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◎その7富士御室浅間神社

2017年03月06日 20時48分29秒 | 日記
◎その7 富士御室浅間神社
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 山梨県南都留郡富士河口湖町 勝山3951番地の小室浅間神社、を見学し、神社の宮司さんから神社についてのお話を聞きました。
 概要としては、境内は本宮と里宮からなる。本宮である山宮は富士山吉田口登山道の二合目に鎮座する。この山宮の境内は富士吉田市の中にある富士河口湖町勝山の飛び地である。富士山山中に最初に勧請された神社とされている。里宮は河口湖畔の勝山に鎮座する。
 歴史としては、文武天皇3年(699年)に藤原義忠によって創建されたと伝えられる。社名の「御室」は、かつて祭祀を石柱をめぐらせた中で執り行っていたことによるものである。
 天徳2年(958年)には、村上天皇により、氏子の祭祀の利便のため河口湖の南岸に里宮が創建された。中世には修験道、近世には富士講と結びついて発展した。戦国時代には甲斐武田氏の崇敬を受けた武田信玄公祈願所。現在の社殿は、明治22年に再建されたものである。
 現在の本殿は、慶長17年(1612年)に徳川家の家臣の鳥居成次によって建てられたものである。その後4回の大改修を経て、昭和48年(1973年)に富士山二合目から里宮に移築された。構造は、一間社入母屋造り、向拝唐破風造りで、屋根は檜皮葺形銅板葺きであり、桃山時代の特徴をもっている。国の重要文化財に指定されている。
 大正14年に県社に列格した。昭和46年には別表社に列せられた。
 別当を務めていた小佐野越後守は、戦国時代に小山田氏より境域の尊厳を取り立てさせ、諸役免許や 山中警護役を免許されている。また武田氏より他国の浅間神社を管轄することを任されている。なお、小佐野越後守は個人名ではなく代々引き継いでいる名前である。

 祭事としては、
流鏑馬 (4月29日)
天慶3年(940年)に藤原秀郷が平将門の乱を鎮定した帰り、戦勝を祝って御礼祭を行って流鏑馬を奉納したことから始まる。現在は、武田流流鏑馬神事として行われている。

 文化財としては、
重要文化財(国指定)
<本殿>
 昭和48年に富士二合目からの移転に際して移築、翌年5月に完工。入母屋造、銅板葺。『甲斐国志』によれば、慶長17年の建立。
山梨県指定有形文化財[編集]

<勝山記>
河口湖地方の日蓮宗浄蓮寺の僧侶らにより、1466年から1563年まで書き連ねられた年代記(『勝山記』または『妙法寺記』)の写本。「年代記」には「勝山記」系の諸本と「妙法寺記」系の諸本があり、ともに共通祖本を起源としていると考えられているが、冨士御室浅間神社所蔵の「勝山記」は前者の代表的写本(原本)で、諸本との比較検討から共通祖本に最も近い最善本と位置づけられている。本来は無題で、江戸時代に『甲斐国志』編纂に際して当本を調査した際に命名されるが当時は反映されず、1889年(明治22年)に田中義成が調査を行った際には「北室稟主日記」と題されており、明治29年に「勝山日記」と改称され、近年に「勝山記」の便箋が付けられた。昭和50年3月17日指定。安産祈願状 弘治3年(1557年)11月19日に武田晴信(信玄)により奉納された願文で、冨士御室浅間神社文書に含まれる。長女の北条氏政室黄梅院の安産・無病延命を記念したもので、黄梅院は天文23年(1554年)武田・相模北条・駿河今川の三国同盟のため北条氏政に嫁がせた。祈願成就の際には永禄元年6月から鎌倉往還の船津(富士河口湖町)の関所を廃止すると記されている。『戦国遺文』武田氏編-579号。信玄は永禄9年5月吉日(冨士御室浅間神社文書)、6月16日(諏訪家文書)にも同内容の願文を奉納しており、後者では同じく鎌倉往還の黒駒関の解放を約束している。同時期には信玄側近の市川家光や神官小佐野越後守らが主導して大般若経の転読も行われており、これらの願文奉納は北条家との同盟強化のみならず、富士信仰の街道であった鎌倉往還の便宜を図る意図もあったと考えられている。


1由緒
 文武天皇3年(699年)に藤原義忠によって霊山富士二合目に奉斉されたと伝えられる。その後708(和銅1)年に祭場の形を造り、720(養老4)、807(大同2)年に雨屋、社殿を創建された。
 富士噴火のため焼失したが、その後、しばしば再興、増設された。社名の「御室」は、かつて祭祀を石柱をめぐらせた中で執り行っていたことによるものである。 天徳2年(958年)には、村上天皇により、氏子の祭祀の利便のため河口湖の南岸に里宮が創建された。中世には修験道、近世には富士講と結びついて発展した。特に戦国時代には甲斐武田家三代に渡り崇敬を受け、武田信玄公直筆の安産祈願文を始め、多数の古文書が今も保管されている。現在の本殿は、慶長17年(1612年)に徳川家の家臣の鳥居成次によって建てられたものである。その後4回の大改修を経て、昭和48年(1973年)に富士山二合目から里宮に移築された。構造は、一間社母屋造り、向拝唐破風造りで、屋根は檜皮茸形銅板茸(ひわだぶきがたどうばんぶ)きであり、桃山時代の特徴をもっている。国の重要文化財に指定されている。 平成23年2月、二合目本宮境内地、並びに里宮境内地が『史跡富士山』に指定される

