12月12日メモPart2。
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下線部分情報ソース未確定。以前日記に記した件は再記せず。
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1988年 - 岩波書店が絵本『ちびくろサンボ』を絶版とする。
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『ちびくろサンボ』(The Story of Little Black Sambo)
世界的に広く読まれている童話、絵本。
もとは軍医であった夫とインドに滞在していたスコットランド人、ヘレン・
バンナーマン(ヘレン・バナマン)が、自分の子供たちのために書いた
手作りの絵本であった。
のちに公刊され、多くの海賊版によって広く流布した。
一斉絶版問題
イギリスでもアメリカでも、この絵本は広く受け入れられ、一時は黒人のイメージを
向上させる本として図書館の推薦図書にまでなっていたが、公民権運動が進展し
た1970年以降に人種差別との関連性が指摘されはじめ、各地の書店や図書館
から姿を消した。(しかし、発売禁止や絶版の措置が取られたわけではなく、注文
すれば購入できる状態ではあった)
問題とされたのは、作品の中の男の子の名前「サンボ」がアメリカ合衆国とイギリ
スにおける黒人に対する蔑称と共通しているということ、サンボが169枚のパン
ケーキを平らげる描写が「大喰らいの黒人」を馬鹿にしているのではないか、サン
ボの派手なファッションは黒人の美的センスを見くびっている、黒人のステレオタ
イプな表現などである。
日本でも1953年(昭和28年)に岩波版が登場して以来、常に人気の高い絵本で
あり、主要な出版社から70種類を越えるいろいろな版が出版されていた。
1971年と1976年には光村図書刊行の教科書『しょうがくしんこくご 二年上』に掲
載されている。
1974年には児童文学家の灰谷健次郎が「おやすみなさい『ちびくろ・さんぼ』」に
おいて、差別的であると指摘しているが、鳥越信や石井桃子による「良書である」
という評価が優勢であり、大きな動きにならなかった。
1988年、事実上すべての出版社がこの絵本の出版を自主的に取りやめてしまう
ことになった。1988年7月22日にワシントン・ポストに掲載されたそごう東京店
の黒人マネキンに対する批判記事(マーガレット・シャピロ/東郷茂彦記者)を発端
として海外の黒人表現を見直す動きに誘発され、当時結成したばかりの有田喜美
子とその家族で構成される市民団体「黒人差別をなくす会」がこの絵本の主要な発
売主である岩波書店およびその他の「サンボ」の日本語版絵本を出版していた各出
版社に本書は差別的であると抗議。
岩波書店はこの本を絶版にし、他の出版社もこれに追随した。
当時オリンピック誘致活動を行っていた長野市では、市内の学校や家庭にある『ち
びくろサンボ』の書籍を廃棄処分にするようにという要請を行ったが、行き過ぎであ
るという批判もあり、撤回されている。
これらは、マスコミによって大きく取り上げられ、差別表現に神経質となった世論の
影響が大きい。またカルピスの商標、ダッコちゃん人形など、その他の黒人表現の
自主規制にも繋がった。
さらにこの運動の余波を受け、1989年には堺市女性団体連絡協議会が「童話・絵
本研究会」を設立し、『白雪姫』『みにくいアヒルの子』『こぶとりじいさん』
などが差別的であるとして修正・改善を求める要望を各出版社に送るなど、童話
に関連する差別問題は賛否両論を起こした。
こうした絶版措置を支持する声もある一方で、『ちびくろサンボ』に愛着を持つ人々
からは絶版措置に不満が起った。サンボ(zambo)は南アメリカにおいて、インディ
オと黒人の混血を指す語であり差別語ではないとする反論や、「サンボ」「マンボ」
「ジャンボ」はシェルパ族の中では一般的な人名であるという反論もなされている。
なお一部では、「発売禁止」措置が取られたかのように誤解されているが、出版社
による自主的な市場からの撤退であり、発売禁止になったわけではない。
日本では言論出版の自由が日本国憲法に明記されており、地方裁判所の事前抑
