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極道ブログ

暴力団・任侠・極道のニュースをまとめていきます

三代目山口組

2008-03-15 | 山口組
昭和17年(1942年)10月4日
 山口登が死去
 山口組は三代目を作らず、舎弟会が運営
 山口登の死後、山口組若頭の澄田実が山口組から去る

昭和18年(1943年)7月13日
 田岡一雄が「皇紀2600年」の恩典で2年減刑、高知刑務所を出所

昭和20年(1945年)
 新開地の花月劇場を本拠地に自警団を結成、闇市への不良在日外国人の干渉を排除

昭和21年(1946年)7月
 山口組舎弟会が開催
 山口登の若衆だった藤田仙太郎(元関脇・山錦善治郎)が、山口組三代目に田岡一雄を推挙、全員が賛成

同年10月13日
 田岡一雄の山口組三代目襲名式

 山口組三代目の初代若頭に、山田久一が就任
 組員は、先代の舎弟6人、先代の若衆14人、田岡一雄の直系若衆13人だった。

昭和21年(1946年)10月
 自宅兼山口組事務所を、神戸市生田区(後の中央区)橘通りの神戸地方裁判所前に移転

昭和22年(1947年)2月
 地道行雄(後の三代目山口組若頭)が若衆となる

同年8月15日
 民間貿易の再開が許可
 港湾事業に積極的に参加

同年12月13日
 新居利治の養子・新居良男に舎弟盃、二代目小天竜組を襲名

昭和23年(1948年)6月
 連合軍司令部経済科学局民間運輸課は、コンファレンス・メモ(荷役作業の下請けと第二次下請けの禁止)

昭和24年(1949年)4月1日、
 神戸港の船内荷役業者15業者が親睦団体「港洞会」が結成、田岡一雄が港洞会会長に就任

昭和25年(1950年)
 山田久一を若頭から解任、後任は安原政雄

同年6月25日
朝鮮戦争が勃発、神戸港が朝鮮半島の米軍への補給基地となる
港湾業務の下請けを禁止したGHQのコンファレンス・メモは有名無実化

同年9月
 地道行雄・西梅組の抗争
 西梅組組長は、地道行雄に、神戸競輪場での仕事を譲り、神戸競輪場での仕事を手に入る

昭和26年(1952年)5月
 運輸省が、港湾運送事業法を制定
 田岡一雄は再び港湾事業に進出

同年
 山沖一雄を山口組興行部の番頭に据える

昭和27年(1952年)1月17日
 港洞会を改組して「港湾荷役協議会」を設立、港湾荷役協議会会長に就任

同年
田端義夫を山口組興行部(後の神戸芸能社)の専属とする

昭和28年1月
鶴田浩二襲撃事件

昭和29年(1953年)12月
 山口組若衆・石井一郎(通称は別府のジャギ)が、別府市に石井組を起こす
 山口組初めての九州の拠点


同年9月3日
 尾崎彰春と山口組若衆の小田芳一(後の三代目山口組若頭補佐)が、谷崎組若頭・野沢修(後の山口組山健組の客分)と口論となり、暴行を受け、重傷
 山本健一(後の三代目山口組若頭)と梶原清晴と北山悟が野沢修の自宅を襲撃、野沢修は重傷
 谷崎組は瓦解 山本健一が懲役3年の実刑判決、加古川刑務所に服役
 山口組は本多会とともに神戸市のヤクザ社会を2分する勢力となる

同年
 安原政雄に代えて、地道行雄を山口組若頭とする

同年
 「二十大歌手による民放祭」
 田岡は合意書に署名するときに、「山口組興行部」ではなく、「神戸芸能社」の名称を用いた。

昭和31年(1956年)4月
 第二次下請けの労務者を集めて「神戸港港湾労働組合連合会」を結成
 総評系の「全港湾労働組合神戸支部」、「全港湾労組神戸支部」は第一次下請けの労務者のみによって結成されていた

