・<世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない>【「ダンマパダ(真理のことば)13-170」岩波文庫】
・楽しい人生になってきたら、幸せを存分に味わっておく。
苦しい人生になってきたら、諸々の学びを心に刻み付けておく……。
苦の経験がなければ、他人の苦しみに鈍感になるだろう。
苦が、「悲(カルナー)」の心を養ってくれる。
楽しい人生も良い。
苦しい人生もまた良い……。
苦しい人生になってきたら、諸々の学びを心に刻み付けておく……。
苦の経験がなければ、他人の苦しみに鈍感になるだろう。
苦が、「悲(カルナー)」の心を養ってくれる。
楽しい人生も良い。
苦しい人生もまた良い……。
・複数の脳から指令が届くのだから、葛藤が生じるのは当然である。
煩悩の声にも、ダンマの声にも、葛藤している状態にも、サティを入れる。
どの道を行くことになろうとも、経験する出来事に一瞬一瞬サティを入れ、心に刻み込んでいけばよい。
善い経験も、悪しき経験も、純粋経験のデータが智慧の源泉となっていく……。
煩悩の声にも、ダンマの声にも、葛藤している状態にも、サティを入れる。
どの道を行くことになろうとも、経験する出来事に一瞬一瞬サティを入れ、心に刻み込んでいけばよい。
善い経験も、悪しき経験も、純粋経験のデータが智慧の源泉となっていく……。
・悟りを求めたいが、まだこの世の楽しみも捨てたくないのだ。
瞑想とダンマに浸りきる出家の生活に憧れるが、便利で快適な都会の暮らしも離れたくない。
快楽を求め、やりたい放題をしたいと、本能の脳から強力に響いてくる煩悩の声。
貪・瞋・痴をコントロールせよ、と理性の脳から聞こえてくるダンマの声……。
瞑想とダンマに浸りきる出家の生活に憧れるが、便利で快適な都会の暮らしも離れたくない。
快楽を求め、やりたい放題をしたいと、本能の脳から強力に響いてくる煩悩の声。
貪・瞋・痴をコントロールせよ、と理性の脳から聞こえてくるダンマの声……。
・ウペッカ(無差別平等に観る心所)が使えれば、ものごとを淡々と見送っていくことができる。
しかし、愛に執着し、憎しみに執われてしまう心が本当に変わるためには、悟るべきものを悟らなければならない。
どんな物事も因果のエネルギーによって転変し、無常に変滅していく実状。
甘美な妄想を胸に抱き、いつまでも手放さないでいることはできるが、状態も本質も一瞬一瞬変滅していくものには執着しようがないではないか……。
しかし、愛に執着し、憎しみに執われてしまう心が本当に変わるためには、悟るべきものを悟らなければならない。
どんな物事も因果のエネルギーによって転変し、無常に変滅していく実状。
甘美な妄想を胸に抱き、いつまでも手放さないでいることはできるが、状態も本質も一瞬一瞬変滅していくものには執着しようがないではないか……。
・今、当事者として、現在進行形で展開している出来事の渦中にいながら、同じように、淡々と客観視ができないだろうか。
望んでできるものではないだろう。
そこで、サティというメソッドの力で、強引に、客観的な視座をセットしてしまう。
The修行……。
望んでできるものではないだろう。
そこで、サティというメソッドの力で、強引に、客観的な視座をセットしてしまう。
The修行……。
・歳月が流れ、怨みも愛執も、今となっては本当にどうでもよいことになったとき初めて、事態をありのままに眺めることができるだろう。
もはや、執着がない。。
だから、理想的なサティが入りやすく、ありのままに客観視ができるのだ……。
もはや、執着がない。。
だから、理想的なサティが入りやすく、ありのままに客観視ができるのだ……。
・幸福な環境が完全に整っていても、心に嫌悪があれば、不満足があれば、嫉妬や高慢があれば、安らぎは訪れない。静けさが拡がることもない……。
聖者たちは、どんな劣悪な環境であっても、そこを天国のように見なして暮らしている。
心に一点の曇りも汚染もないからです。
聖者たちは、どんな劣悪な環境であっても、そこを天国のように見なして暮らしている。
心に一点の曇りも汚染もないからです。
・学習する。知的理解を深める。自分自身の経験に照らし合わせて関連づける。応用問題として日常茶飯の事柄に適用し、検証する。追試をこころみる。外から来たものか、自分の中から生まれたものなのか、自分でも分からなくなるほど繰り返し、無意識の層に手渡して忘れてしまう。
そして、空っぽの心で淡々と瞑想を開始する……。
そして、空っぽの心で淡々と瞑想を開始する……。
・進むべき道を探し求めて遍歴する時代が終れば(→教相判釈)、生き方の流儀が確立する。
例えば「悪を避け善をなす」等の判断基軸が、いつでも迷いなく自動的に働く状態となるだろう。
あとは、心を空っぽにして、どんな場面も即興で水の流れるように生きて、誤まつことはない。
悠々と、与えられたものに従いきって、なすべきことをなしながら、この生涯を終ればよいのだ……。
例えば「悪を避け善をなす」等の判断基軸が、いつでも迷いなく自動的に働く状態となるだろう。
あとは、心を空っぽにして、どんな場面も即興で水の流れるように生きて、誤まつことはない。
悠々と、与えられたものに従いきって、なすべきことをなしながら、この生涯を終ればよいのだ……。
・戯れに始めた瞑想だったとしても、思考が止まり、エゴの干渉が一掃されると、心が空っぽになるだろう。
心が空っぽになると、内奥に響く真実の声に耳を澄ますことができる。
その声に従いきっていくと、それ以外にはあり得ない、本来の道がおのずから開かれていく……。
心が空っぽになると、内奥に響く真実の声に耳を澄ますことができる。
その声に従いきっていくと、それ以外にはあり得ない、本来の道がおのずから開かれていく……。