医療サービスは、エビデンスが確立されていないからといって止めることはできない。現在の医学研究でEBMが確立されている領域は2割から3割との報告も出ている。また、米国の内科学会に掲載された論文のメタアナリシスの結果からは、実証されたエビデンスの耐用年数は5年前後であるとの見積もりも出ている。そうだとすれば、EBM以前、あるいはEBMの枠内に入ってこない医療は、EBMとは異なる現実をもっており、それ固有の科学的プログラムとして設定可能でなければならない。エビデンスは科学性の保証の裏返しとして、その一時性、反証可能性、訂正可能性にさらされている。そしてこのこと自体は、科学が健全であることの指標であり、そこに問題はない。むしろその忘却が医療への盲信や権威化に展開しがちであることが問題となる。
EBMの確立という至上命題が、現代医療がグローバルに共有し、それに便乗するひとつの物語であるとしても、その効用が絶大であることに疑いはない。多くの資金や人、資源が、それに応じた社会的再編に巻き込まれている。ここでいう「物語」とは、「何らかの出来事の発端が遡及的に見出され、そこから意味の系列が再編、展開されることで最終的に現在の出来事に到達する、一連の有意味な経験の説明枠のこと」と定義しておく。ある人が病気にかかることは、病の深刻さに応じて人生の分岐を引き起こす。病は、病人とは独立の生物学的実在ではなく、当人と医療関係者、周囲の人々、社会環境を巻き込み、彼らによって語られる「物語」の発端となり、一部となる。あるいは、共有さ れた「病」はすでに物語の構造によって浸透されている。
このような医療従事者-患者関係における「意味のある物語」の共有および構築は、EBM至上主義と並行的に、「NBM(Narrative Based Medicine)」もしくは単に「NM(Narrative Medicine)」という医療的立場として注目され始めている。
ナラティブ・アプローチは、医学が特定する疾病が、これまで生物学的な領域に限定され、その枠内だけで済むと過信されていたことを告発する。それはまた、「病」や「障害」という経験が「言説的」、「社会的」に構成されていることを強調する立場(社会構築主義)から派生する臨床応用事例のひとつでもある。
哲学分野でいえば、患者や医療従事者という当事者の「語り」、もしくは「インタヴュー」から臨床の現実を物語化し、「隠された意味」や「主体の形成」を論じるナラティブや看護の「現象学」が現れてもいる。ただし、当事者の語りを重視し、そこから言表を組み上げ直すことで当人の現実を再構成する手法は、図らずも精神分析が培ってきた臨床経験へと近づいていく。そこで構成される物語は、当事者(精神分析では被分析者)や、その経験を共有するものにとって、自らが語らずに行ってきたことの意味的再編ないし、そこからの距離化のためのきっかけになり、経験を持たないものにとっては、病者や医療従事者の現実の一面を垣間見るためのきっかけとなる。そして、そこまではよいのである。問題は、そうした試みの多くが、次の臨床の経験へとどのように「接続」されていくのか、そして患者や医療従事者の経験の「変化」にどのように開かれるのかの検討がなされずにとどまることである。仮にこの局面に分析的まなざしが届かなければ、事後的説明の文学的読み物になってしまう危険が多分にある。あるいは、記述的吟味を拒む神秘化に一気に傾いてしまう。
NBMとは、ケネスJガゲン等の「社会構成主義(social constructionism)」の動向を背景としながらも、基本的にはイギリスの開業医等による臨床的実践に基づく一つの医療方法論である。したがって、特定の技法や理論などが存在する訳ではないが、地域医療の実践的活動を基盤とすることによって、従来の医療のように疾患自体を対象とするのではなく、一人の人間としての患者を全体的に捉え「もの語りと対話」に基づく、いわば医療の関係性の側面を重視するところにその特徴がある。またアメリカの医学教育においても「文学を通して医療を捉える(narrative medicine)」同様の取り組みがあり、医療者自身の「もの語り」に注目するなど、さまざまな側面から「人間の営みとしての医療」への接近が図られている。
EBMの確立という至上命題が、現代医療がグローバルに共有し、それに便乗するひとつの物語であるとしても、その効用が絶大であることに疑いはない。多くの資金や人、資源が、それに応じた社会的再編に巻き込まれている。ここでいう「物語」とは、「何らかの出来事の発端が遡及的に見出され、そこから意味の系列が再編、展開されることで最終的に現在の出来事に到達する、一連の有意味な経験の説明枠のこと」と定義しておく。ある人が病気にかかることは、病の深刻さに応じて人生の分岐を引き起こす。病は、病人とは独立の生物学的実在ではなく、当人と医療関係者、周囲の人々、社会環境を巻き込み、彼らによって語られる「物語」の発端となり、一部となる。あるいは、共有さ れた「病」はすでに物語の構造によって浸透されている。
このような医療従事者-患者関係における「意味のある物語」の共有および構築は、EBM至上主義と並行的に、「NBM(Narrative Based Medicine)」もしくは単に「NM(Narrative Medicine)」という医療的立場として注目され始めている。
ナラティブ・アプローチは、医学が特定する疾病が、これまで生物学的な領域に限定され、その枠内だけで済むと過信されていたことを告発する。それはまた、「病」や「障害」という経験が「言説的」、「社会的」に構成されていることを強調する立場(社会構築主義)から派生する臨床応用事例のひとつでもある。
哲学分野でいえば、患者や医療従事者という当事者の「語り」、もしくは「インタヴュー」から臨床の現実を物語化し、「隠された意味」や「主体の形成」を論じるナラティブや看護の「現象学」が現れてもいる。ただし、当事者の語りを重視し、そこから言表を組み上げ直すことで当人の現実を再構成する手法は、図らずも精神分析が培ってきた臨床経験へと近づいていく。そこで構成される物語は、当事者(精神分析では被分析者)や、その経験を共有するものにとって、自らが語らずに行ってきたことの意味的再編ないし、そこからの距離化のためのきっかけになり、経験を持たないものにとっては、病者や医療従事者の現実の一面を垣間見るためのきっかけとなる。そして、そこまではよいのである。問題は、そうした試みの多くが、次の臨床の経験へとどのように「接続」されていくのか、そして患者や医療従事者の経験の「変化」にどのように開かれるのかの検討がなされずにとどまることである。仮にこの局面に分析的まなざしが届かなければ、事後的説明の文学的読み物になってしまう危険が多分にある。あるいは、記述的吟味を拒む神秘化に一気に傾いてしまう。
NBMとは、ケネスJガゲン等の「社会構成主義(social constructionism)」の動向を背景としながらも、基本的にはイギリスの開業医等による臨床的実践に基づく一つの医療方法論である。したがって、特定の技法や理論などが存在する訳ではないが、地域医療の実践的活動を基盤とすることによって、従来の医療のように疾患自体を対象とするのではなく、一人の人間としての患者を全体的に捉え「もの語りと対話」に基づく、いわば医療の関係性の側面を重視するところにその特徴がある。またアメリカの医学教育においても「文学を通して医療を捉える(narrative medicine)」同様の取り組みがあり、医療者自身の「もの語り」に注目するなど、さまざまな側面から「人間の営みとしての医療」への接近が図られている。