同年7月12日
 小松島抗争が勃発した。

同年8月29日
 港湾荷役協議会を解散、全国の船内荷役の第二次下請けが集まった全国規模の「全国港湾荷役振興協会」を設立

昭和32年(1957年)
 山本健一(後の三代目山口組若頭)と山本広(後の三代目山口組組長代行、一和会会長)が若衆となる

同年3月27日
 別府抗争が勃発

同年10月
 田中禄春(韓禄春)は、大阪市淀川区十三の山口組中川組・中川猪三郎組長の紹介で、田岡の若衆となる

同年11月17日
 山口組小松島抗争への介入

昭和33年(1958年)4月1日
 正式に「神戸芸能社」の看板を掲げ、美空ひばりが神戸芸能社の専属
 田岡が「ひばりプロダクション」の副社長に就任した。

同年
 高知市市議会議員の中井組・中井啓一組長を舎弟とする

昭和34年(1959年)5月
 柳川組・柳川次郎組長(通称はマテンの黒シャツ。梁元錫)が地道行雄と盃を交わし、地道行雄の舎弟となる。

同年11月
 山口組・井志繁雄の紹介で、元国際ギャング団の首領だった菅谷政雄(後の山口組若頭補佐)を若衆とする

昭和35年(1960年)7月15日
 今治市の矢嶋組・矢嶋長次組長が、山口組直参となる

同年8月9日
 明友会事件が勃発

同年12月13日
 柳川次郎と別府市の石井組・石井一郎組長の直系昇格が決定

同年
 柳川組は、大阪に進出してきた他の山口組系列団体と紛争
 田岡一雄は、各組の利害調整のために、南道会・藤村唯夫会長(後の三代目山口組七人衆)を、大阪地区の総責任者としたが、柳川組の膨張に歯止めはかからなかった。
 地道行雄は、山口組幹部たちに、柳川組を他府県に進出させることを提案し、田岡が最終的に了承した。

昭和36年(1961年)2月21日
 池田勇人首相は「暴力犯罪防止対策要綱」を閣議決定

同年
 福岡県福岡市の伊豆組・伊豆健児組長に盃を与え、山口組直参とした。

同年
 鳥取県米子市の山陰柳川組(組長は柳川甲録。柳甲録。地道行雄の舎弟)が鳥取県鳥取市に進出
 鳥取市の菅原組・松山芳太郎組長は、田岡に対抗するために、本多会若頭・平田勝市から盃を貰い、菅原組を平田会鳥取支部と改称

同年10月4日
 柳川甲録と小塚組・小塚斉組長(地道行雄の舎弟)を、山口県から京都府までの日本海側の地区の責任者に任命した。

同年12月
 菅谷政雄に、錦政会の縄張りだった神奈川県横浜市で、菅谷興業横浜支部を結成させる。

同年12月13日
 地道行雄の推薦した竹中正久(後の四代目山口組組長)を直参とする

昭和37年(1962年)1月16日

 夜桜銀次事件

同年1月
 柳川組の京都に進出
 中島会・図越利一会長(後の三代目会津小鉄会長)は、武力で柳川組に対抗すると同時に、本多会・本多仁介会長を通じて山口組に働きかけ
 柳川組は京都進出は中止

同年2月
 田岡は、井志組・井志繁雄組長に、神奈川県横浜市中区山下町の南京街で、井志組横浜支部を作らせた。

同年春
 柳川組が、松葉会と中島会との抗争の手打ち式に出席
 中島会が松葉会を襲撃して手打ち破り、

同年6月
 益田組・益田芳夫組長が、横浜市で「山三食品」を開店

同年
 ブルースカイ事件が勃発


同年夏ごろ
 児玉誉士夫が「東亜同友会」の構想を掲げ、錦政会(後の稲川会)・稲川裕芳(後の稲川聖城)会長、北星会・岡村吾一会長、東声会・町井久之会長らの同意を取り付け

