こんにちは。
たかはしです(^_^)
春演まであと約1か月になりましたね!早いものです…
きょうはメインのチャイコフスキー交響曲第5番について調べたので載せますー
文章力ないのでわかりづらかったら直接聞いてやってくださいー
長くなっちゃうので今日はこの時のチャイコフスキーについて。
曲が書かれたのは、彼の生涯でもっとも順風満帆な時期のことでした。
1880年代、チャイコフスキーは多産な国民的作曲家として大人気!外国でも、1878年から毎年行っていた演奏活動によって、ロシア人作曲家の筆頭として一目置かれていました。
1878年から10年間、チャイコフスキーは演奏旅行に出かけています。その中では多くの著名な音楽家との交流があり、ブラームスやグリーグ、マーラー、ドヴォルザークといった人たちとの交流で触発され、交響曲の作曲意欲復活!!
曲にもそれは反映されているのかたとえばドヴォルザークの『新世界より』と同じ手法で「宿命」の主題がすべての楽章に出てきます!これについて詳しくは次回。
1888年4月には自然豊かな田園風景の広がるフロロスコエ村に引っ越し、作曲に集中する環境を整え、この交響曲はここでこの年の5月から8月にかけて書かれています。

フロロスコエはこんなところです
チャイ5には、、晩春から初夏にかけての、フロロフスコエ村の明るく美しい自然の風景や小鳥の囀りのような音型が垣間見られ、チャイコフスキーの後期の3つの交響曲の中で、その明るさが特徴的。
しかし、このチャイコフスキーはすごーく繊細だから?指揮者としての自分にめっちゃ自信がなくて作品に否定的な感情を抱くことが多かったそう。チャイ5も然りで、最初本人は気に入っていなかったそう。自分の指揮で演奏するとき、的確にオケに指示が出せなくて落ちこんだことも一因と言われています。当時「この作品を火に投げ込むつもりだった」ところまで憎んでしまったといったことも。
しかしその後大指揮者ニキシュさんの名演奏で「やっぱりいい作品♪」となって今に至るそうです。
燃やされてなくてよかった(笑)
では今回はここまでーまた気が向いたら曲についても書きます(笑)
たかはしです(^_^)
春演まであと約1か月になりましたね!早いものです…
きょうはメインのチャイコフスキー交響曲第5番について調べたので載せますー
文章力ないのでわかりづらかったら直接聞いてやってくださいー
長くなっちゃうので今日はこの時のチャイコフスキーについて。
曲が書かれたのは、彼の生涯でもっとも順風満帆な時期のことでした。
1880年代、チャイコフスキーは多産な国民的作曲家として大人気!外国でも、1878年から毎年行っていた演奏活動によって、ロシア人作曲家の筆頭として一目置かれていました。
1878年から10年間、チャイコフスキーは演奏旅行に出かけています。その中では多くの著名な音楽家との交流があり、ブラームスやグリーグ、マーラー、ドヴォルザークといった人たちとの交流で触発され、交響曲の作曲意欲復活!!
曲にもそれは反映されているのかたとえばドヴォルザークの『新世界より』と同じ手法で「宿命」の主題がすべての楽章に出てきます!これについて詳しくは次回。
1888年4月には自然豊かな田園風景の広がるフロロスコエ村に引っ越し、作曲に集中する環境を整え、この交響曲はここでこの年の5月から8月にかけて書かれています。

フロロスコエはこんなところです
チャイ5には、、晩春から初夏にかけての、フロロフスコエ村の明るく美しい自然の風景や小鳥の囀りのような音型が垣間見られ、チャイコフスキーの後期の3つの交響曲の中で、その明るさが特徴的。
しかし、このチャイコフスキーはすごーく繊細だから?指揮者としての自分にめっちゃ自信がなくて作品に否定的な感情を抱くことが多かったそう。チャイ5も然りで、最初本人は気に入っていなかったそう。自分の指揮で演奏するとき、的確にオケに指示が出せなくて落ちこんだことも一因と言われています。当時「この作品を火に投げ込むつもりだった」ところまで憎んでしまったといったことも。
しかしその後大指揮者ニキシュさんの名演奏で「やっぱりいい作品♪」となって今に至るそうです。
燃やされてなくてよかった(笑)
では今回はここまでーまた気が向いたら曲についても書きます(笑)
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