この映画、あまり気は進まなかったのだが、買い物の合間に時間があいたので、年内最後のレディースディのきのう見にいった。平日の午後だったせいか、新宿の繁華街の映画館にもかかわらず、空席が目立った。夜の回ならもっと混むのだろうか?
この映画、やはりきわめて問題の多い作品である。
でもその問題とする点は、通常いわれるように、ハリウッドの監督が描く日本や日本人の描写がおかしいとか、中国人の女優が芸者を演じるのが不自然だとか、芸者の髪型や着物の着付けが変だとか、そういうレベルでいいたいのではない。そういう批判は、私が一番避けたいと思っている文化本質主義につながるからだ。日本文化は日本人にしか表現できないという考えは文化本質主義である。同じく中国人にしか中国文化は理解できないと、よく中国大陸のメディアが主張するが、これもやはり文化本質主義の発想だ。
鞏俐や楊紫瓊は貫禄たっぷりに演じているし、ふたりとも私の好きな女優さんたちだが、確かにどうみても日本の芸者には見えない。でも章子怡は(舞のシーンは別として)実にはまり役だったよう思う。少女時代を演じた大後寿々花と、面差しまで似ているようにすら感じられた。「おしん」流の、困難と労苦のすえに上昇していく女性を演じさせたら、彼女の右に出るアジアの女優はいないのではないだろうか。
では何がこの映画の問題なのか?
『ニューズウィーク日本版』(12月14日号)が、「日本を誤訳するアメリカーなぜいつまでもゲイシャなのか」という特集を組んだように、なぜ、21世紀の今日にいたっても「フジヤマ、ゲイシャ」なのか、ということだ。
かつてディズニー映画が、「ムーラン」「ポカホンタス」など、エスニックなものを題材にしたアニメを次々と発表した。しかし、その結果は、民話が伝えてきた土着のエネルギー、猥雑さはそぎ落とされ、「人類の普遍性」の名のもとに、ハリウッド色でうすめられた、少し目先の変わったおとぎ話にしかならなかったのではないだろうか。
ハリウッドは自分たちの利益のためには、世界のありとあらゆる文化を食い物にしても、何の痛痒も感じない。曲解だの誤解だの俗悪だのと批判されても、商売になると見たら、節操もなく排他的に映画化権を獲得しようとする。世界のあらゆる民族誌を自分流に描くことが最大の特権のように思っているのだ。
『SAYURI』の最大の欠点は、きれいすぎることだ。確かに少女時代の千代は苦労に苦労を重ねるし、「さゆり」として一人前の芸者になったあとも芸者ならではの屈辱が待っている。しかし、その苦悩は、章子怡の熱演にもかかわらず、どこか表面的だ。遠い夢のような世界でのおとぎ話のようにふわふわとたよりない。
この映画が日本で公開されるにあたって、配給側もその辺は心配しているらしく、この作品はもとより日本をリアルに描いたものではなく、あくまでハリウッド映画として見るのが正しい、というような、一種のエクスキューズを予防線として張っているようにも思える。それにもかかわらず、この映画の記号はすべて、あやまたず「日本」を指していて、当のアメリカのジャーナリズムが、「ハリウッド流文化の誤訳」を批判し、心配しているというのに、日本にいる我々が、これは日本を描いた作品ではないのだから・・・などとものわかりよく、無批判に楽しんではいけないのではないだろうか。
「Memories of a Geisha」の世界観というのは、ひょっとしたら文学作品としては、その存在価値をもつのかもしれないが、ひとたび映像化されたら、すべては、アメリカ人が見た日本の表象に結びつく。そしてそのアメリカ(ハリウッド)が解釈し、表現してみせた「日本」を全世界の人々が受けとるのだ、ということに想像力を働かせてみるといい。
この映画、やはりきわめて問題の多い作品である。
でもその問題とする点は、通常いわれるように、ハリウッドの監督が描く日本や日本人の描写がおかしいとか、中国人の女優が芸者を演じるのが不自然だとか、芸者の髪型や着物の着付けが変だとか、そういうレベルでいいたいのではない。そういう批判は、私が一番避けたいと思っている文化本質主義につながるからだ。日本文化は日本人にしか表現できないという考えは文化本質主義である。同じく中国人にしか中国文化は理解できないと、よく中国大陸のメディアが主張するが、これもやはり文化本質主義の発想だ。
鞏俐や楊紫瓊は貫禄たっぷりに演じているし、ふたりとも私の好きな女優さんたちだが、確かにどうみても日本の芸者には見えない。でも章子怡は(舞のシーンは別として)実にはまり役だったよう思う。少女時代を演じた大後寿々花と、面差しまで似ているようにすら感じられた。「おしん」流の、困難と労苦のすえに上昇していく女性を演じさせたら、彼女の右に出るアジアの女優はいないのではないだろうか。
では何がこの映画の問題なのか?
『ニューズウィーク日本版』(12月14日号)が、「日本を誤訳するアメリカーなぜいつまでもゲイシャなのか」という特集を組んだように、なぜ、21世紀の今日にいたっても「フジヤマ、ゲイシャ」なのか、ということだ。
かつてディズニー映画が、「ムーラン」「ポカホンタス」など、エスニックなものを題材にしたアニメを次々と発表した。しかし、その結果は、民話が伝えてきた土着のエネルギー、猥雑さはそぎ落とされ、「人類の普遍性」の名のもとに、ハリウッド色でうすめられた、少し目先の変わったおとぎ話にしかならなかったのではないだろうか。
ハリウッドは自分たちの利益のためには、世界のありとあらゆる文化を食い物にしても、何の痛痒も感じない。曲解だの誤解だの俗悪だのと批判されても、商売になると見たら、節操もなく排他的に映画化権を獲得しようとする。世界のあらゆる民族誌を自分流に描くことが最大の特権のように思っているのだ。
『SAYURI』の最大の欠点は、きれいすぎることだ。確かに少女時代の千代は苦労に苦労を重ねるし、「さゆり」として一人前の芸者になったあとも芸者ならではの屈辱が待っている。しかし、その苦悩は、章子怡の熱演にもかかわらず、どこか表面的だ。遠い夢のような世界でのおとぎ話のようにふわふわとたよりない。
この映画が日本で公開されるにあたって、配給側もその辺は心配しているらしく、この作品はもとより日本をリアルに描いたものではなく、あくまでハリウッド映画として見るのが正しい、というような、一種のエクスキューズを予防線として張っているようにも思える。それにもかかわらず、この映画の記号はすべて、あやまたず「日本」を指していて、当のアメリカのジャーナリズムが、「ハリウッド流文化の誤訳」を批判し、心配しているというのに、日本にいる我々が、これは日本を描いた作品ではないのだから・・・などとものわかりよく、無批判に楽しんではいけないのではないだろうか。
「Memories of a Geisha」の世界観というのは、ひょっとしたら文学作品としては、その存在価値をもつのかもしれないが、ひとたび映像化されたら、すべては、アメリカ人が見た日本の表象に結びつく。そしてそのアメリカ(ハリウッド)が解釈し、表現してみせた「日本」を全世界の人々が受けとるのだ、ということに想像力を働かせてみるといい。