる心を言います。慢の中には卑下慢(ひげまん)という、自らを卑下することで他を見下す心もあります。

「自分のいたらなさや、罪深さを自覚している分、私は人より偉いのだ」という慢心です。

五、疑(ぎ)。真理を疑う心。

何事に対しても心が定まらず、疑う心を言います。悟りとか解脱などの真理の存在を、そんなものがあるものか、と疑うことです。

六、悪見(あっけん)。間違った物の見方、邪悪な見解、誤った世界観や人生観を言います。

間違ったことを強く思い込み、まことの道理を知らないことから苦を生ずる心です。

【十根本煩悩】

以上が六根本煩悩であり、最後の悪見を五つに分けて、全部で十にしたものが、十根本煩悩(じゅうこんぽんぼんのう)です。

六、有身見(うしんけん)。我見ともいう。

我執の心。我が身と人の身、我が物と人の物を厳しく分ける心を言います。自分と自分が所有する物に対する執着です。

七、辺見(へんけん)。一辺に固執する心です。
世界は永遠に存在する、あるいは永遠に存在することはない。宇宙には果てがある、あるいは果てがない。肉体と霊魂は同じである、あるいは同じでない。

如来は死後に存在する、あるいは存在しない、などの断見外道、常見外道、有の見、無の見を含む両極端の誤った考えを言います。

我が身は、いつまでも生きている様に思い、死んだ後は、すべて無くなってしまう様に思う心、とも説明されます。

八、邪見(じゃけん)。因果を否定する心。

罪ということも無し、功徳ということも無し、悪いことをしても良いことをしても、その報いは無い、という因果律を否定する心を言います。
自分の蒔いた種は自分で刈り取る、というのが仏教の基本なのに、その因果の道理が認められない心です。

九、見取見(けんじゅけん)。自分の考えに固執する心。

真理に自分の意見とか、教えに執着して、争いの元となる心を言います。一切の闘諍の拠り所になる、と言われます。

十、戒禁取見(かいこんじゅけん)。自分の行動に固執する心を言います。

真理に外れた外道の戒に執着して、苦行などで、いたずらに身を苦しめる心です。幸せを生み出さないので、「無利の勤苦」と説かれています。

身に付いた生活習慣などに対する執着心であり、「ともかく、これが私のやり方だ」という頑固な心です。

【小随煩悩】

根本煩悩に付随して起きる煩悩を、随(ずい)煩悩といい、その中で、他の煩悩との共通点が小さいものを、小随煩悩(しょうずいぼんのう)と呼びます。

はっきりとした性格と、強烈な働きを持つ十種の煩悩です。

一、忿(ふん)。激しい怒りの心。

人を殴りたくなるような、怒りが爆発した状態の心をいう。

二、恨(こん)。うらみの心。

憎しみを抱いて捨てず、いつまでも恨みを結ぶ心をいう。恨みを結ぶ人は、怒りをおさえることが出来ず、心の中がいつも悩ましい、とある。

三、覆(ふく)。罪をかくす心。

名利を失うことを恐れて、罪を覆い隠す心をいう。
罪を隠す人は、後で必ず後悔と悲しみがあるとされ、仏様に罪を懺悔(さんげ)することを、発露白仏(ほつろびゃくぶつ)という。

「空にありても、海にありても、山間の洞窟にありても、世に罪業より、のがるべき所なし」(法句経)

四、悩(のう)。いらだち悩む心。

腹立ちや恨みから、ひがんだり、悩んだりする心。

『一人で腹を立てて、一人で悩む状態を言い、ものを言うにも、その言葉は、やかましく、けわしく、いやしく、あらく、心は腹黒く、毒々しい』と解説されます。

五、嫉(しつ)。嫉妬、ねたみの心。

我が身の名利を求めるが故に、人の繁栄を見聞きして、ねたましく安らかでない心をいう。

六、慳(けん)。物おしみの心。

財宝に執着して人に施す心がなく、いよいよ蓄えようとのみ思う心をいう。

七、誑(おう)。たぶらかしの心。

名利を求めて心得違いのはかりごとを廻らし、自分に素晴らしい徳があるように偽る心をいう。次のへつらいの心との違いは、相手の心を乱すところにある。

八、諂(てん)。へつらいの心。

策をめぐらして、人の心に取り入り、人目をくらましたり、自分の過ちを隠したりする心をいう。おべっか、諂曲(てんごく)の心。

九、害(がい)。他を害する心。

思いやりや、哀れみの全くない心をいう。
他の悲しみが分からず、無慈悲に害する心。

十、驕(きょう)。おごり高ぶりの心。

自分を素晴らしい者と思い、ほしいままに誇り高ぶる驕慢な心をいう。
根本煩悩の慢もおごりであるが、慢は他と比較した上でのおごり、驕は比較しないで、おごることとされる。

