八重子の日記

毎日楽しい生活をつづります。

自分史(22回目)

2015-03-26 13:19:25 | 自分史


昭和28年
新婚旅行は片山津温泉と山中温泉に行きました。山中温泉はすべてが良かったですが片山津はもう一つでした。武田が帰る間際まで唐獅子を買うと言って買ったその獅子の口には当時の旅館の領収書や諸々の記念のつけがはいっています。旅行から帰ってから私も会社が神戸の長田の方へ出張所を作ったので市電で通い武田は兵庫の6番電車で三宮まで通いました。何一つ揃ってないスタートでしたので近くの市場に鍋から買いに行きました。長田と言えばゴム会社の多い所なので会社はゴム製品の材料を塩野義の代理店として営業していたのです
28年4月11日私たちの結婚記念日です。桜が満開で山口の叔母を訪ねてから帰る母と兄を見送って行きがてら宮島へ行きました。
式の済んだままの顔に着物を着ていたので恥ずかしい思いをしました。
その晩のお風呂は一番後で水は少なくぬるいし嫁とはこんなものかと泣きました。
武田が声をかけてくれてマキを入れて炊いてくれたことは忘れません。
よそ者の一人ぼっちで風呂で泣きました。
ちょぅど同じ年の妹が居たのでお姑さんにしたら嫌だったのでしょう。
現実に戻ってこの頃デイに行かない日はじっと外を見ていると涙が何となくでてくる。
「母が恋しかったり」 「一人ぼっち が悲しかったり」 「死にたかったり」 不思議に武田の事はあまり思はない。
今ももっと介護を優しくしてあげたらよかったと後悔はするけれど4月2日は武田の命日です。納骨をしたものかまよっています。 
私が死んだらどうなるのでしょう?
家の整理を全部するなら捨てるより仕方がない。鬱病になってしまう。生きる希望がない毎日。
私は一人ぼっちお母さんは99でお父さんの処へ行ってしまいました。
8人も子供を育てたのに末っ子の私が48年から一緒だった。

自分史(21回目)

2015-03-12 13:15:42 | 自分史


昭和28年
それから瓦町の大和産業と言う10人ばかりの小さな会社を受けました。
塩野義製薬の入試材料で難しい答案でした。
私は最後の作文に御堂筋を歩くオフイスガールが羨ましいがこんな小さな会社でこんな試験問題を出すなんて精一杯やったのだから悔いは無いと書いて出て行きましたら後日この作文が良かったということで採用になりました。
電話で毎度おおきにができなくて怒られてばっかりでした。
兄の家では姉があまり優しくなく兄と帰りが一緒になっても一足先にわしが帰るからちょっと遅れて帰るようにと言われました。
私はさびしいので阪急の寮ばかり遊びに行きましたが阪急は月曜日が休みで武田が日曜に休んでいたので映画など連れて行ってくれました。
彼は縁なしの薄い色眼鏡をかけてサンダルを履いて言葉も広島弁がはいって背も1メートル65ぐらい余り好きなタイプではありませんでした。
マネキンの写真も机に置いてあったし私と遊んで帰りお見合いの彼女が来ていたりきつと私が引き揚げ者であることを親によくいわれなかったのだと思います。
そのご心斎橋の不二家で彼のお兄さんに逢って話しを進めてもらい昭和28年4月11日に宇品の神社で神前結婚式を挙げました。
世帯は神戸の新開地近くの文化住宅家賃3,500円だったと思います。


自分史(20回目)

2015-03-05 13:27:08 | 自分史


昭和23年
役場のあたりが私の帰った村の中心地で小学校がありました。
その近くに歯医者さんが来ました。
海軍の服を着てちょっと気の利いた感じの男の人でした。
村の女性たちは歯が急に痛くなったのか押しかけてきだしました。
歯医者さんも一人居ましたが潜りみたいな人だったのです。
私も奥歯が痛くて津山まで行くのが面倒だったのでその潜りの歯医者で痛い思いをして抜かれた経験がありましたから行ってみました。
そうしたら役場の助役を通じて交際を申し込んで来ました。
ちょっと背がひくかったので近く大阪へ行くのでと言って言葉を濁しました。
又隣りに座っている戸籍係りの小父さんが「八重ちゃん看護婦に
手を出すよ」と言ってケチをつけるのです。
付き合いはしませんでしたが大阪へ出ていく時津山駅まで送ってくれました。


引き揚げてきたボロ家も母と母の兄夫婦の4人になってしまいました。
大阪市役所に勤めてお嫁さんを貰った兄に男の子が生まれました。私はこの兄に又大阪へ出て来るように言われ決心をして母を置いて守口へ行きました。
本当のバラックで畳が一間あと板の間でした。炊事洗濯みんな外でした。私は板の間で朝起きると兄が新聞の求人広告に線を引いて此処と此処へ行って来いと言うのです。
大阪の町を知らない私は京阪に乗って天満で降りて市電に乗り換え淀屋橋で降りてといった具合にタクシーを呼べばオート三輪に幌をかけたようなものでした。
そごう百貨店や森永を受けましたが皆駄目で最後に受けた駿河屋の羊羹屋にどうにか入社できました。
発音がきれいだと言ってそのうえ英語ができたらもっといいのにと言われました。
顏は塗ればどうにでもなるが背の高さはこれぐらいほしいねということで採用になりました。
でもここで武田が出て来るのです。
その時武田は阪急共栄のドラッグストアーに店長で勤めていました。
そして神戸東灘の寮にいました。
一番上の姉夫婦が寮の舎監と姉が寮母をしており長男と娘が阪急へ勤めていましたので私も阪急へ入りたかったのですが駄目でした。
時々遊びに行っていたので武田のことも知っていました。
彼が化粧品のマネキンの話をして余り素人娘の仕事としては進めないと発言してきたので辞めることにしました。
折角和歌山の本店まで行ってご馳走を呼ばれてきたのに残念でしたが武田が言うように人間がすれて人間が違っていたかも知れません。