同年8月
 第二次広島抗争を参照

同年12月13日
 田岡一雄が企業を持った幹部が若衆を持つことを禁じた。

同年
 田岡、竹中正久をボディガード役にする

昭和38年(1963年)2月
 神戸市須磨区の料亭「寿楼」で、田岡一雄と町井久之との結縁式

同年
 国鉄三宮駅前に、地下街「さんちかタウン」が建設が決定

同年2月11日
 京都市の「都ホテル」で児玉誉士夫の「東亜同友会」構想が披露

同年3月
 田岡は全国港湾荷役振興協会事務所で、全国港湾荷役振興協会会長・藤木幸太郎から右翼の田中清玄を紹介された。

同年3月13日
 大垣市高島町のバー「夕暮」で、山口組柳川組西原組組員と本多会系河合組組員とが喧嘩

同年3月14日
 河合組組員と河合組の友誼団体木原組組員17人が、西原組組員10人の宿泊先だった大垣市高橋町の旅館「みその」を襲撃、1人が死亡
 本多会若頭平田勝市は、自身の平田会を率いて、大垣市に入った。
 田岡は、地道行雄を大垣市に派遣した。
 山口組は本多会を破ったが、岐阜は地道組の直轄となった。

同年3月
 グランドパレス事件

同月
 警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会の5団体をを広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた。

同年5月
 紫川事件

同年8月
 田岡は協議機関「七人衆」を設置
 地道行雄、松本一美、藤村唯夫、松本国松、安原武夫、岡精義、三木好美が七人衆となる

同年11月9日
 田中清玄銃撃事件

同年12月3日
 田岡一雄は、竹中正久(後の四代目山口組組長)を直若とする。

同年12月13日
若頭補佐を新設
 吉川勇次、山本健一、菅谷政雄、梶原清晴が若頭補佐に任命

昭和39年(1964年)1月
 「暴力取締対策要綱」が設置

同年2月
 第一次頂上作戦を開始

同年
 小田秀組・小田秀臣組長を山口組直参とする

同年3月
 日本国粋会・森田政治会長と地道行雄が五分の兄弟盃を交わした

同年3月5日
 柳川組幹部一同が、谷川康太郎を柳川組二代目に推挙

同年3月26日
 警察庁は改めて広域10大暴力団を指定
 10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会、東京・日本国粋会、東京・東声会、川崎・日本義人党、東京・北星会

同年6月6日
 第1次松山抗争を参照

同年7月10
 谷川康太郎は、地道行雄の舎弟となる

同年7月25日
 田岡一雄が、山口組本家で谷川康太郎に若中の盃を与えた。二代目柳川組は山口組直参となった。

同年
 美空ひばり・小林旭が離婚

昭和40年(1965年)
 山口組に対する第1次頂上作戦が本格化
 港湾事業のしのぎを失う

同年4月
 二代目細田組・細田利明組長が盃を与え直参若衆となる

昭和41年(1966年)12月5日
 藤村唯夫が、国立大阪病院で肝臓疾患により死亡

昭和43年(1968年)1月11日
 田岡一雄、吉本興業社長・林正之助が共にレコード会社乗っ取り容疑で兵庫県警に逮捕

同年2月7日
 地道行雄を若頭から解任
 後任の若頭に、梶原清晴
 若頭補佐には、山本健一、山本広、中山美一、白神一朝、小田秀臣、小田芳一が任命

昭和44年(1969年)
 柳川次郎と谷川康太郎を絶縁

同年
 旧柳川組だった石田章六(朴泰俊。後の六代目山口組顧問)、野澤儀太郎(後の五代目山口組舎弟)、金田三俊、藤原定太郎を山口組直参する。

同日
 梶原清晴が、恐喝容疑で兵庫県警に逮捕

同年4月27日

同年5月15日、地道行雄が死亡した。

同年5月18日、田岡一雄は、二代目地道組を認めず、地道組若頭・佐々木道雄(後の一和会幹事長)を山口組直系とした。

同年6月
 石井一郎は、石井組を再結成、本拠は別府市から大分市泉町に移し、田岡は再び大分に拠点を持った。

昭和45年(1970年)4月
 菅谷政雄は、傷害及び賭博開帳図利により、服役

同年10月17日、菅谷政雄が出所した。

昭和46年(1971年)5月
 山口組は、傘下組織478団体、組員10508人となった。

同年7月5日
 山口組の機関紙である季刊誌『山口組時報』が創刊
 発行人は梶原清晴、編集人は小田秀臣

同年7月25日
 梶原清晴は、鹿児島県硫黄島で、磯釣りの最中に高波にさらわれ溺死

同年7月26日
 山本健一、山本広、菅谷政雄、小田秀臣、小田芳一、中西一男(後の四代目山口組組長代行)の若頭補佐は、若頭補佐全員の互選によって、若頭を選ぶことを決定
 田岡一雄も若頭補佐全員による互選を了承、山本広が後任の若頭に内定

