goo blog サービス終了のお知らせ 

モー吉の悠悠パース留学絵日記

この日記では、パースでの留学生活での出来事を中心に、心象風景を交えて、写真とエッセイにより、絵日記風に綴っています。

遊びの友 N君に捧ぐ 6月20日

2014-06-22 00:00:31 | 捧げる言葉
遊びの友 N君に捧ぐ 6月20日

 今、ここバースは冬の到来を感じる季節です。
 私の住むアパートメントの中庭には落ち葉が舞い降り、時折ストームの続く日々があります。夜は5℃前後に冷え込むこともあって、ホットカーペットは欠かせません。それでも、昼間は20℃前後まで上がり、天気の良い日は快適な気候です。




 今から一月程前の丁度落ち葉が舞い始めた頃、N君の突然の訃報が届きました。
 彼とはこの一月に帰国した折りに会っており、その時、彼は元気そうで、名古屋に集合してくれた他の友たちを含め四人で飲み、語り合い、楽しい時間を過ごしたものでした。連絡をくれた友の言葉によれば、彼はそれからひと月弱の二月に亡くなったとのことでした。
 
 今想うと,あの時既に死期を自覚していた彼は、我々に会うためにわざわざ東京から来たのだろうか。



 憶えば、私が彼を知ったのは、大学に入って間もない頃です。

 彼は大阪出身で、背が高いハンサムボーイでしたが、気取らないひょうひょうとした振る舞いと、ひと懐っこい笑い顔のためか、親しみを感じ、声を交えるようになりました。
 当時、彼はマンドリンクラブとバイトに明け暮れ、授業ではあまり顔を会わせることはありませんでした。
 当時の彼の逸話として覚えているのは、成人式に友たちと献血に出かけた際、彼はアルコールが検出されたため、献血を拒否されたことです。みんなでそれを話題に大笑いした記憶があります。それは彼の当時のの生活の有様をしる逸話として鮮明に記憶されています。



 その後専門コースに入った折り、彼は私と同じ民事訴訟法のゼミに入ってきました。
そのゼミは司法試験を目指す仲間が多いところでしたので、マンドリンクラブとバイトに明け暮れていた彼が入ってきたのには、少し驚きました。
 そのゼミでは、私は彼とペァーを組んで研究テーマに取り組むこととなり、彼とは一層親しくなることとなりました。彼は最小の努力で最大の結果を得ようとする要領の良いところがあり、私と正反対の研究態度でしたので、その点では見習うべきところも多く、彼の影響で楽をしたところもあり、楽しい研究仲間でした。
 当時、我々の仲間で、ガールフレンドがいたのは彼だけでした。その点、青春を一番謳歌したのは彼ではなかっただろうかと思っています。
そのガールフレンドと彼との逸話は、彼から後々話を聞いたり、相談を受けたりしたこともありました。彼にとっては、その頃が一番楽しくもあっただろうし、人生の中での一番の思い出ではなかっただろうか。

 彼との付き合いは社会人になってからも続き、むしろだんだんと多くなりました。彼は東京の半官半民の公庫に就職し、最初は前橋支店の配属となり、私は地元の役所に務めることとなりました。
 彼が前橋支店にいる頃、この一月に集まった友たちと、彼の宿舎を起点に尾瀬を旅したのは楽しい思い出です。
 彼は生粋の都会人でタバコと喫茶店がないと生きていけない人間で、尾瀬沼に入っても、喫茶店がないかと、探すような変人気質の持ち主でした。


 その後も、その仲間たちと伊豆七島の式根島を旅したのも楽しい思い出です。
 私は,その他にも、彼の計らいで、伊豆七島の三宅島、下田と楽しい旅をしています。
 私も彼を渥美半島でのキャンプに誘ったことがあり、その際には、私の実家に彼を泊めたこともありました。私の亡き母を知る数少ない親友でした。

 そして、その他にも彼には感謝しなければならないことがいくつかあります。
 それは、私が名古屋の役所勤めということで、しばしば東京の霞ヶ関へ出張の機会があり、その度に公庫の本店勤めとなっていた彼が,東京を案内してくれたことです。
 公庫の給与は高く、また彼は独身貴族ということで、私を赤坂の料亭や、当時有名であった料理人道場三郎の店などの高級料理店を案内してくれました。薄給の公務員では行けないようなところばかりでした。
 また、仙台支店にいた折りには、たまたま私が仙台市役所へ出張の機会があり、その時には、仙台の夜のネオン街を案内してくれました。
 そして、最近では、私が退職して間もない頃、私の写真がサライ風景写真大賞に入選し、東京で展示会が開催された折り、彼は喜んで飛んで来てくれました。
 振り返ると彼との思い出はたくさんあり、ここに印したのは、その一旦にすぎないものです。
 
