東京裁判判決文解説の四人目は木村兵太郎陸軍大将です。
木村兵太郎陸軍大将の略歴は、昭和十五年関東軍参謀長、同十六年から十九年二月まで近衛、東條内閣の陸軍次官、同十九年ビルマ方面軍司令官
木村兵太郎陸軍大将に対する判決文
師団長として、つぎには関東軍参謀長として、後には陸軍次官として、木村は中国における戦争と太平洋戦争の遂行に目立った役割をはたした。彼はビルマ方面軍の司令官となり、降伏のときまで、引き続いてその地位にあった。彼は捕虜を作業に使用することを承認したが、その作業は、戦争法規によって禁止されている作業と、何千という捕虜の最大の艱難と死亡をもたらした状態における作業とであって、この点で、彼は戦争法規の違反に積極的な形で参加した一人である。後者の場合の一例は、泰緬鉄道の建設における捕虜の使用であって、これに対する命令は、木村によって承認され、伝達されたものである。
本裁判は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四および第五十五について、木村を有罪と判定する。
以下は木村大将が有罪とされた訴因です。
1 .昭和三年一月一日~昭和二十年九月二日までの共同謀議(東亜、太平洋、インド洋地域の支配を確保しようとしたこと)
27.昭和六年九月十八日~昭和二十年九月二日までの中華民国に対する戦争(満洲事変)
29.昭和十六年十二月七日~昭和二十年九月二日までのアメリカ合衆国に対する戦争
31.同上期間の全英連邦に対する戦争
32.オランダ王国に対する大東亜戦争遂行
54.昭和十六年十二月七日から~昭和二十年九月二日までの戦争法規違反(残虐行為の命令授権、許可)
55.昭和十六年十二月七日から~昭和二十年九月二日までの訴因53にある諸国(アメリカ合衆国、全英連邦おけるフランス共和国、オランダ王国、フィリピン国、中華民国、ポルトガル共和国、ソヴィエト社会主義共和国連邦)の軍隊と数万の捕虜に対する戦争法規違反(違犯行為防止責任、無視による法規違犯)
訴因第一については、要するに昭和三年から敗戦までの間に日本政府、日本軍の指導的立場にあった者は全て侵略のための共同謀議を行っていたとしているわけであり、これ以上のコメントはくり返しになるだけなので控えようと思う。
訴因第二十七、二十九~三十二についても、米英蘭中に対する戦争行為が犯罪だと言われているわけで、当時も現在も交戦権を持たない主権国家はあり得ないし戦争行為そのものは決して犯罪ではないわけだがこれもくり返しになるのでコメントは控える。
訴因第五十四、五十五については、泰緬鉄道建設をその要因としているものである。
泰緬鉄道はご存知の方も多いと思うが、海上輸送路を断たれた日本軍が陸路での輸送路を確保しようと建設したタイ(泰)のノンブラドックとビルマ(緬甸)のタンビザヤを結ぶ軍用鉄道である。
昭和十七年七月に起工し昭和十八年十月に開通していることから相当な突貫工事であったことは事実である。
機械力のない当時のことなので工事は人海戦術に頼らざるをえず、英豪軍の捕虜と東南アジア諸国から徴募した労働者によって工事は行なわれた。
ここで所謂捕虜虐待と呼ばれる行為が全くなかったとはもちろん言えないが、当時の日本の置かれた状況を考えると十分な食料、医薬品、休養を与えることは物理的に不可能であったことは自明である。
当時日本軍は連合軍の援蒋ルート(中国に対する連合軍の補給ルート)を断つため、そして同盟関係にあったチャンドラ・ボーズの自由インド仮政府の独立運動を支援するためにもどうしてもビルマ戦線を維持する必要があった。
戦況が不利に傾くなかで、海上輸送路を断たれた日本が陸路にそれを求めようとしたのは自然の流れであったと判断できるし、大量の人員を投入してできるだけ短期で泰緬鉄道を完成させようとしたのも当然であろう。
戦況は待ってはくれないのだから。
東京裁判で俘虜虐待等戦争法規違反の証拠として提出され採用された資料は実際に証人が出廷して宣誓したものは全体の5%程度であり、残り95%についてはただ文書のみが証拠として提出され受理されている。
検察側提出証拠はその文書を作成した人物が実在しないものや、全くの捏造であってもなんら検証されることなく証拠として全て採用されているのである。
反面日本側弁護団提出の証拠は殆どが却下されました。
そのような状況での裁判で泰緬鉄道建設に関わって実際にはどの程度の捕虜虐待が行なわれていたのかは闇の中といって良いだろう。
実際に陸軍次官であった木村が捕虜虐待を命令するはずもなく、現地での状況が逐一報告されているわけでもなかったはずである。
仮にある程度の状況を把握していたとしても木村個人の力で何かができたはとても思えない。
英国はインドとビルマをアジアにおける生命線ととらえていたので戦後も手放す気などもうとうなかったけれども、そのインドとビルマを脅かした日本を許すことはできなかった。
木村大将はその復習の生け贄とされたと見るのが妥当であろうと思われる。
捕虜の待遇云々というのであれば、東京裁判が行なわれているまさにその同時期にラングーンのアーロン収容所に入れられていた日本軍捕虜に対する英軍の処遇がどうであったのか、日本人を犬猫同然に扱ったそれは完全にダブルスタンダードではないのかと言いたい。
木村大将に対する票決も七対四であった。
木村大将もまた、多数派と呼ばれる七名の判事によって死刑にされたのである。