制として、出版差し止めの仮執行を行うことが理論的には可能なことを除いては、
民間や政府が「発売禁止」を行うことはできない。
またサンボの名についてはタミル人の文化から名付けられたとも指摘されている。
タミルでのサンボ(Sambo)の名前自体、ヒンドゥー教のシヴァ神からの由来の名
前の一つ、シャンボー(Shambho)の変化した名前であり、タミルの現地ではサン
ボの名前は幅広く使われている。
作者のヘレン・バンナーマン自身、ヒンドゥー教を信仰するタミル人が住む南インド
のタミル・ナードゥ州マドラスに在住していた事からバンナーマンもインドでイラスト
を描いた際、現地のサンボを視覚的に描いていたとも指摘されている。
なのでサンボとは黒人の事では無く、作品に登場するサンボと言う名前のタミル
人の子供の事を示しているとの指摘もある。
同様の植民地時代における黒人蔑視の思想を孕んでいると指摘される作品とし
ては、『ぞうのババール』、『ドリトル先生』シリーズなどがあるが、それらのいずれ
も日本国内で絶版措置はとられていない。
2005年(平成17年)守一雄は、1988年に岩波書店がこの本を一斉に絶版にし
た真の理由は、この本の出版契約を正式に交わしておらず、著作権上の問題が
あったためではないかという指摘をしている。
日本における復刊
1989年(平成元年)、一斉絶版措置に反対して『ブラック・サンボくん』(山本まつ
よ訳・阪西明子絵、子ども文庫の会)が出版されたが、大手の取次店での取扱い
がなされなかったため、一般にはほとんど知られないままであった。
1997年(平成9年)10月、当時信州大学教育学部助教授の守一雄は「森まりも」
という筆名で『チビクロさんぽ』という改作を北大路書房から出版した。
この改作本は原作のストーリーはそのままに、主人公を「サンボ」から「チビクロ」と
いう名前の犬に変更し、その犬が散歩するという設定にすることで差別問題を回避
したものであった。
また、原作者ヘレン・バンナーマンの著作権継承者であるイギリスのRagged
Bears Publishing社との契約により著作権の問題も解決されていた。
この改作絵本には改作者の守一雄による解説小冊子が付録として付けられていた。
それでも、本作出版後には、岩波版絶版のきっかけとなったといわれる市民団体「黒
人差別をなくす会」から北大路書房への抗議が寄せられた。
両者のやりとりは守一雄のウェブサイトの該当ページに公開されている。
『チビクロさんぽ』出版をめぐっては、東京大学大学院教育学研究科教授市川伸一
による『チビクロさんぽ』の出版は是か非か』という改作者らを交えた心理学者によ
る電子討論の記録が出版されている。
1997年から1998年にかけては、主人公はアフリカ系黒人のまま名前をSamとし
てストーリーも改変したSam and the Tigers(1996、邦訳『おしゃれなサムとバター
になったトラ』)や、イラストを本来のインド風にして主人公とその家族を ババジ(Baba
ji)、ママジ(Mamaji)、パパジ(Papaji)としたThe Story of Little Babaji(1996、邦
訳『トラのバターのパンケーキ』)というアメリカでの改作の翻訳版の出版も相次いだ。
1999年(平成11年)5月には径書房から、『ちびくろさんぼのおはなし』が原著と同
じ内容、装丁、タイトルで復刊され、2カ月で8万部を売った。
訳者は灘本昌久。
また彼の著書には『ちびくろサンボ』擁護の立場に立ってその経緯や差別論に関す
る議論をまとめた『ちびくろサンボよ すこやかによみがえれ』がある。
灘本昌久の報告によると、絶版騒動の際に『ちびくろサンボ』の刊行を批判してい
た部落解放同盟中央本部のある、部落解放センターの書籍売場にこの2冊が平
積みされていたという。
2005年(平成17年)6月に著作権の切れた岩波版(光吉夏弥訳)の『ちびくろ・さ
んぼ』が瑞雲舎から17年ぶりに復刊され、5カ月で15万部を売った。
ただし、岩波版は原作でなく、黒人の人種的特長を誇張で問題になっているフラン
ク・ドビアスの絵柄を基にした問題のあるものでありこの絵を使ってのちびくろサン
ボの復活にはロサンゼルス・タイムズ紙をはじめ、海外のメディアは批判的にこの
復刊を伝えたが、かつての絶版騒動の頃と違い、国内のマスコミが静観したことも
