さやさやママのたからもの

心臓病児&シャイボーイ&甘えん坊っ子のママのつぶやき。

“お元気クリニック”のパッチアダムスさん

2007-07-29 22:32:13 | Weblog
まぁのバスケからも解放されて、久々に自分の休日がとれたので
『パッチ アダムス』さんんのDVDを見た。
もともとチャイルドライフスペシャリストに興味があったし
でもDVDがあるって知らなかったから感動。

感想は・・・
彼は特別な人ではなくて、どちらかといえば普通の人だ。
病むし悩むしくじけそうにもなる
素晴らしいのは“続ける”という行動力は人並みはずれてるとこ。
彼も自分の病んだ経験から何かを見つけ、それから勉強をはじめて遂げたのだ。

とてもパワーをもらった。
なにかをしたいと思うだけではなくて努力も続けなきゃいけないよね。
そしていつも思うことだけど
「どれだけ生きたかよりもいかに生きたかが大切」
いわゆるクオリティーオブライフの重要性を確信できた。

さてまずは一歩づつ・・・大学の課題にとりかかろう。

 《 お知らせ 》
パッチ・アダムスが3年ぶりに来日し横浜と広島で講演会がある。

詳しくは http://patchadams.jp


パッチ・アダムス講演会2007in横浜
テーマ:What is your Love Strategy? 
    -あなたの未来へのアクションは?-
日時:8月25日(土)13:30~16:00
場所:パシフィコ横浜 国立大ホール
参加費:4000円(同時通訳)

テーマ:“The Joy of Caring”
     ―ケアすることの歓び―
日時:8月26日(日)13:30~16:00
場所:広島厚生年金会館
参加費:4000円(同時通訳)

by 広島の講演会にいこうかなぁ~れい

熊本県主催 ピア・カウンセリング事業

2007-07-28 12:49:18 | Weblog
パレアホールにて開催されたシンポジュームにて
さやに発表をさせてもらえる機会をいただきました。
大勢の教育関係者や保健婦さんや行政関係の方の前で
つたない話しでしたが精一杯の発表ができたようです。

今回は母親として初めて子離れをしてみました(苦笑)
準備のための会議から当日まで、さや本人がなんとかやってました。
見守るって・・・イライラしましたが、当日はハラハラでしたよ。
親子ともに良い機会をいただけて、ありがとうございました。



『シンポジウム/子どもの立場から』

《 学校 》
小学生の時、卒業の記念にクラスのみんなで『42.195kmを2時間23分14秒で走った高橋尚子選手の記録を超そう』という企画をやりました。小学校の高学年から運動制限があった私は、体育の授業はほとんど見学でした。でも、自覚症状がほとんどない私は、その企画になんの迷いもなく参加すると決めていました。しかし担任の先生に
「沙矢香は自分の番になったら歩きなさい。」
と言われて私はすごくガッカリしました。それと同時に『そんなこと言われたら絶対早く走ってやる!』となんだかよくわからない反抗心が湧き上がってきました。
企画の当日、順番が来た私は全速力で走り出しました。先生は慌てて
「ゆっくりぃー!」
と叫んでいましたが
「本気で走るのはこれで最後にするからー!」
と言って、私は自分の番を充分に満喫して走りました。実は私にはその数週間後に二回目の手術が決まっていました。先生は私の手術の入院前にと、企画の日にちを決めてくれたのです。だから私はどうしても精一杯に走りたかったのです。走り終わった私に先生は呆れた顔ででも笑って
「無理すんなよー。」
と言いました。当時はしてやったと、ただそれが嬉しかったけど、今思うと何が起きるかもわからない体の私にあんな走りをさせてくれた先生が本当に有難いと思います。
 入院の都合で小学校の卒業式にも出席できなかったけど、私は素晴らしい思い出をもらいました。


《 病気のことで初めてないた日 》
 私が病気のことで初めて泣いたのは、中学校の時でした。二回目の手術を受けた後の私は、完全に運動は禁止でした。もちろん体育祭の練習にも参加できず、全体練習をグラウンドの端で見学していた時のことです。一人の先生が私に歩み寄ってきました。そして私に
「あなた何か手伝ったら?」
と言いました。そして
「あなたは病気に甘えてるのよ。」
とも言われました。
私は何もわかってもらえていないことが悔しくてたまりませんでした。体育祭の練習はきついと思います。もしも私が健康で、体育ができるのが当たり前ならやりたくないかもしれません。でも、運動制限のためにいつも体育を見学していると、みんなと一緒に練習をしたくなるのです。一人で見学しているのはつまらないけど、仕方ないのです。
「あなたは病気に甘えている」
という言葉が先生からだったのもショックでした。守ってくれると信じていた先生という立場の人からの言葉は、私にはとても大きな影響を残したと思います。
 迎えの車に乗ったら突然に涙がでてきて止まらなかったのを覚えています。


