日々雑感

演歌の「女心」と宝塚歌劇

演歌に男につくす「女心」の歌が良くある。ひたすら男を愛してつくす女の心情を歌ったものなどである。それに対して”そんな都合のいい女がいるわけはない、男に女はつくすべきであるというような古いステレオタイプを良しとする不適切な歌詞である。"というようなフェミニスト諸氏の批判がある。フェミニスト諸氏に言われなくても、この種の歌は男が作って男が歌って(女が歌っていることもあるが)男が喜んでいるという形となっていることが多く、その構造に気がついたらこれはマスターベーション風であり、この種の歌を喜ぶのはなんとなく”みっともないもの”という気分になる。

一方、宝塚歌劇というジャンルがあるが、ほぼ全ての作品にて「強くたくましく、かっこよく、ひたすら一途に女を愛し、ひたすら一途に生きていく。」という男が主人公として出てくる。当たり前ではあるが、ひたすら男を愛してつくす女がいるわけはないのと同様にこのような男はいるわけはない。言わばこれも”男は強くたくましく一途に女を愛し、一途に生きていくべき”であるというような古い不適切なステレオタイプを助長する不適切な演劇であると言えなくもない。

宝塚歌劇での構造は物語を作るのは男も女も両方あるようだが、”女が演じて女が喜ぶ”という形となっている点では「女心」を歌う演歌の構造をちょうど男女さかさまにしたような構造をしている。
宝塚歌劇は一種の様式美の世界ではあるが、それを言ってしまえば演歌の「女心」の歌もまた一種の様式美の世界ではある。

フェニミスト諸氏や男性解放運動諸氏はこの宝塚歌劇の内容については”不適切なステレオタイプを助長している”という批判はしないのであろうか?

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