あって、特に大きな問題となっていない。
岩波書店はこの復刊を編集権の侵害として抗議したとされている。
また、旧岩波版が抱えていた著作権問題は新しい瑞雲舎版でも解決されないまま
である。瑞雲舎は、その後も、もともとは岩波版1冊に収められていた、もうひとつ
のストーリーを別冊にして『ちびくろ・さんぼ2』、ヘレン・バンナーマンによる別の絵
本を原作としたストーリーを『ちびくろ・さんぼ3』と銘打って出版。
ただし、主人公が女の子から男の子になるなど、内容面はほとんど違う物語といえ
る程度に改変されている。
2008年(平成20年)6月、径書房が岩波版『ちびくろ・さんぼ』のもとになった、
アメリカ版原書を忠実に再現した『ちびくろサンボ』を出版。
岩波版では、サイズなどの規定によって、まるまるカットされたり、切り貼りや左
右反転といった形で流用されていたイラストも、原形のまま掲載している。
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1996年 - イラクでフセイン大統領の長男、ウダイの暗殺未遂事件起こる。
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ウダイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー
1964年6月18日 - 2003年7月22日。
イラク元大統領サッダーム・フセインとその最初の妻サージダ・ハイラッラーの長男。
クサイの兄。
新聞「アル=バービル」、テレビ局「アル=シャハーブ」(青年の意)、ラジオ局
「ボイス・オブ・イラク」といった独自のメディアを設立、自ら経営していた。
ニコラエ・チャウシェスクの次男ニク・チャウシェスクとはスイスやモナコで度々
会うなど親しくした。以前は、サッダームの後継者と目されていた。
イラク代表のサッカー選手に対する激しい拷問やイラン等との密輸等数々の悪名で
知られる。
#
2003年7月22日、米軍はある情報提供者から、イラク北部のモスルの邸宅に
大物逃亡者が潜伏しているとの情報を得ると、24時間かけて綿密な計画を準備
し、アメリカ陸軍第101空挺師団をその邸宅に向かわせ、家を包囲した。
家宅捜査をしようとしたその瞬間、室内から米兵に向けて激しい銃撃が起きた。
劣勢に立たされた米軍部隊は一旦撤収し、その後、攻撃ヘリの支援を得て、
邸宅を攻撃、約4時間に及ぶ戦闘を行った。
そして、突入した米兵によりウダイ、クサイ、クサイの息子ムスタファー、4人の
護衛の遺体が確認された。ウダイとクサイは、銃撃戦の最中にもパニックになり
ながら友人や支援者らに電話を掛けており、その会話を傍受していた米軍は電
話先の居場所を割り出し、彼らも拘束した。
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2000年 - 米大統領選のフロリダ州での票の集計をめぐる訴訟
(ブッシュ対ゴア事件)で、連邦最高裁が票の再集計を禁止
する判決を出し、ジョージ・W・ブッシュの当選が確定。
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ジョージ・ウォーカー・ブッシュ
1946年7月6日 - 。
アメリカ合衆国の政治家。
同国第43代大統領(在任: 2001年1月20日 - 2009年1月20日)、
第46代テキサス州知事(在任: 1995年1月17日 - 2000年12月21日)。
第41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュは父である。
またフロリダ州知事を務めたジェブ・ブッシュと実業家のニール・ブッシュ
は弟で、ジョージ・P・ブッシュは甥(ジェブ・ブッシュの長男)である。
父子共にミドルネームは省略されて「ジョージ・ブッシュ」と呼ばれること
が多い。
大統領退任後
大統領退任後はテキサス州ダラスの自宅やクロフォードの牧場に居住し、大統領
図書館やシンクタンクの活動に従事している。
ブッシュは1994年までダラスに居住していた縁があり、地元ではブッシュを歓迎
するムードが広がっている。