木村兵太郎陸軍大将の略歴は、昭和十五年関東軍参謀長、同十六年から十九年二月まで近衛、東條内閣の陸軍次官、同十九年ビルマ方面軍司令官
木村兵太郎陸軍大将に対する判決文
師団長として、つぎには関東軍参謀長として、後には陸軍次官として、木村は中国における戦争と太平洋戦争の遂行に目立った役割をはたした。彼はビルマ方面軍の司令官となり、降伏のときまで、引き続いてその地位にあった。彼は捕虜を作業に使用することを承認したが、その作業は、戦争法規によって禁止されている作業と、何千という捕虜の最大の艱難と死亡をもたらした状態における作業とであって、この点で、彼は戦争法規の違反に積極的な形で参加した一人である。後者の場合の一例は、泰緬鉄道の建設における捕虜の使用であって、これに対する命令は、木村によって承認され、伝達されたものである。
本裁判は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四および第五十五について、木村を有罪と判定する。
以下は木村大将が有罪とされた訴因です。
1 .昭和三年一月一日~昭和二十年九月二日までの共同謀議(東亜、太平洋、インド洋地域の支配を確保しようとしたこと)
27.昭和六年九月十八日~昭和二十年九月二日までの中華民国に対する戦争(満洲事変)
29.昭和十六年十二月七日~昭和二十年九月二日までのアメリカ合衆国に対する戦争
31.同上期間の全英連邦に対する戦争
32.オランダ王国に対する大東亜戦争遂行
54.昭和十六年十二月七日から~昭和二十年九月二日までの戦争法規違反(残虐行為の命令授権、許可)
55.昭和十六年十二月七日から~昭和二十年九月二日までの訴因53にある諸国(アメリカ合衆国、全英連邦おけるフランス共和国、オランダ王国、フィリピン国、中華民国、ポルトガル共和国、ソヴィエト社会主義共和国連邦)の軍隊と数万の捕虜に対する戦争法規違反(違犯行為防止責任、無視による法規違犯)
訴因第一については、要するに昭和三年から敗戦までの間に日本政府、日本軍の指導的立場にあった者は全て侵略のための共同謀議を行っていたとしているわけであり、これ以上のコメントはくり返しになるだけなので控えようと思う。
訴因第二十七、二十九~三十二についても、米英蘭中に対する戦争行為が犯罪だと言われているわけで、当時も現在も交戦権を持たない主権国家はあり得ないし戦争行為そのものは決して犯罪ではないわけだがこれもくり返しになるのでコメントは控える。
訴因第五十四、五十五については、泰緬鉄道建設をその要因としているものである。
泰緬鉄道はご存知の方も多いと思うが、海上輸送路を断たれた日本軍が陸路での輸送路を確保しようと建設したタイ(泰)のノンブラドックとビルマ(緬甸)のタンビザヤを結ぶ軍用鉄道である。
昭和十七年七月に起工し昭和十八年十月に開通していることから相当な突貫工事であったことは事実である。
機械力のない当時のことなので工事は人海戦術に頼らざるをえず、英豪軍の捕虜と東南アジア諸国から徴募した労働者によって工事は行なわれた。
ここで所謂捕虜虐待と呼ばれる行為が全くなかったとはもちろん言えないが、当時の日本の置かれた状況を考えると十分な食料、医薬品、休養を与えることは物理的に不可能であったことは自明である。
当時日本軍は連合軍の援蒋ルート(中国に対する連合軍の補給ルート)を断つため、そして同盟関係にあったチャンドラ・ボーズの自由インド仮政府の独立運動を支援するためにもどうしてもビルマ戦線を維持する必要があった。
戦況が不利に傾くなかで、海上輸送路を断たれた日本が陸路にそれを求めようとしたのは自然の流れであったと判断できるし、大量の人員を投入してできるだけ短期で泰緬鉄道を完成させようとしたのも当然であろう。
戦況は待ってはくれないのだから。
東京裁判で俘虜虐待等戦争法規違反の証拠として提出され採用された資料は実際に証人が出廷して宣誓したものは全体の5%程度であり、残り95%についてはただ文書のみが証拠として提出され受理されている。
検察側提出証拠はその文書を作成した人物が実在しないものや、全くの捏造であってもなんら検証されることなく証拠として全て採用されているのである。
反面日本側弁護団提出の証拠は殆どが却下されました。
そのような状況での裁判で泰緬鉄道建設に関わって実際にはどの程度の捕虜虐待が行なわれていたのかは闇の中といって良いだろう。
実際に陸軍次官であった木村が捕虜虐待を命令するはずもなく、現地での状況が逐一報告されているわけでもなかったはずである。
仮にある程度の状況を把握していたとしても木村個人の力で何かができたはとても思えない。
英国はインドとビルマをアジアにおける生命線ととらえていたので戦後も手放す気などもうとうなかったけれども、そのインドとビルマを脅かした日本を許すことはできなかった。
木村大将はその復習の生け贄とされたと見るのが妥当であろうと思われる。
捕虜の待遇云々というのであれば、東京裁判が行なわれているまさにその同時期にラングーンのアーロン収容所に入れられていた日本軍捕虜に対する英軍の処遇がどうであったのか、日本人を犬猫同然に扱ったそれは完全にダブルスタンダードではないのかと言いたい。
木村大将に対する票決も七対四であった。
木村大将もまた、多数派と呼ばれる七名の判事によって死刑にされたのである。
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