*屋根の名称分類の図 
構造は、一間社母屋造り、向拝唐破風造りで、屋根は檜皮茸形銅板茸(ひわだぶきがたどうばんぶ)き。


2ご祭神
 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の妻となり、火の中で皇子を無事ご出産なされたという故事から、良縁・子宝・安産・火防の御神徳が特に有名な富士山の女神。 また火山を鎮める水の女神ともされ、富士の豊富な湧水が多くの恵みをもたらした事から、流通、繁栄の神としても崇敬を集めている。



3本宮 富士山最古の社。
699年(文武天皇の御世)藤原義忠公が霊山富士二合目へ奉斉。
722年(養老4年)雨屋建立。
807年(大同2年)に坂上田村麿郷が蝦夷征伐の御礼として社殿を創建。
噴火のための数次にわたる炎上と、自然条件厳しい場所のための不朽激しく、 そのつど皇室及び、武田家をはじめとした有力な武将等により再興が 重ねられてきた。
現在の建物は、1612年(慶長17年)に徳川家の臣で当時当地方の領主鳥居成次が 造営、その後4回の大改修を経たものを、永久保存のため昭和49年に現在地へ 遷祀したものである。
構造は、一間社(神社本殿で,正面の柱間が一つのもの。)入母屋造り、向拝唐破風造(こうはいからはふづく)り、屋根は檜皮葺形銅板葺(ひわだぶきがたどうばんぶ)きで桃山時代の特徴をもったすぐれた建造物である。
昭和46年別表社に列せられる。




4里宮
958年(天徳2年)村上天皇が、崇敬者の礼拝儀祭の便を図るため、 老松繁る現在の場所へ建立。
以来武田家、小山田家、徳川家からあつい信仰や手厚い庇護を受けて来た。
現在の建物は、明治22年に再建。
河口湖に面し、喧騒と離れた静寂の中で、 歴史の風を感じられる。





5御宝物 山梨県指定文化財

①勝山記
 564年から1561年の間。法華宗の僧によって書き継がれたといわれ、山梨県の中世を研究する上で一級の資料である。
 ほぼ毎年のように戦や災害が起こっていたこと、そのために多くの人々が犠牲になっていた事を克明に記している。
その一方で、川除(江戸時代、堤防を堅固にし、川底をさらい、河川の氾濫を防ぐ工事をすること。)(永禄2年)や用水路の開設(天文23年)など、この地域の人々が様々な開発によって生活の安定を保とうとしていたことがうかがえる。



②武田晴信(信玄)願文2通
願文2通
 晴信(信玄)が武田・北条・今川の三国同盟のため北条氏政に嫁がした長女黄梅院の安産を願い当社に奉納した願文。
 願いがかなえば船津の関所を開放すると記している。
黄梅院は氏政との間に北条家五代目当主となった氏直などを生んでいる。



③古文書23通
 信虎、信玄、勝頼の武田家三代及び家臣をはじめ、武田家滅亡後統治した徳川の臣の印判状、許定書、指令状等。



6富士河口湖指定文化財

①武田不動明王(木像) 武田信玄目刻といわれ、戦国時代の武将らしさのある剛健な姿。



②聖徳太子(木像)
聖徳太子は富士山最初の登山者といわれる。
増派乗馬姿で江戸時代初期の作といわれている。



③角行(鋳物)
角行は、富士講の祖。
像は、富士講行者「村上光清」の菩提寺である駒込の専修院に祀られていたが、 角行没200年にあたる1845年(弘化2年)に報恩のため当社へ奉納したもの。



④富士山二合目奥宮

富士山中の重要な信仰拠点であった奥宮。 >>富士山二合目奥宮を見る
富士山には一合目から頂上まで、様々な宗教施設が設置されていましたが、中でも富士山二合目は特別な位置を占めていました。
同じ北側に位置する吉田口(海抜850メートル)、 川口(900メートル)という信仰登山口集落に対し、富士山二合目は海抜1700メートルという高所にありました。しかしながらその場所は、富士山中にも関わらず、屋根筋によって山頂からの融雪災害や、吹き下ろす冷風を避けることができると共に、水場もある絶好の立地条件を有しておりました。
境内の平地は屋根の尖端を人為的に開削したものと思われ、ここが富士山中の重要な信仰拠点であったことを示しています。
当社は699(文武帝3)年に奉斎したと伝えられています。
その後708(和銅1)年に祭場の形を造り、720(養老4)、807(大同2)年に雨屋、社殿を造ったが、富士噴火のため焼失したといわれています。
現在は本宮本殿は永久保護のため里宮地に遷座していますが、拝殿は当時のまま、奥宮社を新たに建立しており、毎年6月に奥宮祭を斉行しております。
平成23年2月、河口湖畔に位置する里宮社境内地と共に、富士山世界文化構成施設『史跡富士山』に登録されております。



*流鏑馬 当社では、4月29日に実施しております。
天慶3年(940年)に藤原秀郷が平将門の乱を鎮定した帰り、戦勝を祝って御礼祭を行って流鏑馬を奉納したことから始まりました。 現在は、武田流流鏑馬神事として行われています。

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