ダラスのホームセンターでは「ブッシュ前大統領殿 ようこそお戻りになりました!」と
の書き出しで始まる「お客様係募集」求人広告をジョークで掲載し、「時間に融通の
利く、非常勤。ご自宅からも近距離で、一日体験も可能です」とメリットを列挙したう
えで「何年にも亘る外国要人との会談を通して、社交術を磨き上げてきたあなたが、
このポジションの優れた候補者だと確信しています」と呼びかけた。
なお、広告掲載後、当該の店にはブッシュ本人が「仕事を探しているんだ」と突然
来店し、店長に対して入社を丁重に辞退したうえで買い物をするというジョークで
応じたため、居合わせた客らから喝采を浴びた。
また、「歴代支持率ワースト1の大統領」である彼の伝記映画『ブッシュ』が公開
された。監督のオリバー・ストーンは、映画を作る目的は「あくまでブッシュの品格
を落としたり、傷つけようとしているのではない」としており、「彼の言葉を喋らせる
こと、イラク戦争に対する彼の判断は、彼という人物やその個人史と相関関係に
ある。それを示そうとした。」とコメントしている。
2009年11月上旬に大統領退任後の初来日を行い、かつての盟友である小泉
純一郎元首相と再会したほか、東京ドームで行われた日本シリーズの始球式に
参加した。
2010年11月9日に大統領在任中に下した様々な決断を振り返った回顧録『決
断のとき』(Decision Points, 日本では2011年4月23日に日本経済新聞出版
社より刊行)が出版された。回顧録は自身の飲酒運転トラブルやイラク戦争の決
断も詳しく語られた内容となっている。しかし、本書に関して他の著作本からの剽
窃・盗作の疑惑が報じられている。
2011年4月より、日本経済新聞で連載されている自身の半生を綴った『私の履
歴書』の執筆を担当し、原稿料は全額東日本大震災による震災孤児を支援する
ため、あしなが育英会に寄付した。
2013年4月、テキサス州ユニバーシティーパークのサザン・メソジスト大学に、
大統領図書館「ジョージ・W・ブッシュ大統領センター」の開館式が行われ、ジョ
ージ・W・ブッシュ本人と父のジョージ・H・W・ブッシュ、ビル・クリントン、
ジミー・カーター、バラク・オバマと、大統領および存命の大統領経験者が揃った。
同月に行われたジョージ・W・ブッシュの評価についての世論調査では、大統領
就任時の教育や医療制度改革が見直され、退任時よりも評価は上昇の傾向に
ある。
2016年2月15日、2016年アメリカ合衆国大統領選挙で苦戦する弟のジェブ・
ブッシュ元フロリダ州知事の集会に現れ、「米国民が怒り、不満を抱えているのは
理解する。しかし、我々の怒りや不満をそのまま映し、あおる人物はオーバルオフ
ィス(米大統領執務室)には要らない」と共和党指名争いでトップを独走する実業家
のドナルド・トランプを批判した。
2022年5月18日、テキサス州ダラスにおける演説でロシアのウクライナ侵攻に
対してウラジーミル・プーチンを批判しようとするも、「ロシアではチェック・アンド・
バランス(抑制と均衡)の欠如が生じ、一人の男が全く不当で残忍なイラク侵略を
開始することになった」と発言。その後、首を振りながら「ウクライナのことだ」と言
い直し、歳のせいで間違えたと聴衆を笑わせる一幕があった。
人物
名門のイエール大学を卒業後、ハーバード・ビジネススクールで経営学修士を取
得しており、双璧とされるイェールとハーバードを出るという歴代大統領の中でも
「高学歴」だが、のちに本人が母校での演説で「成績がCでも大統領になれる」と
ジョークのネタにしたように学生時代の成績は芳しくなかった。
ニューヨーク市立大学教授でハーバード時代のブッシュが受講する授業を担当し
た霍見芳浩は、大統領就任が決まった直後の日本のマスコミの取材で当時のブッ
シュの印象を聞かれて「普通、授業を教えた生徒の事はいちいち覚えていないもの
だが、彼は非常に出来の悪い生徒だったのでよく覚えている」「もう箸にも棒にもか
からない」「典型的な金持ちのお坊ちゃま。怠惰で授業態度も悪く、大統領はおろか
どんな組織のリーダーも務まる人物ではないと思った」と答えている。
大統領候補時代に記者から「パキスタンの大統領の名前は?」と質問されて答えら
れないなど、就任前から大統領として相応しい知性の持ち主か否か危ぶむ声があ
