八重子の日記

毎日楽しい生活をつづります。

自分史(6回目)

2014-01-30 13:20:22 | 自分史

昭和20年 8月の私たち 

基隆港から帰国の船が出るまで自宅待機でした

兄の家族と一緒になってひとり30キロ迄の荷物を

担ぐ練習を毎日しました。 持って帰れないものは家の前に並べて売りました。

佳里には製糖会社がありましたからその支線で急に出発命令が出て、

一度出たのですが駄目で戻りました。

その時荷物を開いてこれは「うちの布団だ」と言って兄に殴られました。

これからは所帯いっしょに暮らすのにうちのとはなんだと言って殴られたのです。

今でも私の言ったことは間違ってないと思っています。

それから2度目の命令が出て又基隆へ向かいました。


自分史(5回目)

2014-01-23 13:50:04 | 自分史

         詔勅の放送

昭和20年 8月15日兄が「静かにラジオの前に座れ」と言われ

「戦争が終わったらしいよ」のささやきがきこえてきました。

私はそうしたら「電気も、もうつけてもいいのね」というと怖い声で兄に叱られました。

「どうなるの?」と泣くもの嬉しがるもの昔のラジオはガァーガァーいって聞こえない。

デマがもうすでに飛んでいて落ち着く間もありませんでした。

 


自分史(4回目)

2014-01-16 13:44:46 | 自分史

 

父 台北神社前にて 

昭和17年~20年 

母は父が亡くなってから竹の椅子に座って豆を炊きながらいつも泣いていました。

その頃から戦争が激しくなり空襲警報のサイレンが鳴ると慌てて防空壕に入りました。

防空壕といっても縦穴を掘って上に畳を敷いたような簡素なものでした。  

横を見ると母はお釜と 私は猫の子を抱いて震えていました。

当時グラマンという飛行機が低空飛行で兵士が笑いながら機銃照射してくるのが見え

震えていました。

飛行機が去った後、道の角々に焼夷弾が落とされていて我が家のベランダにも薬きょうが落ちていました。