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玉音放送を録音した長友俊一(NHK技師)

2017-08-10 14:22:01 | 興味深い話題



昭和天皇みずからが終戦のラジオ放送(玉音放送)を行った際にレコーディングに使われた「録音盤」、いわゆる「玉音盤」の本物だ。「窒素ガスを封入したシールドケースに入れ、紫外・赤外線カットのガラスを使い、常時4℃を保つ恒温ケースで展示しています」とあった。おそらく日本の歴史上最も重要なレコードであることは間違いない。これは余談だけど昭和20年8月14日の深夜、玉音放送の録音に立ち会ったNHKの技師、長友俊一氏の甥が僕の高校の時の歴史の教師だった。「長友先生」はこの話を授業中にしてくれたことがあったけど、授業より面白かった。

お子ちゃまレコーディング記
より抜粋

YOUTUBEで聞く玉音放送


映画「日本のいちばん長い日」

玉音放送ー明治学院大学社会学部(PDF)

内閣情報局はただちに宮内省、日本放送協会(NHK)との打ち合わせにはいった。
 連絡を受けた放送協会の幹部たちが、情報局に出頭すると「戦争終結の玉音放送を検討しているが、直接陛下の放送とするか、事前の録音とするかは審議中である。至急準備を整えてくれ」と要請された。幹部たちは思わず息を呑んだ。おどろきのあまり声がでなかった。ポッダム宣言受諾は、ある程度予想していたが、陛下自らがマイクの前に立って放送されるとは、予測もできぬ衝撃だったのだ。
 その後、玉音放送は録音と決まり、放送協会は録音班を午後3時までに宮内省に派遣せよと要請された。宮内省も、筧素彦庶務課長を窓口にして、宮内省二階の天皇執務室を録音室に、ドアを半開にした次の間の謁見室に録音機器を設置してマイクのコードをつなぐことにして、準備作業を開始した。放送協会では、矢部健次郎国内局長を総監督に、録音責任者に近藤泰吉現業部副部長、長友俊一、春名静人、村上清吾、玉虫一雄の4技師をスタッフに選抜した。

昭和の大戦争 第3章より抜粋

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やがて天皇が三井安爾、戸田両侍従をしたがえて入室した。その軍服姿を眼にしたとき、隣室のすみに立っていた川本秘書官は思わず身体をふるわして、自然に深々と頭を垂れた。三井、戸田両侍従は廊下側のとびらのそばに立った。隣室にいた録音関係者も最敬礼で壁のむこうに天皇を迎えた。情報局の加藤第一部長、山岸放送課長、放送協会の大橋会長、荒川局長、矢部局長、近藤副部長、長友技師、春名、村上、王玉虫の各技術部員たちと、宮内省側の寛庶務課長がこれらの人びとであった。人いきれと鎧戸をとざした熱気で部屋はむれかえるようである。しかし、人びとは暑さも忘れ去ってしまうくらい緊張しきっていた。

天皇がきいた。「声はどの程度でよろしいのか」


下村総裁が普通の声で結構の旨を答えた。荒川局長が、隣室のとびらのすぐそば、下村総裁がよくみえる位置に立っている。一歩、下村総裁が天皇の前に進みでて、うやうやしく白手袋の手を前に差出しながら一礼した。その白手袋が合図で、ただちに荒川局長は技術陣にめくばせした。録音がはじまった。

「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ……

天皇は詔書を読まれた。長友、村上が調整、春名、玉虫がカッティング(録音盤に音のミゾを刻みこむ)という技術陣万全の配置であった。天皇の低い声は録音盤を刻むカッターの静かな流れのなかに吸収されていった。藤田侍従長、下村総裁から川本秘書官に至るまで、一語一語をかみしめるように聞いていた。天皇のお声のほかに音ひとつなく、外は大内山の森閑たる夜であった。

「爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所 堪へ難キヲ堪へ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ万世ノ為二太平ヲ開カムト欲ス……

みなの顔に務花として涙が流れ、歯をくいしばって鳴咽をたえている。

五分ほどで録音を終った。「どんな具合であるか」と天皇はきいた。寛課長から小声でただされた長友技師は、これも低い声で「技術的には間違いはありませんが、数か所お言葉に不明瞭な点がありました」と答えた。天皇も自分から下村総裁へ向い、いまの声が低く、うまくいかなかったようだから、もう一度読むといった。

同じような合図でふたたび録音がはじめられた。天皇は独得の抑揚で朗読した。少し声が高かったが、緊張されていたのか、文中の接続詞に一字抜けたところがでた。侍立する者は緊張しきって汗汁ばんだ。万感こもごも胸にせまって眼がしらをまたしても熱くした。彼らばかりではなく、天皇もまた眼に涙をうかべた。二回目の録音が終ったとき、加藤第一部長がはっきりとそれをみとめた。

天皇はまたいった。「もういちど朗読してもよいが」

覚課長が長友技師にさっそくどうかとたずねた。「こんどはよろしいです」と技師は応答した。寛課長はもう一度録音するが準備はいいかとたずねたつもりであったが、長友技師は首尾不首尾はどうかと聞かれたように錯覚したのである。

すっかり固くなり上気して、たがいに意味が通じたように思うのであった。


しかし、下村総裁をはじめ、石渡宮相、藤田侍従長も三回目の録音をとめた。天皇の疲労、心痛を思えば、それはあまりにも畏れ多いことであったからである。十一時五十分である。こうして降伏への準備の第一歩は無事終了した。

天皇はふたたび入江侍従をしたがえて御文庫に戻った。往きも帰りも天皇は一言も発せず、黙々と、クッションに背をもたせ、眼をつぶっていた。その姿に、入江侍従は心からの痛わしさを感じた。


1 コメント

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Unknown (本村公一)
2021-08-15 21:59:13
長友さんは、佐世保高専の教官でした。詳しくは聞いていませんが、録音に携わったことは話に出ました。クーデターを企てるグループから殺害される危険は、あったと察します。わたしは、1967年に佐世保高専を卒業しました。
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