 そう言えば、美食家の彼は50歳の頃、大腸がんを煩い手術したことがあり、その時は早期発見であったため、その後も元気に暮らしていたようでした。
 そして、正真正銘の独身貴族を貫いた彼は、彼の人生プランの下、55歳にして早期退職し、悠々自適の暮らしを続けていました。そして、数年前母親を亡くし、彼女を比叡山に永代供養をお願いし、安心したと言って、その帰りに名古屋によったことがありました。
 その折りには、私は、友たちを名古屋に呼んで、みんなで彼を慰めたことがありました。
その時、彼は、嫁いでいるお姉さんを除けば、正に天涯孤独の身になったのでした。


 彼の人生はどうであったのだろうか。
 私はその一端を知る一人ではありますが、彼が死ぬ間際に感じた念いは、どんなものだったのか、当然知る由もありません。なぜなら彼はいつも、私たちに人懐っこい笑い顔を見せていたからです。この一月に会った折りにも同じ振る舞いでした。


 私は、そんなことに想いを巡らしながら、翌日シティの街を散策していました。
 街中には、人々に混じって、かもめたちも、いつものよう楽しげに飛び回っていました。私はあのかもめたちの中に、彼がガールフレンドであったあの彼女とともに楽しげに飛び回っているような気がしてなりませんでした。
 正真正銘の都会人であった彼は、この街でも、あの尾瀬での時と同じように、喫茶店を探しまわっているのだろうかと、ふと思い、思わず笑みがこぼれてしまいました。
 そして、カフェテラスでコーヒーを飲みながら想いを巡らしていると、一羽のかもめが私のテーブルの近くに舞い降りてきました。

 私は思わず、「よう、N! コーヒーでも一緒に飲もうか!」と、心の中で声をかけていました。






亡き母に捧ぐーメッセージー

2012-10-28 03:00:42 | 捧げる言葉
亡き母に捧ぐーメッセージー 10月14日小雨のち晴れ

 今日は、おふくろの葬儀の日です。

 おふくろの死を知ったのは、12日の深夜で、めいからのメールでした。
 メールは日本時間の午後6時から三回届いていましたが、その日は忙しい日で、メールと電話をチェックしたのが、深夜になってしまったからです。午後から新しく引っ越すrent houseの立ち会いがあったので、午後から学校を休み、それが終わり、鍵のチェックなどをしていたら、7時過ぎにになっていたからです。午前1時過ぎに返信メールをうち、電話は深夜でしたので、明るくなってからにすることとし、今後の対応の仕方などを調べていましたら、4時過ぎになっていました。パースから名古屋への直行便がないことと、学校への届出が必要なのですが、あいにく週末で学校が休みのため、葬儀にはおそらく間に合わないだろうと思いましたが、帰国するつもりで準備を始めました。11時ころ、実家に電話連絡し、兄と相談した結果、葬儀に間に合わないのなら、49日の時にした方がよいのではないかということになり、葬儀へ行くことは残念ながら見送ることとしました。
 おふくろの最後の表情を見れないことを悔やみ、おふくろにも申し訳ないと心の中でお詫びをしました。


 今想うと、先日のブログ「写真の友K君に捧ぐ」で書いた、数日来のかもめのの奇怪な行動は、おふくろからのメッセージもあったのだろうかと、想うようにもなりました。
 
 そのメッセージはなんだったのだろうか。
 自分の死が近いことを告げるものなのだったのか、私の留学を喜んで励ましてくれているものだったのだろうか。



 おふくろは、94歳まで生きたのであるから、天寿を全うした人生として、おそらく幸せな最後を迎えたものと想いますが。

 おふくろの人生は、どんなものだったのだろうか。
 岐阜の山あいの村の庄屋の長女として生まれ、若い頃母親を亡くしたため、長女として兄弟の面倒を見ることになり、苦労したと聞いています。
 私が幼い頃、おふくろの病弱な弟が、頼って何か相談に来ていたことを覚えています。食料不足の戦争中は、兄や姉たち子供を抱え、苦労したことも聞いております。
 
