依他起性(えたきしょう)としての身体観を解説させて頂きます。
まず、依他起性ですが、依他起とは、他によって生起する、という意味です。
お釈迦様は、
「縁起、因縁生起(いんねんしょうき)」と説かれたことを、
唯識学では、このように、依他起性と言います。
では「他」とは一体、何でしょうか。
静かに考えてみますと、
私達のこの身体は、数えきれないほどの無量無数の縁によって、生かされて来たし、
現に今も生かされています。
この無量無数の縁というものを
考えるにあたり、
参考になるのが、
宇宙の生成、生命の進化、身体の構造などに関する詳しい自然科学の情報です。
自分が今、ここに存在するためには、
どれほどの原因が関与してきたか、
そして今、関与しているか。
時間の因果の経過で言うならば、
三十億年前に地球に生じた一滴の生命の根源から、猿人、原人、旧人、新人と発達して、
近くは両親に至り、その両親の精子と卵子の結合によって、自分の存在が始まり、
そして出生し、成長して、
更には、環境・教育などの影響を受けて、
今ここに自分が存在するのです。
また、遺伝子の面からは、
私は両親から生まれ、その両親は、またそれぞれの両親から生まれ、と遡(さかのぼ)っていくと、もう無量無数の祖先の人々と関係しています。
従って、私の染色体の中にある遺伝子は、
無量無数の生命の遺伝子との関わりによって、形成されたことになります。
次に時間を止めて、空間の因果を考えてみましょう。
私達の身体は、
六十兆の細胞から形成されています。
そして、その数多くの細胞から、
これまた数多くの器官・筋肉・神経などによって、身体は構成されて、維持されています。
また、この部屋にいることが出来るのは、
この床があるからであり、
この床は、更に建物、大地、地球に、
更に地球は太陽に、太陽は別の天体に支えられています。
このように、因果の鎖(くさり)を、どんどんと遡っていくと、
この身体は、宇宙の果てとも関係していることが分かります。
こうして見てみると、
自分以外の全ての存在によって、
『今、ここに、こうして、自分かは存在している、ということが分かります。
自分以外の無量無数の縁に依って存在している、
いや、生かされているということに気づく時に、
では、自分とは一体、何か、自分という変わらない、固定不変な実体が、本当にあるのか、と問い直さずにおれません。
そこを仏教では、『縁起の故に、無我である』と教えるのです。
唯識思想は、縁起を「依他起性」と言い換えます。
ですから、依他起の故に、無我である、と言うことが出来ます。
身体を依他起性的に見ていく、ということは、
この身体を無我的な身体、すなわち、自分のものではない身体、と見ていくことになります。
しかし、このように、言葉で考えられた身体は、やはり、遍計所執性としての身体観になってしまいます。
依他起性としての身体は、阿頼耶識としての対象としての身体であるのですから、
それを直に知るには、聞思修の三慧(もん・し・しゅうのさんえ)の実践、念定慧(ねん・じょう・え)を通して、知らされていくのです。
正聞薫習(しょうもんくんじゅう)、無分別智(むふんべつち)を起こしていくことによって、
身体に対して執着している自分を捨てて、
もう一人の自分で、生かされている身体をじっくりと観察し、味わってみる時に、
そこに新しい身体観が生まれ、同時に新しい生き方が展開するかと思います。
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