 田岡一雄は菅谷政雄を呼び、菅谷に、山本広に若頭を辞退させる説得を以来、山本広は若頭を辞退

同年9月5日
 山本健一は、三代目山口組若頭に就任
 小田芳一が、山本健一の若頭就任に反対し、若頭補佐から解任
 若頭補佐には、山本広、菅谷政雄、清水光重、小田秀臣、中西一男、大平一雄(松浦一雄)、竹中正久の7人が任命

同年
 長谷川工務店、ニューキョート・ホテルの建設請負仮契約を解約

昭和47年(1972年)
 益田佳於が若頭補佐に任命

同年
 田岡の病状はやや回復し、下呂温泉に二泊三日の旅行に出かけた。

同年
 高知県高知市の豪友会・中山勝正会長(山口組中井組若頭)が、山口組直参になる。

同年10月24日
 田岡一雄の自宅で、山本健一と稲川会・石井進(後の稲川会二代目会長)理事長の兄弟盃が交わされ、田岡の後継者が山本健一であることを示す

同年10月
「山口組"総会屋に変身"」と読売記事

昭和48年(1973年)
 小田秀臣と織田譲二は、東亜友愛事業組合と交渉、東亜友愛事業組合沖縄支部(支部長は、宣保俊夫)が、山口組直系となる

同年5月3日
 田岡一雄は、『週刊アサヒ芸能』に、「田岡一雄自伝」の執筆を開始

同年5月
 姫路防犯協連合会は、東映映画「三代目山口組」(企画は日下部五朗、武久芳三、田岡の息子・田岡満)を上映拒否を決議

同年7月
 加茂田重政が、千葉刑務所から出所

同年、小西音松が若頭補佐に任命される

同年
 静岡県富士宮市で、山口組菅谷組川内組(組長は、川内弘。北陸の帝王)系後藤組と山口組菅谷組一心会(組長・丸井清)富士宮支部が内部抗争
 菅谷政雄は、丸井清に有利な、川内弘に不利な裁定