《 事実 》
二度目の手術の後から私はワーファリンを飲み始めました。人工弁がはいったので一生飲み続けなければならないようです。だから出産するのは難しいかもしれないと親から聞かされていました。また、もし自分と同じような病気の子どもが生まれてきたら、自分と同じ苦しみを味あわせてしまうとかわいそうなので、子どもは産みたくないと思っていました。でも、本当は自分の子どもを育ててみたいと思っていました。診察の時に思い切って
「私は子どもを産むことができますか?」
と先生に聞いてみました。先生は、優しくフォローをしながらも私には出産することは難しく、もし無事に出産を終えても、その後子どもを育てていく体力が無いだろう、と言われました。その時は平気な顔をしていましたが、福岡からの帰りのバスの中で、カーテンに隠れて泣いてしまいました。友達にメールでその事を相談したけど、私の気持ちを本当にわかってくれる人は居ませんでした。私が子どもを生めないことも、友達に悲しさが理解してもらえないことも、仕方がないと思っています。けれど私はこうやって少しづつ健常者にはわからない苦しみを味わい始めたように思います。


《 心友会 》
私は“心友会”に入ってます。心臓病のこどもたちが成長して、当事者で作っている会です。心臓病といってもいろんな病名や症状や服用している薬など、みんなさまざまです。だから食事制限や運動制限などもそれぞれに違います。でも術後の傷跡や健常者のペースについていけない等、病気であるが故の悩みはみんなで共有できると思います。私くらいの年代になると、進学や就職や恋愛や結婚などについて気になってきます。そんな時に同じ心臓病の仲間が居ると、互いの気持ちや状況がとてもよくわかり、確信をついた相談ができます。普段はメールでのやり取りが主で、逢って話すことはあまりできません。だから今年に入って“お喋り会”というものを行いました。ちょっとしたイベントがあると、顔を見ながら会話ができ、より多くの情報交換や問題解決をすることができると考えたからです。“お喋り会”はまだまだこれからですが、同じ病気を持つ仲間は私達にとって大きな支えになってくれます。大切に育てていきたいと思います。


《 家族(母)紙芝居 》
これまで私が“お喋り会“や”ハートプラスマーク“の普及等様々な活動ができてきたのは、家族があったからです。特に母はいろんな会やイベントやインターネットを通じて私に多くの人々との出会いをつくってくれました。そして、私をいろんな場所へ連れて行ってくれました。その人脈と行動力があったからこそ私は今、色んな活動ができているのです。
数年前、母は紙芝居を作りました。“さやちゃんのたからもの”という紙芝居です。内容は、私が小学校入学の時、同じ学年の友だちに
「私は心臓病で胸には長い傷がある。でもその傷は、私を助けてくれた大事な傷なのだ」というとこを説明した時のことが書かれています。目に見える傷でも、目に見えない辛さでも、なにもかもをオープンに話すことで友だちは病気である私を受け入れてくれました。今、この紙芝居は北海道から鹿児島や四国のいくつかの小学校や病院内で見てもらっています。自分の体験が心臓病の後輩たちのちょっとでもアドバイスになれたら嬉しいです。
素敵な仲間を私に与えてくれた母に本当に感謝しています。

by 子の成長に涙のれい



手紙

2007-07-21 22:37:12 | Weblog
まぁにバスケ部の先生から手紙が届いた
学校から帰ったまぁは一番に手紙を読んだ。


中体連大会、お疲れさまでした。
3年間のバスケット生活、本当にお疲れさまでした。
中体連でのまぁの一生懸命なプレーに感動しました。
必死にボールを追い、自分ができることを100%に表現しようとする姿に
「これが大事なんだ!」
と思わず叫んだものです。

  《中略》

まぁは私の誇りです。
出会えたことに心から感謝しています。

  《中略》

まぁがバスケットで学んだ宝物は他のメンバーよりも多いのです。
それを手に、これからどうやって生きてゆくかが問われますよ。
私もしばらくは会えないかもしれませんが、
これで関係が切れてしまうわけではありません。