驕には、健康に対するおごり、若さに対するおごり、長寿に対するおごり、生まれに対するおごり、体に対するおごり、富貴に対するおごり、私は何でも知っているというおごり、などがある。

以上の十種の小随煩悩のうち、

根本煩悩の「貪りの心」を根元とするものは、「罪をかくす心、物おしみの心、たぶらかしの心、へつらいの心、おごり高ぶりの心」の五つ。

「怒りの心」を根元とするものは、「激しい怒りの心、うらみの心、いらだち悩む心、ねたみの心、他を害する心」の五つ。

「愚痴の心」を根元とするものは、「罪をかくす心、たぶらかしの心、へつらいの心」の三つである。

【中随煩悩】

中随煩悩(ちゅうずいぼんのう)は、悪い心の底に共通して働く、二つの煩悩である。

一、無慚(むざん)。恥知らずな心。

「自分自身と真理」に対して恥じることなく、善根を軽く見て罪を作る心をいう。

二、無愧(むぎ)。恥知らずな心。

「世間」に対して恥じることなく、罪を作る心をいう。

無慚・無愧ともに「恥知らず、厚顔無恥の心」であるが、自らの心に恥じるか、世間に恥じるかの違いがある。

「慚恥の服は諸々の荘厳において最も第一となす。もし慚恥を離すれば、則ち諸々の功徳を失す。有愧の人は則ち善法あり。無愧の者は、諸々の禽獣に相違すること無けん」(遺教経)

「慚愧なき者は、名付けて人となさず」(涅槃経)

【大随煩悩】

大随煩悩(だいずいぼんのう)は、働く範囲が広く、悪い心だけでなく、悪心とも善心ともいえない境界線上でも働いて、聖道を妨げる。

一、掉挙(じょうこ)。落ち着きのない心。高ぶって動き騒ぐ心。

二、惛沈(こんじん)。沈み込んだ心。無気力で沈滞した心。境遇に負けて悲観的になったり、無力感を抱いたりする心。

三、不信(ふしん)。信じられない心。有り難いこと、めでたいことを見聞しても、感動することのない汚れた心をいう。

どんなに素晴らしい教えを聞いても、自分とは関係ないとか、絵空事だとする心で、自他ともに汚すといわれる。

四、懈怠(けたい)。怠惰な心。もろもろの善事に対して、横着で、ものうきことなく、前進することのない心をいう。

五、放逸(ほういつ)。善悪にだらしない心。罪を防いだり、善を修したりすることなく、ほしいままに罪を作る心をいう。
「汝ら、放逸なることなかれ」は釈尊の臨終の言葉として有名である。

六、失念(しつねん)。誓願を忘れる心。気分が散漫で教えをはっきりと記憶できず、真理への志を保持することが出来ない心をいう。

七、散乱(さんらん)。散乱する心。落ち着きがなく定まらない心。対象への移り気をいう。

八、不正知(ふしょうち)。真理を誤解する心。知らねばならない事を間違って理解している事をいう。

【不定(ふじょう)】

これは善悪が確定しておらず、時と場合によって、悪にも善にもなる煩悩である。

一、悪作(おさ)。後悔する心。よろずのことを悔やむ心。

二、睡眠(すいみん)。眠たい心。心をくらくし、体を自在にさせない心をいう。

三、尋(じん)。浅く推しはかる心。

四、伺(し)。深く推しはかる心。

尋と伺の二つは、共にいろいろと推測する心のことで、浅い推し量りを尋、深い推し量りを伺という。

後悔することも、眠いことも、物事を推しはかることも、善悪は別として、煩悩に含まれている。

成唯識論では、煩悩を以上の三十四に分類しています。

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