2020年1月8日、曇のち晴時々雨。5日の七高山巡りのハリが脛に少し残る。軟になったものだ。今年最初の水曜登山だ。朝から小雨が降っているが天気予報では9時ごろ上がると。下もぬかるんでいるだろうから簡単に登れる山にして、小長井の毘沙天岳にした。161mの低山なれど三角点がある山だ。
9時11分駐車場を出発。駐車場の標高が50mほどだから100mほど登ればよい。水平距離でも1kmもない。年に一度くらいこんな日があってもいいではないか。笑ってくれるな。
山頂に真直ぐに伸びる道を登る、身ごしらえはザックまで背負って本格的に固めている。吾輩は西表島の足元(沢を少し歩く)を考えて今日はゴム長靴だ。先月の郡岳の時は祭り地下足袋で登ってみた(翌日つま先が痛かった)。
100mも進むと、左側に巨石が現れる。像や文字が刻まれている。
これは菩薩像かな
左の石には一ノ宮と彫られている。右の石は拡大すると
中央の像の上に天照皇大神、左の像の上に春日大神、同じく右には八幡大神とある。
良く分からぬ絵のようなものが彫ってある。
こちらはこの辺りの有力者の名前が刻まれてる。
宮地嶽神社と刻まれている。
坂の一番上部には首がない小さな石像が大きな石の上に2体。
ここを抜けると9時22分林道に出る。階段左に毘沙天岳公園の表示がある。ここから上は公園なのだ。
林道右手には、鶴田何某の碑がある。昔この辺りを治めていた鶴田遠江守の縁者の碑かな。
階段を登り公園の中に。
階段の道はすぐに分かれる。どちらを登っても山頂で合流する周回道だ。
100mも登ると、ベンチのある広場に9時30分出る。
ここも左右に分かれている。右の階段を登れば頂上のようだ。左は展望所のようだ。先ずは左に行ってみよう。
30m進むと、展望所と想像したところは、金刀比羅宮の祠があった。この辺りの漁師さんの安全を山の上から見守っているのであろう。
タイミングよく眼下の長崎本線を列車が走る抜ける。
広場に戻り、数十段の階段を登ると、三角点と、祠、展望台がある毘沙天岳の頂に9時38分着く。
樹木に覆われているから展望はあまりない。
展望台脇の急坂を下り、
左手下に公園の植木を見ながら下ると、
先ほど登ってきた道に出る。登る時には気が付かなかった、左手への道がある。
ここまではよく整備されているなと思いながら公園内を散策してきたが、左手に入った先は草が生い茂り荒れていた。人里離れた公園のよくある光景だ。
10時16分駐車場に戻る。ゆっくり1時間の散策であった。
これで今日は終わりでは、あまりにしたことなので、国道から左折して入ったすぐのところに、鶴田遠江守墓石群の標識があったから、そこを訪れようと一旦国道まで戻る。
標識にはここから2.5kmとある。地元の人に2度ほど訪ねたがなかなかこの場所が分からない。何しろ農道が入り組んでいるのと、目印が少ないから説明する方もどう説明してよいか分からないようだ。まして聞く方は右と左は分かるが、あとはちんぷんかんぷん。其れでもなんとか走っていたら、地図の南平(みなみびら)の平の字の上あたりで、
南平墓石群の標識を見つける、ここから300mとある。(目的は遠江守の墓がある岩宗墓石群を探していたのだが)。
山道のようなところを、標識(ここから150m)を頼りに登ると、
ついに見つけました、南平墓石群。11時7分。
「諫早市HPによる南平墓石群の説明」
鶴田遠江守の居城があった権現岳の南側丘陵(南平の裏山)に宝篋印塔、五輪塔が数十基祀られています。数百年の歳月を経て祭祀も絶え放置状態であったものを、昭和50年頃地元の人たちの手によって、集めて祭祀されたため、完全な形に組み合わされる塔は数基です。山中には墓域と思われる所が数箇所見つかっています。地元ではこの墓石群も鶴田遠江守の一族の墓であろうと伝えています。しかし、至徳2(1385)年の紀年をもつ宝篋印塔があり、遠江守の討死は天正10(1582)年と伝えられます。このため、これらの石塔は遠岳氏のものと推測され、天正5(1577)年文献史料にみえる遠岳治部少輔尭運の祖と推定されます。さらに遠岳氏の逝去に伴う遠岳一門による供養塔と考えられます。石材は安山岩製が多く、凝灰岩製のものもあります。
墓石群は案内標識が少なく、先ほどの標識も農道の中なので、分かりずらい。この後も岩宗墓石群を探したが見つけ切らず。
まだまだそれでも早いので小長井の日本一のオガタマノキを見に行く。
幸いにも数輪花が咲いていて、花の実物を見ることが出来た。この大木に花が咲いた姿は圧巻だろうなと想像する。満開の頃、観に来たいものだ。
少しばかり歴史散歩の日でした。