いつまでも応援していますよ。

                  《たくさん省略しました》

という内容のお手紙。
まぁにはこれこそが宝物でしょう。
大事そうにベットの棚において寝てました。
まぁは幸せ者ですね。
まぁが幸せだとれいも幸せ者ですよ。

by とても感謝のれい

さやの生きる道さがし

2007-07-16 19:59:09 | Weblog
さやの病気を宣告された時
「生きててくれたら、それだけでいい」
と思った。

さやのオペ入院が無事に済んで退院した日
「絶対にしあわせにする」
って思った。

さやがお友だちと遊ぶようになった頃
「成績なんてどうでもいい、お友だちがたくさんつくれれば。」
と思った。

さやが運動制限でお友だちと同じ行動ができなくなった頃
「本の中で楽しく遊ばせてあげよう。」
と思った。

さやがお友だち関係で悲しい思いをした時
「運動や音楽(吹奏楽)はできないけど、勉強だけは裏切らない。」
と言い聞かせた。

17年間、ママは必ずさやを守るよってメッセージをおくりながら育ててきた。

さやが悲しい思いをしてないかなって心配で心配で
できれば傷つかないでいられるように大事に守ってきた。
それでもさやが病気という現実から逃げないように
心を鬼にして厳しくもしてきたつもり。

そろそろ自分の人生を自分で決めなくちゃならない時期にきたけれど
さやはどんな結論をだすのだろう。
いつも誰かに守られて生きてきたさや
これからも誰かの支えは必要なさや
その中でさやなりの自立の道を見つけてほしい。

ママがずっと生きつづけることができるのなら
さやに自立はもとめないけど
いつかはママはいなくなるから
さやよりも早くママはいなくなるから
それがママの願いだから
だからここは踏ん張って、自分で自分の道を見つけて欲しい。

病児を育てるって、ホントとっても難しいよ。

by 黙ってみてるのが苦手なれい

悲しい情報

2007-07-15 18:48:01 | Weblog
ひさしぶりにPCをひらいた。
ずっと時間がなくてPCを見る余裕がなかった。
久しぶりだったからお気に入りブログをかたっぱしから見てた。
そしたら・・・
ここでも紹介した事がある『がつうさん』の訃報を見つけてしまった。
うそでしょって思った。
信じられないよ。
難病で治療法もなくてだんだん体が不自由になっても
家族と支えあって生きていた人なのに。
いつもそこで元気とパワーをもらってたのに。
ちょうどレポートやスクーリングにおわれてて
がつうさんが入院して胃ろうの手術をうけてたことも知らなかった。
なのにいきなり「旅立ちました」なんて書かれてても
信じたくないよ。

神経難病はとても過酷な病気だ。
意識は鮮明なまま身体だけが不自由になってゆく。
そんな中で賢明に生きてこられたがつうさん
本当にお疲れ様でした。

by まだ信じられないれい

感動をありがとう

2007-07-04 00:11:40 | Weblog
まぁの中学バスケが終わった。

中体連の最後の日
朝からドタバタしてた時に
「かっさん・・・これまで俺がバスケをする世話をしてくれてありがとう。」
といきなり正座で頭をさげたまぁ。
なにがなんだかわからなかったれいはじわぁ~っと感動の涙がでたよ。

そんなサプライズで始まった一日はやっぱりサプライズな一日だった。
宿敵の戦いは惨敗ムードで、お互いに次の試合にむけてスタメンを休憩におろした。
まぁはサブとして出場
でもそのプレーはサブじゃなかった。
動き回ってボールをカットして苦手なシュートもバンバン決めた。
なんと残り1秒で打ったシュートは終わりのブザーと同時にみごとな3ポイントを決めた。
まぁはそこにいた保護者をプレーで泣かせた。
2年間まぁを育ててくれた転勤された先生も休暇をとって応援にきてくれて
まぁのプレーに男泣きされてた。
「あの3ポイントシュートはママへのプレゼントよ」
保護者のみなさんに言ってもらった。

そして負けたらいよいよ中学最期の試合
スタメンの調子が悪くてどうしてもリードすることができない
そこにまぁが起用された。
出れるはずもなかったシーンにまぁがいる。
しかもチームの誰よりも動いてる
まぁの姿はいつもの初心者のまぁじゃなくて
県の選抜選手よりも輝いてたよ
「チームの誰よりもまぁがひかってた」
と先生に言ってもらった。
いろんなことがあったけど、悩んでも悔しくても苦しんでも
くさらずに最期まで正面から向き合えた結果だよね。

チームが負けて戻ってきたまぁはそのまま先生のところに行った
そこではなにがかわされたかわからないけど
先生とまぁ二人とも目が真っ赤だった。
「中学生のバスケは終わったけど、人としてのつながりはづっと続くから
俺は御前をづっと見てるからいつでも電話してこいよ。」
と言ってくれた先生。
泣きながら二人で写った写真は一生のたからものです。

まぁ、感動をありがとう
あきらめないことの素晴らしさをおしえてくれてありがとう。
ママはまぁがいてくれて本当にうれしいよ

by 世界中の誰よりもまぁのファンのれい