同年8月
 東映映画「三代目襲名」が封切り

同年10月1日
 神戸地方法務局は、神戸芸能社を休眠会社に指定

同年11月15日
 菅谷政雄が出資法違反で逮捕

同年11月27日
 東映が「山口組三代目・激突篇」の製作を中止

昭和50年(1975年)1月15日
 最終号となった『山口組時報』第11号が出された。

同年
 第4次沖縄抗争を参照

同年7月26日
 大阪戦争が勃発

同年9月9日
 警視庁は、大阪戦争を契機に、第3次頂上作戦を開始

同年10月
 菅谷政雄の謹慎処分が決定

同月
 田岡一雄は、菅谷政雄の謹慎を解き、菅谷政雄は若頭補佐を解任、筆頭若衆に降格


昭和52年(1977年)1月24日
 三国事件が勃発

同年4月15日
 菅谷政雄を絶縁

同年9月27日
 警視庁長官・浅沼清太郎は、山口組壊滅作戦を指示

同年12
 加茂田重政、細田利明、正路組・正路正雄組長、中山勝正を若頭補佐に据えた。

昭和53年(1978年)7月28日
 岐阜市の瀬古安会・安しょうかん[10]会長と菊田組・菊田吉彦組長を除籍処分とする

同年
 山本健一は、田岡の了解を得て、清水光重に断指を命じ、若頭補佐を解任

昭和54年(1979年)2月
 大平一雄、小西音松、細田利明、正路正雄を、若頭補佐から解任

同年4月16日
 山口組と、関西二十日会に所属していた共政会・侠道会・浅野組との共存共栄路線が確認

同年6月
 溝橋正夫が若頭補佐となる。

同年6月9日
 清水光重が死亡

昭和55年(1980年)1月10日
 姫路事件が発生

昭和56年(1981年)7月23日
 田岡一雄は、急性心不全により死去



16 コメント

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工□ーーイwwwwww (課長)
2008-07-17 01:48:46
勹り├りスをとことん攻めまくったらスゲー声出しながら顔面シャワーされちゃったよ(;´Д`)
俺の顔もTシャツもグッショグショになったし!ww
お返しにたっぷりガソシャしてやったら、なぜか5manヱンもお礼くれた(^^;イミフ
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うほっwwwwwwwww (ゆたか)
2008-07-29 15:35:22
>バキオ
さっそくヤってみたよ(^-^)v てゆうか、寝てるだけだったんだけどwww
上でずっと腰振ってくれてたからめちゃくちゃ楽でしたwwwwwww
まさかこんな簡単に6マソもゲット出来るとはね・・(^^;
教えてくれてサンクス!!!おかげでト〃ウテーも無事卒業できますたwww
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すげっっウマっっっすげっっっっ!!!!! (自習だ)
2008-12-22 17:18:43

今まで色んな女の子とヤったけど口でイかされた事なかったんだよね(´・ω・`)
でもここの女の子にヤってもらったら一瞬だったしwwwwww
人生初の口内発射は予想以上に気持ちよくて満足度200%でした(´ー`)

http://7lI5xJ7.bikubikubikini.com/
返信する
ふおぉぉぉぉおお!!! (こっけ)
2009-01-16 17:04:03

さっきマッサージしてもらってきたYO!
女の子ん家に着いて部屋に入った瞬間にズボン脱がされてビビったわw

ロ ー シ ョ ン → 手 コ キ → 足 コ キ → フ ェ ラ 抜 き

おいおいプロかよwwwwって言いたくなるくらいスムーズでワロタw
今日も無難に6万稼いだし順調だなー(`・ω・´)!

http://XznO6bH.abaoa.net/
返信する
いそぎ中継す!!!! (旋風脚)
2009-12-21 17:34:18



ちょwww 例のやつ今まさにやってる最中なんだが
女のひとがシャワーしてる隙に報告しるわ!!!1!11!
バック好きって聞いてたからその通りにヤっただけで
マジで8万もらえたぞ!!!! このまm
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ヌォォオオ!!!!!! (バーサーカー)
2009-12-26 14:21:00


おい!!!これ毎日やったら、借.金2 0 0 万 円 3週間で返せたぞwwww
てかむしろ5 0 万貯金あるしなヽ( ̄ ̄∇ ̄ ̄)ノ
パチ屋のイベントに向けてあと5 0 万軍資金用意しとこっと( ̄▽+ ̄*)
返信する
なんぞコレなんぞぉ!! (まさーしー)
2009-12-31 11:25:47

ぬオォォーーー!! w(゜д゜;w(゜д゜)w;゜д゜)w
奥さんにチ○ポしゃぶらせてあげたらホントに8万くれたぞ!!!!
裸エプロンのままハメたけどそれよりテンション上がったわwwwwww

返信する
短小ち○こに興奮しすぎ(ワラ (もじゃもじゃ君)
2010-01-09 13:14:07

優子ちゃんたら急に人気無い所で車を停めて
凄い勢いでズボン脱がしてきて、その後大変でしたよ。。。

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初セッ○ス大成功!! (らめ仙人)
2010-01-17 12:11:38

例のミドリさん、初めて会ったのに、僕の感じるとこ的確に攻めてくるんですよ(´*ω*)


やっぱ経験値の差なんですかね?
とことんまで抜かれちゃって、ボク昨日は一日中ミイラ状態でした(笑)
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王様扱いウマーw (キングダム)
2010-02-02 12:35:40

まさかオ ナ ホをあんな風に使ってくるとは思って無かったぞ( ̄0 ̄)w

一日経ってもまだ下半身ヒクヒクしてるし(;´▽`A
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