文化庁メディア芸術祭愛知展企画シンポジウム
「メディアと芸術ーフォルマント兄弟のまなざしから」
の講演を聞いてきました。
以下、フォルマント兄弟についての説明。
フォルマント兄弟は、三輪眞弘(兄)と佐近田展康(弟)という父親違いの異母兄弟によって2000年に結成された作曲・思索のユニット.テクノロジーと芸術の今日的問題を《声》を機軸にしながら哲学的,美学的,音楽的,技術的に探求し,21世紀の《歌》を機械に歌わせることを目指す.“録楽”と名づけた音楽の在り方を考察し,亡きロックスターに日本語で革命歌「インターナショナル」を歌わせる《フレディの墓/インターナショナル》により,2009年アルス・エレクトロニカ デジタル・ミュージック部門入賞.
(webより引用)
フォルマント兄弟の作品中では、MIDIキーボードの演奏により、人工音声で歌わせる、喋らせる、という事が行われている。例えば、鍵盤の黒鍵が母音、白鍵が子音というように割り当てられていて、人工音声が歌うという事が、鍵盤のリアルタイム演奏により行える。それにより、人工音声がどういった言葉でどの音程で歌うかという事を、五線紙上に書き表す事が可能になっている。
今回の講演を聞いていて、面白いなと感じた点は、人工音声がどのように歌うかが五線紙上に書き表されていて、演奏者の弾くという行為が、人工音声の歌うという事に結びついている部分である。
まず、音について、考えてみる。
音は、何らかの物理現象によって発せられている。そして、どのような物理現象によって、どんな音が発せられるかについて、人間は経験的に学習していると思われる。例えば、石を床に落とした時にどういう音がするか、弦を弾いた時にどういう音がするか、また重たい物を落とした時と、軽い物を落とした時に、発せられる音にどのような違いがあるかなど。
それとは逆に、音を聞いて、それがどのような物理現象によって発せられているかについても、経験的に学習している。「ゴロゴロゴロ」とした音を聞けば、何か物が転がっているんだなとか、聞こえてきた音の違いによって、これは軽いものが転がっているんだなとか、でこぼこした物体が転がっているんだなとか、予想がつく。
経験していないものに関しても、既に、経験して知っている知識とその組み合わせにより、音がどのような物理現象によって発せられているか、予測をしている。
また、音を聞いた時に、そのような物理現象の他に、その物理現象を起こすための、身体行為や身体感覚もセットになって感じ取っているのではないかと思われる。
例えば、ボールを思いっきり投げて、壁にぶつけた時の音を聞いた時に、体の筋肉をどれくらい力を入れてボールを投げたかの身体感覚も無意識の内に感じているのではないだろうか。
ここでフォルマント兄弟の作品に話を戻す。
演奏者は、楽譜を見て鍵盤を弾く前に、頭の中では、これからどういった身体行為を行い、どういった音が聞こえてくるか、予想ができている。予想という言葉を使うと書き方が悪いかもしれない。こういった音が聞こえてくるものだと、当たり前のように確信している。
ゆえに作品中では、演奏者は、その確信を裏切られるという事になる。身体行為によって、こういう音が出るだろうと、当たり前のように思っていた事が裏切られて、違う音が聞こえてくる。
また、そこで聞こえてきた音も「声」という、人間の身体をもっとも感じやすい音を聞かされる事になる。
自分は決して歌ってなんかいないのに、歌声が自分の指を動かす身体行為によって聞こえてくる、なんかおかしいぞ、と感じる。
演奏者は、どうすればどういった音が出るのかについて、もっともよく知っている「声」を、普段発声する時の身体行為とは異なる行為によって聞かされる事になる。
ここで、もう一度裏切られる事になる。
この二つの裏切りによって、演奏者は、奇妙な感覚が生まれてくるのではないだろうか。その奇妙な感覚というのは、三輪さんが言っていた、まるで自分が機械に操られているような感覚を感じるという部分に繋がっていくような気もする。
そして、この裏切りが作品の魅力にも繋がっているのではないだろうか。