 戦後も、父が始めていた工場の関係でも苦労したものと思います。
 ただ、そのころ、日本の復興とともに、地元の自動車産業の繁栄の礎を築いたその時期が、おふくろにとっても、一番良い時代ではなかったかと思います。
 今程生活も便利ではなく、豊かではありませんでしたが、人々が、共に働き、共に遊び、共に喜び、共に悲しんだ良き時代ではなかったかと、思っています。
 その故郷の廻りには、まだ田園地帯が広がり、田畑の小川には、めだか、オタマジャクシ、どじょうなどの生き物がいて、しじみやたにしなどをとることもでき、初夏の夕べには、蛍が舞う、生きとし生けるものが共存していた時代でした。
 私はその時代を、「共立(ともだち)の時代」と呼び、私のホームベージの「あの日を旅する」で印す予定です。
 私が「共立の時代」と命名したその言葉は、奇しくも、親父が創業した工場「共立製作所」の名前でもありました。親会社の自動車工業は、その創業者の名を冠していましたが、私は、その「共立(友達)」の精神を宿したその名の方が好きでした。




 その頃、おふくろは、地元の奥さんたちとともに、工場の手伝いをしたり、おやじがよく遊びに連れて行った地元の子供たちや、九州、四国からやって来て親父の工場で働いている若者たちの面倒までみていました。その頃のおふくろは、まさにその言葉どおり、われわれをそのおおきなふくろ(心)で包んでくれた存在だったと、今想っています。
 
 その「共立の時代」の精神が徐々に失われ、変貌していったのは、いつの頃からだろうか。

 今想えば、それは、私が中学生の頃、私たちの住んでいた街の歴史ある名が、親会社のその名に変わった時期からではないだろうか。
 その頃から、親会社の急成長とともに、町も発展することになり、生活は確かに豊かにはなりました。それとは裏腹に、共に働き、共に遊び、共に喜び、共に悲しんだ「共立の精神」は徐々に失われ、生きとし生けるものが共存していた豊かな自然を失うこととなりました。
その変貌は果たしてよかったのだろうか。






 そんなことを考えながら、14日の葬儀の日、私は引っ越しの準備を終えて、アパートメントへの帰りの途についていました。
 その折、バス停で東の空を見ると、パースでも珍しい程の鮮やかで大きな虹がかかり、ビルの窓から人々が歓声をあげていました。私は、その虹を眺めながら、きっとおふくろも成仏してくれたものと想い、少しほっとしました。
 そう言えば、おふくろの死を聞いてから、私が沈んでいると、妻が、「お母さんは、教育熱心な方だったから、この地で、勉強をしっかりすることが一番の親孝行ではないのかな?」と言って励ましてくれたことを思い出し、私も、虹のかなたに向かって、決意を新たにしました。
 
 空には、あのカモメたちが、おふくろの安らかな成仏を見送るように、優雅に飛び交っていました。






写真の友 K君に捧ぐーメッセージ 

2012-09-30 01:15:55 | 捧げる言葉
写真の友 K君に捧ぐーメッセージ 9月29日(土)

 最近、気になることがあります。
 それは・・・
 
 先日、シティの街に出ると、上空を旋回している一羽のかもめが、急降下して私の方へ目がけて飛んで来て、私の横を飛び去り、急上昇して飛去っていきました。そんなことが二回程続き、不思議に思っていました。



 K君を知ったのは、私が役所に入って間もない頃です。
 私は、最初のボーナスで念願のカメラを手に入れ喜んでいました。そして、その頃、隣の係にいたK君が、「写真でも撮りに行こうぜ」と、ぶっきらぼうな声で誘ってくれました。
 それがきっかけで、彼とあちこちへ撮影旅行に出かけることになったのです。旅行といってもたいそれたものではなく、日帰りか、一泊の旅行で、ほとんど彼の持っていた車に乗っての旅でした。彼はその頃の若者のあこがれのスカイラインGTに乗っていましたが、特に自慢するでもなく、ごく普通に乗りこなしていました。
 
 私のカメラはニコンFフォトミックで、当時人気のものでしたが、彼はその頃、既にブロニカの一眼レフ(6×6)中判カメラを持っていました。彼の技術は確かなもので、たくさん撮るのではなく、確かな少ない写真を撮るスタイルでした。私は、まだ、その域までは達してしないと常々思い、彼を見習わなければいけないと、思ったものでした。
 