った(ブッシュが同じような質問を記者にすると「私は記者だが、あなたは大統領候
補だ」と返された)。
大統領就任後も、2001年11月のブラジルの大統領フェルナンド・エンリケ・カルド
ーゾとの首脳会談上の席上、「あなたの国にも黒人はいるのか?」と尋ねて、その
場でライス安全保障問題担当補佐官に訂正されるエピソードがあるなど、知性を
疑われるような発言を何度も繰り返した。これらの迷言癖は俗に「ブッシズム」と
呼ばれる。
他の歴代大統領と比較して著しくボキャブラリーが貧困であるとされた。
耳慣れない人名や地名をよく間違って発音することでも有名で、アブグレイブ刑務
所の囚人虐待事件に関する演説では「アブグレイブ」の発音を1度もまともに言え
なかった。
2007年9月、オーストラリアのシドニーで行われたAPECの演説では、OPEC
と言い間違えた上にこの演説で3回もの言い間違いをして参加者から失笑を
買った。言い間違いを防ぐため、演説原稿に出てくる各国首脳の名前・国名・首
都名に“読み仮名”がふられていたことも発覚している。
第1回の大統領選挙の公開討論の席で、アル・ゴアがブッシュを小馬鹿にする
ような態度を示したが、それに対し誠実な対応を行ったことが有権者の好意的評
価に結びついたとされる。
戦争中にラムズフェルドが戦死した兵士の家族への手紙の署名にオート・ライタ
ーを使用したのとは対照的に、ブッシュは直筆の手紙を出し続けている。
また、人権問題に関心が深いこともあり、北朝鮮による日本人拉致問題に深い
興味と理解を示し、拉致被害者の家族がアメリカを訪問した際にはホワイトハウ
スで面会した。
ブッシュ自身は側近の意見に耳を傾けていると言われ、特に外交に関しては穏健
派のパウエル国務長官と強硬派のライス補佐官に議論をさせ、ライスの意見を支
持しイラク戦争に向かったとされる。ライス補佐官は2期目の政権において国務
長官に起用された。ブッシュの意を受けたライスは国防総省を牽制しつつ、外交に
重きを置きながらイラクの武力支配を正当化しようという戦略をとっている。
AP通信社がアメリカ国民を対象に行った世論調査では、2006年の「憎まれ役」
「英雄」でそれぞれ1位に選ばれた。ちなみに「憎まれ役」は2位以下、ウサーマ
・ビン・ラーディン、サッダーム・フセイン、マフムード・アフマディーネジャード、
金正日。「英雄」は2位以下、イラク駐留アメリカ軍、バラク・オバマ。
また、ジョン・F・ケネディ以降の歴代大統領を、ホワイトハウスで取材してきたジャー
ナリスト、ヘレン・トーマスは、彼を
「今までで最悪の大統領。アメリカ史上最悪の大統領
(This is the worst President ever.
He is the worst President in all of American history.)」
と酷評している。
一方でライス国務長官は政権末期のアメリカCBSテレビとのインタビューで、ブッ
シュが直面してきた状況について「第二次世界大戦後で最も厳しい時期だったので
はないか」との見方を示し、そのなかでブッシュが下してきた決断は「時を経て記憶
にとどまるだろう」とし、イラクのフセイン政権打倒や中国・インド・ブラジルなど
との良好な関係を例に挙げ、「歴史がブッシュ政権に良い評価を下すだろう」と述べた。
2002年1月、テレビでフットボールを観戦中に菓子のプレッツェルをのどに詰まら
せて気絶し、倒れて目尻の横を怪我してマスコミに大きく報じられたことがある。
本人は苦笑しながらこの一件について釈明した。
エイズの撲滅運動にも熱心で、2004年にエルトン・ジョンはコンサートにやって
来たブッシュ夫妻と直接面会した際に、彼の政策への強い不満の一方で、彼の
魅力と「優しさ」を覚えたとし、教訓になったと述べた。
身長は5フィート11.5インチ(約182センチメートル)である。
なお、ブッシュの下で副大統領を務めたディック・チェイニーは、父の大ブッシュ
の下で副大統領を務めたダン・クエールより年長である。
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2023年、今日。
久々のキーマカレーであった。
(こんなに甘かったっけ?)と思ったが、うまかったので全く問題は無い。
それにしても、冬の雨は冷たい。