 彼とは、よく大和路を旅しました。あるとき、若草山の山焼きの瞬間を見ようと、時間を合わせて行ったのですが、現地に着いたときには、既に終わったあとで、二人で苦笑いをして酒を飲んだ懐かしい思いでもあります。二人とも入江泰吉の大和路の写真が好きで、私も二冊ほど写真集を手に入れよく眺めていました。
 東大寺の裏山に登り、朝もやのなかで、朝日に光り輝き浮かび上がる東大寺の甍を観て、その時代の人が眺めたと同じ風景だと言って、二人して喜んだものでした。
 また、信州の夜叉神峠にテントを張って、月光に輝く山々を眺めて感動し、その地の夜空と街中のそれとがあまりに違うので、街中で撮る写真はカーテン越しに撮る写真で、本物の風景だろうか、などと話し合ったものでした。 
 
 そして、彼と一緒に参加した職員写真撮影会で撮った私の写真がグランプリをとり、彼が準グランプリを取ったとき、彼の腕前を知る私は、彼の前で遠慮がちに喜んでいましたが、彼は素直に一緒に喜んでくれました。

落葉とモデルのいる風景

 その後、私の職場がかわり、それにつれて彼との撮影旅行もなくなりましたが、お互いの結婚式に参列し、それぞれ写真を取ってプレゼントし、私の書棚には、彼が撮ってくれた写真が大切に飾られています。
 それから20年余りが経過し、毎年の年賀状の挨拶が彼とのコンタクトの場となりました。彼の関心は写真から書へと移り、年賀状も端正な書での挨拶となりました。私も、家族旅行での写真が主になり撮影旅行といったものもなくなりました。 
 
 退職も近づいた頃、私は久しぶりに一人旅の撮影旅行で沖縄を訪れ、良い写真が撮れたので、彼に連絡をして、沖縄料理店で彼に会うことになりました。いつも辛口の批評家である彼も、私の自身作を観て、大変褒めてくれました。そのとき、泡盛を飲みながら写真談義でもりあがり、久しぶりに撮影旅行に行こうかということになり、約束をして別れましたが、その後、お互いの都合が合わず、その約束は実現しませんでした。


昔は誰が歩いたのだろう
 
 その後退職した年、私は、その時の私の写真への彼の評価に気を良くし、その一枚を初めて雑誌へ応募しました。それが幸運にもサライ風景写真大賞に入賞することとなりました。それをきっかけに、私の写真への情熱が再燃し、Webサイトに「モー吉の写真館 達真館」をホームページとして立ち上げました。そこには、彼との撮影旅行での写真も数点掲載してあり、是非彼に観てもらい、また彼に的確な批評をしてほしいと思い、はがきでホームページの案内を出し、彼からの連絡を心待ちに待っていました。


 それより、数ヶ月前の正月に、彼も久しぶりに写真を印刷した年賀状を送ってくれました。それには、窓越しの一輪の花と添え書きが書かれていました。
 私が心待ちにしていた返事は、思いがけなく彼の奥さんからのものでした。胸騒ぎがする心で、その内容を読んで愕然としました。彼は、その年の正月を過ぎた二月に亡くなっていたのでした。
 そして、早るこころで、彼からの年賀状を取り出し、その写真と文面を読み返してみました。そこには、窓越しに咲く命の灯とも想える、かすかに赤く染まる一輪の花が、そして、添え書きには、「今年を最後に、年賀のあいさつをご無礼します」と彼らしくぶっきらぼうに書かれていました。
 
 私は、なぜその時気が付かなかったのだろうと、大変悔やみました。
 窓越しの写真は、病室からだろうか、自宅の部屋だろうか、今にも消えようとする一輪の花の命を、確かに、そして、見事に伝えるものでした。彼はその花を眺めながら、その花に、消えようとする自分の命をたくしていたのだろうと、彼の心の声を知ると、私は涙がとまりませんでした。


 あのカモメと遭遇して数日後、シティの街に出ると、あの時と同じように、上空を旋回していたカモメが、私を見つけたかのように、急降下してきて、私のそばを飛び抜けようとしたその時、羽ばたきとともに「また、写真を撮りに行こうぜ」と、K君のあのぶっきらぼうな声を聞いたような気がしました。
 想えば、私がこの地へ来て、写真の勉強をすることになったのも、この地から遥かかなたの日本へ、私を呼び寄せる彼の「メッセージ」が届いたからだろうか。

 


 このパースの地は、「peace」の語源「perth」の名に由来し、平和な街、楽園都市と呼ばれています。この地が、エデンの園に帰還したK君にふさわしい場所だと想うと、私は、この街が一層好きになりました。









 私はパースの澄みきった空に向かって、「また、写真を撮りに行こうぜ」と大声で呼びかけました。 私の「メッセージ」が彼のもとへ届くように。